飢饉の発生が決定的になった八月の下旬から、秋田方面への流民が発生し出した。「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。老人や少年で歩行ができない者は打ち捨て、妻子・兄弟も散り散りになるという混乱がみられた。しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。
当時、藩主津軽信寧は江戸在府中で、家老森岡主膳・用人山田彦兵衛らが廻米の強化を中心とする財政再建策を推し進めていた。飢饉が起こると彼らは領民の誹謗の的になり、結局十一月の末に至り免職となるが、政務担当者が代わったといっても、藩当局も有効な手だてを打ち出せるわけではなかった。逃散する飢民らは、口々に「殿様がいないような国にいるわけにはいかない」といったり(『天明卯辰日記』)、「主人」のいる国へ行くと「悪言」したという(資料編近世2No.五五)。無力な領主に失望し、たとえ死んだとしても、他国に活路を見いだそうとする飢民の必死な思いを伝えている。
農村を捨て弘前城下に流入してくる飢民も増加した。藩は天明三年八月二十四日に飢民対策として和徳町に「施行小屋」を建て、二十六日から炊き出しを開始した。しかし、飢民ばかりでなく困窮した城下の町人も殺到してすぐに維持できなくなってしまった。そこで、九月三日に施行小屋を閉鎖し、一人に付き米一升(一八〇〇cc)と銭一匁ずつ与え、居村に帰らせようとしたが、この段階で総人数は二七三五人に及んだという。だが、居村に帰ったところで食糧を手に入れる当てもない飢民たちは居座るしかなく、困った藩当局は施行小屋に代えて楮町(こうじまち)に新たに「非人(ひにん)小屋」(のち施行小屋と再び改称)を作り、足軽の管理から乞食頭の管理に任せた。建物の建設も乞食頭に任せ、九月七日から一人に付き米三勺(一勺=一八cc)を朝夕二回粥として炊き出して配給した。小屋の運営を非人組織に任せたということは、農村から脱落した農民を非人同様と見なすのも同然であった。そのため抵抗を感じたのか、九月七日に収容された者は男女合わせて二三〇人と激減し、一泊しただけで帰った者もいたという(施行小屋の経緯については主として『天明卯辰日記』による)。
この間、他領へ逃散していた飢民も多く連れ戻され、非人小屋に収容された。江戸詰の藩士添嶋源八郎は国元へ帰る道すがら、他領へ逃散していた者四六〇人を連れ戻したので、非人たちはことのほか源八郎を恨んだという。このころになると収容者も再び増加し、千五、六百人になった。藩は再び管理が困難になり、十月九日にも希望者に手当を与え、九四二人を帰村させたという。
施行小屋に残ったとしても命を保証されたわけではなかった。十月三日には、他領から連れ帰された収容者が、このようなわずかな炊き出しでは生きていけないと、役人に対し抗議・乱暴に及んだ。その後も同十八日に施行小屋の者数百人が手分けして商売物を強奪した。彼らは殴られ傷を負わされても、飢え死にしてしまう旨を訴えて、必死になって略奪していったという。飢民にとっては生きていくためのやむをえない行動だった。ほかにも屋敷から盗みを働いたりする事件が頻発し、藩は大組諸手足軽をいつでも派遣できるよう、警備体制を強化した。
施行小屋を管理する非人らは、一方で餓死者の死体処理などの作業に携わっていた。施行小屋が設置された場所も、かつての寛延の飢饉の際、行き倒れの者を埋葬するために乞食頭に与えられた土地であり、非人小屋は死の場所という印象が強かった。実際に小屋の中で飢えや病気によって死んでいく者も多かった。冬が訪れる十月にもなると毎日七、八人~一〇人ずつ死ぬようになり、十月の死者二四六人、十一月六一九人、翌天明四年一月には一三七〇人にも及んだと『天明卯辰日記』は記録している。その死体処理のため、和徳町の裏通りに八間四方深さ二丈の穴を六つ七つ掘り、死体を簀巻きでくるんで捨てたという。ある時は、半死半生の者までまとめて投げ入れたため、土が赤く染まり、草も生えなかったという悲惨な話を伝えている。
もはや八月以降は津軽領では一揆や騒動は起こっていない。飢饉に至るまでのプロセスとして、一揆や騒動の段階ではまだ民衆は飢饉への道を必死に回避しようとしているのであり、藩からの援助が望めないとわかった段階で組織的な抵抗は崩れて個別的・集団的な盗みや略奪を行うようになる。さらに飢えが進行すると、盗みさえできず、餓死に至るという悲惨な流れがみられる(菊地前掲書)。天明三年から四年にかけての冬はまさにその状況であった。