天明三年七月以降、青森騒動に触発される形で領内各地で打ちこわしが発生した。青森と並ぶ津軽領の主要港である鰺ヶ沢でも、七月二十二日に廻米の停止、米留番所の廃止、小売り米の値下げ(鰺ヶ沢の場合、一匁につき一升五合)を求めて、町人が徒党を組み名主方へ押しかけて、町奉行へ強訴を要求する動きがあった。騒動のプロセスおよび要求の内容など青森と共通する部分が多い。この騒動は廻米の一時停止などの処置が講じられたため、打ちこわしまでには至らなかった。町人への払米五〇〇俵の支給、一匁につき一升五合での飯米の販売も実施された。この騒動の前に「青森者と南部者三〇〇〇人が昨夜五所川原で鶴屋・飛嶋両家を潰し、さらに木作(現西津軽郡木造町)を通過して、鰺ヶ沢に『家潰』に押し寄せようとしている」という流言の飛んだことが「国日記」に記載されている(資料近世2No.五六)。五所川原の打ちこわしもむろん事実ではない。この事件には、青森騒動に触発された集団心理がかいま見え、連鎖的な騒動が起こる誘因となったことがうかがわれる。実際に藩領を越えた八戸でも「大南(部脱)野辺地一揆、津軽、青森一揆の書付参候而大に驚、風説まち/\なり」と、動揺する城下町人の様子が伝えられている(『天明卯辰梁』)。野辺地での騒動にも同じ陸奥湾岸に面する青森騒動の影響がみられる。
同じ西浜の深浦では天明三年七月三十日に蔵米を津出しようとした問屋、三国屋助左衛門・秋田屋惣左衛門が打ちこわしを受けた。深浦町奉行は八月になり、首謀者とされる町人八人を逮捕する一方、能代から米を買い付けて一軒につき米一俵を渡し、町方の慰撫に努めている。なお、領内「四浦」の一つである十三では打ちこわしは発生しなかったものの、青森騒動に先立つ七月十五日に、凶作のため救済銭(一軒につき銭一五〇匁)の手当を願う訴えがなされた。