八代藩主津軽信明(のぶはる)の時代(一七八四~一七九一)に本格的編纂が始まり、用人牧野左次郎を中心とし、赤石安右衛門・菊池寛司・松田常蔵などが担当した。その後信明が病没したため、九代寧親(やすちか)の寛政九年三月に至って完成した。完成時の主要メンバーは、伴才助・吉沢庄太夫・菊池寛司・赤石安右衛門であった。「安永律」と同じように、主として百姓・町人を対象とするものであった。
「明律」との関連は、編名あるいは章名ともいうべき定例(明律では名例)・人命・打擲(ちょうちゃく)(明律、闘殴)・盗賊・賄賂(明律、受贓(じゅそう))・田宅・倉庫・訴訟・運上(明律、課程)・雑(明律、雑犯)・犯姦などが、すべて「明律」そのままか、あるいは類似の名称を有している。次いで、ほとんどの条文がたとえ片言隻句でも、「明律」に対応する条文を有し、条文そのものも「明律」の読み下し文を利用したとみられるものがはなはだ多い(『藩法史料集成』一九八〇年 創文社刊)。
幕府法との関連については、「寛政律」の項目「九八 相対死」が、「公事方御定書」の「五十 男女申合相果候もの之事」の条文と比較的類似しており、系統的とまではいえないものの、多少は「公事方御定書」の影響が認められる。
「寛政律」は、小項目で九九、合計一七五ヵ条からなる(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学国史研究』一五・一六合併号)。最初は総則的な規定が小項目で二一、条数では二七あり、①刑罰の種類は生命刑―鋸挽(のこびき)・磔・獄門・斬罪・下手人・死罪・火罪、身体刑―鞭刑・入墨、身分刑―非人手下、自由刑―徒(ず)刑(懲役刑)・追放・戸〆、財産刑―欠所(けっしょ)(没収刑)・過料、②刑事責任能力に関する老幼廃疾の規定、③共犯に関する一般的規定、④五軒組合が連坐になる場合、⑤婦人犯罪の規定、その他がある。次に各則の規定は、大項目として人命・打擲・盗賊・賄賂・田宅・倉庫・訴訟・運上・雑・犯姦(はんかん)の一〇項目を挙げ、小項目で七八、条数では一四八に分けられている。
図181.寛政律
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「寛政律」の規定とその運用については、「国日記」によれば、九九項目のうち約七〇項目中の条文に対する判例が見当たらない。それは、「明律」に範を求めすぎたために、判決の申し渡しには必ずしも実効性を発揮しえなかったからであろう。このほかに注意すべきは、「寛政律」の条文にまったく関係がなく、従来の慣習・先例によっても判決の申し渡しが行われていたことである。これらのことから、「安永律」と同様に「寛政律」の施行期においても慣習・先例を参照しての判決の申し渡しと、「寛政律」の条文を基準とする判決の申し渡しの二本立であったことがわかる。