幕末期の海防体制

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藩では嘉永年間以降、台場(だいば)設置、西洋流砲術の導入と銃砲・武器類の鋳造・購入、武芸訓練の奨励と調練(演習)の実施など、領内海防体制を一層強化している。
 弘化四年・嘉永元年と相次いだ異国人上陸事件を契機として、藩では幕府に対し、平舘村に陣屋(じんや)と台場一ヵ所、藤島村に台場一ヵ所の取り立てを願い出た。嘉永二年(一八四九)五月三日に海防掛老中牧野忠雅に提出された藩主順承名の願書(嘉永二年閏四月十二日付)によれば、平舘に置かれる陣屋は「仮陣屋」で、毎年三月中から九月中まで人数を備え、異国船の来航の様子をみて陣屋の取り払いや場所替えなどを行う可能性があるとされた。願意は六月朔日に許可された。さらに、七月十日に再び牧野へ差し出された藩主順承名の届書(六月二十二日付)では、平舘陣屋には年々一〇〇人を派し、異国船渡来の様子により年々一の人数が変動する可能性があると届け出ている(『内閣文庫所蔵史籍叢刊 三六 安政雑記』一九八三年 汲古書院刊)。
 また、安政五年(一八五八)四月には、三厩の「御仮屋下通り」に新たに台場が設置された(『記類』下)。元治元年(一八六四)十一月には、従来六〇人としてきた青森詰人数を、海防をめぐる情勢の変化と青森蝦夷地渡海口の一つであることを考慮して、蝦夷地援兵と海岸防禦の役割を併せ持たせることとし、二四〇人増員して計三〇〇人とする旨を幕府に届け出た(同前)。
 さらにこの年には、異国船の沿岸接近を憂慮し、「沿海近傍之村落」へ藩士を数百移転させ屯田(とんでん)させるという計画が持ち上がり、それにふさわしい場所の検分が実施されている。ただし、この計画は実現しなかった(同前)。
 一方、藩では海防の強化に伴い西洋式の砲術を導入した。幕府老中水野忠邦(みずのただくに)が中心となって実施された天保の改革では、このころ中国で勃発したアヘン戦争異国船の渡来など、当時の日本が直面した対外的危機を反映して、海防強化が一つの政策課題となり、軍事力強化の方針が打ち出されていた。その一つが西洋流砲術の採用である。天保十一年(一八四〇)、幕府は長崎町年寄で西洋の砲術を研究していた島秋帆(たかしましゅうはん)を幕臣に登用した。秋帆は翌年五月、武蔵徳丸原(とくまるがはら)(現東京都板橋区島平)で行われた砲術検分を指揮し、西洋の砲術やその大砲の威力をみせつけたのである。幕府は当初この島流砲術を独占し、諸大名への普及を阻止する意向だったが、天保十三年六月五日にはこの方針を撤回して、島流砲術の全面的解禁に踏み切った(藤田覚『天保の改革』一九八九年 吉川弘文館刊)。

図199.徳丸原演習図

 津軽弘前藩では、弘化二年(一八四五)二月、秋帆の弟子で幕臣の下曽根信之(しもそねのぶゆき)(信敦(のぶあつ))に、藩士で砲術家の篠崎重秀(しのざきしげひで)(進(すすむ))を入門させた。篠崎は弘化四年二月に免許皆伝を受けている。さらに藩では、同年三月に御抱鋳物師(いもじ)桜庭善左衛門江戸に送り、島流砲術の大砲鋳造を伝授された鋳物師のもとで勉学させた。桜庭は「百五拾目之野戦筒」の製造に成功し、六貫目のホーイッスル砲はその一〇分の一の雛形を制作し、十月に国元に戻っている(『記類』下)。一方、篠崎は嘉永元年(一八四八)に弘前に戻り、砲術師範となって、以後藩士の指導に当たった。
 津軽黒石藩においても、天保十二年(一八四一)には、藩主承保が本藩に対して、在国中、兵学稽古のため山鹿流兵学師範の貴田英八を一ヵ月に三度黒石に招きたいと願い出て許可されている。また嘉永四年(一八五一)には家中に剣術師範がいないために本藩藩士対馬覚蔵の弟忠蔵を召し抱えるなど、海防と関連した兵学伝習や武術の鍛錬に関する動きがみられる(『黒石市史』通史編1)。これらの動きも宗藩の動きに刺激を受けたためであろう。