火災は武家町・町人町では頻繁に発生しており、寺社や城郭内からも起きている。特に城下の三大大火と称されるのは、慶安・延宝・延享の火災である。①慶安二年(一六四九)五月二日、横町(よこまち)(東長町(ひがしながまち))より出火し、本寺町(もとてらまち)の大家一〇軒半、大寺五ヵ寺を焼失した。②延宝五年(一六七七)九月四日、親方町(おやかたまち)より出火し、親方町・白銀町(しろがねちょう)・塩分町(しわくまち)へと延焼し、八五軒を焼失している。③延享元年(一七四四)五月十一日、本町(ほんちょう)一丁目から出火して一丁目~五丁目・親方町・本寺町・下土手町(したどてまち)橋脇まで焼失。さらに大工町(だいくまち)片側全部、覚勝院町(かくしょういんちょう)(覚仙町)四五軒を焼失。焼失家屋の内訳は大家二二七軒、借家一七〇軒、土蔵五七棟、武家屋敷一二軒の大規模な火災であった(『津軽史事典』一九七七年 名著出版刊)。
右の火災のほか藩政期を通じて、火災は放火もあるが、失火による場合が多かったのはいうまでもない。
そのため、藩士に対しては寛文二年(一六六二)に出された一七ヵ条の「家訓条々」第六条に、屋敷中に出火があった場合、早速その場へ駆け集まり打ち消すこと、とみえている(「御定法古格」弘図古、菊池元衛編『津軽信政公事績』一八九八年 菊池元衛)。
藩主の菩提寺である長勝寺(ちょうしょうじ)と報恩寺(ほうおんじ)に対しては、延宝三年(一六七五)に寺の周辺で出火があった際に、火消番が駆けつけるまで、寺々の僧侶たちが御影(みえい)・御位牌を出して守るべきことが命じられた(『御用格』寛政本 第二三)。延宝九年の「寺社法度」によれば、寺社に対して灯明などの火の用心が厳しく通達されていたのである(前掲『御用格』第八)。
町人に対しては、延宝九年の「町人法度」の中で、項目「失火の事」に五ヵ条あり、要約すると次のようになる。第一条は、常々火の用心をし、昼夜に限らず警戒すること。第二条は、五人組は火の用心をすべきこと、特に強風のときは家の周囲を見回り、不必要に紙燭をともしたりしてはならない。第三条は、出火の際は、見つけ聞きつけしだいもみ消すこと。その働きにより褒美を与えるが、自分の道具に気をとられ、出火の場所へ早速駆けつけない者は罰する。第四条は、もみ消すことができない場合も、火消の役人が到着するまでは、その場を離れてはならず、役人が到着したら町方の者は駆け集ってはならないこと。第五条は、火事場へ駆けつけた者も親子・親類・縁者およびそこの下人以外は出入りできないこと(資料近世1No.七七四)であった。
このように火の用心とともに出火の際には、藩士、僧侶・神官、町人などへ、それぞれ近くの者たちが駆けつけて消火に当たるよう定められていたのである。