軍政局が発足して間もなく、広範な藩士たちの軍事調練が開始されたが、城中だけでは訓練場所が不足したため、市内の寺社が借り上げられ、境内で歩行訓練から正打(まさうち)稽古という実弾射撃までが終日繰り広げられた。後に詳述するが、銃隊構成は従来のたとえば御手廻何番「組」というものから、一小隊の隊頭一人、副役一人、嚮導(きょうどう)役(伝令・先行案内役)二人、鼓手(こしゅ)一人と銃隊員三二人程度の何番「隊」とされた。軍装も改変が加えられ、筒袖(つつそで)・袴(はかま)・ズボン・戎服(えびすふく)・呉郎(絽)服(ごろふく)等が混用され、旗奉行のかわりに軽敏な小旗を扱う旗手が新設された。
このような急激な改変がごく短期間に行われたため、やがて藩士間には強い戸惑いと不満が出るようになった。たとえば、弘前藩は明治元年四月十六日に奥羽鎮撫総督府より庄内討伐援兵命令を指示され、同二十一日に足軽頭松野栄蔵が秋田に向けて先行し、翌二十二日には総勢一一六〇人余の派兵計画が発表された。これは弘前藩軍事力動員としては第一級規模のものであったが、閏四月上旬に出撃予定とされたこの派兵は、実行段階で御留守居組頭山崎所左衛門を大隊長とし、足軽銃隊、後拒(こうきょ)隊という遊撃隊、小荷駄方(こにだかた)の五四〇人余と大幅に削減されている。
その原因にはさまざまな要因が挙げられる。まず、四月になると奥羽列藩同盟形成の気運が高まり、弘前藩もその世論を無視できなくなってきたこと、および二十二日に発表された陣触では大隊長の一人に御馬廻組頭山本三郎左衛門が予定されていたが、彼の言説は過激で、「御馬廻組頭山本三郎左衛門脱藩、三位様(奥羽鎮撫総督府沢為量(さわためかず))之参謀大山格之助を討果候旨、巷説有之」(『青森縣史』四)などと、藩首脳にしてみればこれに実戦部隊を附属させて領外に出せば、どんな事態が突発するかと心配されたこと、これらの点が大きいが、他の藩士間でもこの時点での出動には強い反対がわき上がっていた。それは、新軍制に彼らが不慣れなことから生じた。というのも、ふつう封建軍隊が出陣する際には、戦士一人につき私的従者が付き従って、いろいろな面倒をみるのが慣(なら)わしであり、大番頭のような高級武士には槍持ち・口取りなど最低でも五~六人の従者が扈従(こじゅう)した。多くの藩士は従来のしきたりに従って従者の同行を望んだが、新しい軍事組織では兵站を担う部署は小荷駄方としてすでに別組織があり、藩士らの私的従者は活動の妨げであるとして、藩はことごとく同行願いを却下(きゃっか)した。そのため、藩士らは強く軍政局に対して不満の声をあげ、ついに藩は閏四月七日、「今度出張山本三郎左衛門殿附属兵士之面々より三ケ条嘆願之儀御聞届ニ相成」(前掲「御軍政御用留」)として、戦隊の改編を許可した。それによると、陣立(じんだて)は古流の山鹿流(やまがりゅう)を基礎とし、軍装も小手(こて)・臑当(すねあて)・前胴(まえどう)など、近代戦にはそぐわない武装が復活した。また、兵士一人につき郷夫(ごうふ)(徴発された雑用係の農民)が二人も下僕(げぼく)として従軍するなど、古色蒼然(こしょくそうぜん)たるものに後退してしまったのである。
それでも、弘前藩にとって幸いだったのは、実際の本格的戦闘が七月までなく、その間に訓練ができたことであった。また、秋田藩に薩長を中核とする官軍が集結するようになると、前線の先行部隊は最新式の洋式軍隊を自らの目でみるようになり、その威力を肌で感じ取るようになった。藩首脳部が奥羽列藩同盟参加に傾くのに対して、山崎所左衛門や副官白取数馬(しらとりかずま)ら番方上層部が勤皇論を強く主張したのは、政治的判断もさることながら、彼らが実際に近代軍隊を目撃した経験によるところが大きい。時代はもはや功名を競う一騎打ち的な封建軍隊ではなく、組織力で敵を撃破する軍事力へと移行しており、それには洋式銃器が必須であった。
ただ、銃器を洋式に改変したのみでは、それは役に立たなかった。たとえば、従来の火縄銃の弾丸ではミニエー銃に使用できないのである。そのため、多くの藩士らが弾薬方に組織され、莫大(ばくだい)な製造に取り組んでいった。弾薬方には役方(やくかた)(行政職)の藩士で、比較的年齢が高く兵員としては適さない当主層が組み込まれていったが、その作業は常に人員不足に悩まされ、過酷(かこく)なものであった。戦闘が激化すると、軍政局には、弾薬方より人員の増加を図り一日につき一升ずつの賄(まかな)いを支給すること、および弾薬方専務のため役方の仕事免除等の要請がしばしば出されている(同前八月三日条)。彼らは弾丸の鋳造のため、夏場は酷暑に苦しみ、冬場には寒風が吹き込んで火薬が凍りつき、爆発の危険があるため作業場に火の気を入れることもできないという悪条件に置かれていた。こうして最後には能(のう)役者やお抱え絵師などの者も弾薬方に組み込まれていったが、軍制改革は挙藩体制で進められていったのである。