権参事となった野田豁通は、弘化元年(一八四四)熊本藩士の家に生まれ、幼少の頃(ころ)横井小楠(しょうなん)の塾に学んだ。戊辰戦争が勃発した明治元年(一八六八)には二十四歳にして兵部少輔(しょう)となり、軍事参謀試補として箱館府総督清水谷公考(きんなる)を守衛し、榎本武揚(たけあき)に攻められて大いに苦労した。野田が青森県と関係を持ったのは弘前藩に援軍を要請し、青森に逃れてきた明治元年から二年にかけてのころであり、弘前藩の首脳とも旧知の仲となった。その後、野田は胆沢(いさわ)県(現岩手県胆沢)参事に転任したが、彼が権参事任命の内示を受けて青森に入る四年十月十八日から、同年末までの様子を「野田豁通日記」(東京大学史料編纂所蔵)によって概観してみよう。
野田が胆沢を発して三戸に到着したのが十月十八日の昼のことであった。翌十九日には七戸まで至ったが、就寝しようとした時に東京から帰国した弘前県貫属(かんぞく)工藤・館山某が来て、田地賦割(ふわり)(帰田法)のことで話があるというので会っている。恐らくこれは弘前藩首脳の西館融(とおる)や山中逸郎(いつろう)を攻撃する反首脳派の直訴と思われるが、二十一日に青森に到着した後も旧用人山田登を首魁(しゅかい)とする彼らはしきりに野田の宿舎に詰めかけ、野田を悩ませた。十二月八日には当時禁固となっていた山田の釈放を訴える者三人を宿舎に呼び、夜半まで説諭し、旧藩時代の党争に根ざした争いが表面化しないように心を砕いている。野田は着任後、本庁はもとより、弘前や五戸の支庁官員や福山(旧館県)・八戸・七戸・田名部詰め役人を任命したり、新県創設の準備に多忙な日々を送っていったが、それ以外にも心配の種は尽きなかった。旧黒石藩は箱館のイギリス人ハウエルより借財をしたが、今年分の返済を滞らせていたことにより、訴訟にもなりかねない状態であったため、十一月二日には官金の内から二〇八三両余を立て替え、黒石県大参事唐牛桃里(かろうじとうり)を箱館に派遣して開拓使に連絡させている。十二月四日には前述したように、黒石県が青森県に納入すべき米金を多額に使い切っている事情を東京まで知らせたり、そのほかにも前年に七戸地方で起こった農民暴動の事後調査に人を派遣したり、斗南県貫属士族に配付されていた扶助米の効果実態を調べたりと、まさに一日の休日もなく働いていた。それでも時には旧弘前藩首脳らと会っている。戊辰戦争で互いに苦労をともにした経験から、自然、野田は彼らに同情的な立場をとったのであろう。
一方、野田の上司とされた権令菱田重禧(しげよし)は、天保六年(一八三五)美濃大垣藩士の子として生まれ、幕末には藩学教官となり、明治元年には徴士総裁局史官、行政官弁事などの新政府官職を歴任していた。また彼は弘前藩とも因縁浅からぬ人物で、明治三年六月に弘前藩で藩内騒擾があった際、按察使府権判官(あんさつしふごんはんがん)として弘前に乗り込み、強力な藩政改革を迫った。彼が友人作間正臣(さくままさおみ)に宛てた手紙によって以下、明治初年の県政を概観しよう(国立国会図書館憲政資料室蔵品川弥二郎文書)。
菱田によると、彼は三年九月に福島県権令に転任し、維新の王化を県民に施そうとしたが、従来の旧慣になじんだ県民は惰性に流れる傾向が強く、思うような治世は困難だったようである。民間の撫育(ぶいく)とともに東北地方の開化を督促する按察使府の官員だった菱田にとって、東北地方全体が未開の蛮地であり、住む人々は頑迷な者と映ったようである。
菱田が青森に着任したのは明治四年十二月中旬であったが、海路東京から来着した早々、青森県庁に入ってまず行ったことは県庁官吏をすべて罷免し、再び菱田の名前で任命することであった。彼とすればこれは単なる手続きであり、権令としてのイニシアチブの確認であったが、寛大なやり方で地元になじもうとする野田とは相容れない部分が多かった。このため野田はすぐに軍務官僚の途に戻り、その後は日清戦争の戦功により男爵に叙任されるなど、中央政界で活躍していくこととなった。
さて、着任した菱田が最も尽力したのは旧斗南県士族の救済であった。時に冬の最中であり、斗南県士族ら約一万人の生活は危機に瀕していた。五年三月を待って菱田は上京し、新政府に窮状を訴えて、授産と開拓資本のため米九万石の貸与を許可された。これに要した期間は四ヵ月にわたり、同七月に菱田はようやく帰県したが、貸与実施に際して新政府側が難色を示し、貸与が大幅に遅れた。そのため菱田は十二月に再び上京し、政府高官を説き伏せて、ようやく斗南県士族の救済は決着をみた。
明治六年(一八七三)二月に菱田は青森に帰ったが、この年の五月から六月にかけて弘前県士族の不穏な動向が県政を大きく揺るがした。このころ、士族の家禄はすでに公債渡し(現金での配給)となっていたが、同年は気候が不順で凶作が見込まれ、米価が高騰するのは必至とみられた。そこで士族らは大挙して弘前市中に集まり、旧来のように家禄を現米で渡すように要求し、夜には辻々で篝火(かがりび)を焚くなど、非常に険悪な状況となった。菱田とすればこの要求はまったく理不尽な申し出であった。家禄の公債渡しは新政府の方針であり、続く地租改正実施のためには避けられない政策で、簡単に一地方官の判断で変更できるような問題ではなかった。
また、すでにこのころ、士族特権の廃止に伴って日本各地で不平士族の動向が新政府でも憂慮されており、弘前で士族が暴発すれば全国に波及する可能性も大きく、現状を視察した県官は軍隊による鎮圧が必要かと東京に打診しているほどである。結果的には、菱田は県の為替方(出納担当)である豪商小野組に依頼して米を放出してもらい、また大蔵省から特使北代正臣(きただいまさおみ)(後、青森県権令)が出張して士族らを説得したことにより事態は穏便に解決したが、これによって菱田はすっかり意欲をなくしてしまったらしい。菱田は友人作間に心労を述べて、早々に上京して権令を辞職し、中央政界に官職を求めようと考え、八月二十二日に東京に到着したが、新政府は弘前の騒動の責任を菱田にとらせる形で、すでに八月二十日付で免官としていた。以後、彼は文部省書記や司法省判事などを歴任したが意に添わなかったらしく、明治十八年(一八八五)に公職を退き、東京で私塾を開き、同二十八年に六十歳で死去した。
このように初期の知事と県民が対立したことは青森県にとって不幸といわざるをえない。北代が新政府に宛てた県況報告によると(「青森秋田酒田宮城水沢岩手六県事情概略上伸書」国立国会図書館憲政資料室蔵品川弥二郎文書)、青森・秋田・岩手県の民俗は奥羽国中でも格別「懶惰(らんだ)」で、食料の粗食なること比類ができず、実に驚くべき姿である。人々の神経(意識)もほとんど死骸のようなもので、眼病や疱瘡に生涯苦しめられている。三戸と五戸には箱館から耶蘇(やそ)教(キリスト教)が普及しているが、禁制を緩めて布教させた方が愚民の勉強心も強まり、かえっていいなどとしており、北代にとっても青森県はまさに蛮地そのものであった。さらに津軽地方の農村は旧弘前藩の行った帰田法により田地を取り上げられた農民が経営難に陥っており、菱田を辞職に追いやった士族の騒動ともあいまって、北代も旧弘前県士族に対し強く嫌悪感を抱いていた。
中央から派遣された知事たちは口をそろえて青森県を「難治県」と酷評したが、その原因は藩政時代の負の遺制を精算できないまま、近代社会に参加せざるをえなかったことが大であろう。新暦の採用や新貨条例、学制発布などの開化政策が進む中で、県政は不断の緊張の中で展開していったのである。