災害と生活

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江戸勤番藩士が、江戸で遭遇した災害などにどのように対処していたか、「江戸日記」にみえる大きなものを年代順に挙げてみたい。
 ○「生類憐みの令」施行の実態――「江戸日記」貞享四年(一六八七)六月九日条。
 五代将軍徳川綱吉が制定した悪法についてであるが、世情として興味深いので挙げてみた。
 夕方、藩主が駕籠に乗ってお帰りの際に、日本橋にある店の前で、お供の一人小山覚弥が駕籠のわきで犬を踏みつけたという。取り調べを受けた結果、故意に犬を傷つけたわけではないが、「奉公遠慮」を申し渡された。また覚弥と同じ長屋に住む久保田源助は、覚弥の遠慮期間中、長屋に人を呼んではならない(久保田が外出するのは認める)と申し渡されている。連坐法の適であろうか。これは江戸勤番藩士が悪法の施行に忍従した例である。
 ○江戸の大火――「江戸日記」享保六年(一七二一)三月四日・八日条、五月四日条。
 火災は三月四日午前十時、牛込(うしごめ)御小納戸町・木すや町から出火し、南風に煽(あお)られ七面明神(しちめんみょうじん)まで、距離にして二一里半(八四キロメートル余)、幅三〇町(三キロメートル余)の地域を焼失して午後五時に鎮火した。この大火により、津梁院(しんりょういん)(藩主家菩提寺)へ近火見舞のため物頭格(ものがしらかく)の藤岡三左衛門が派遣されている。また国元から修行に来ていた六人の僧侶が、駒込(こまごめ)の吉祥寺(きちじょうじ)で類焼に遭ったので、上屋敷の伊藤八右衛門の長屋へしばらく身を寄せることになった。
 ○寛保の水害――「江戸日記」寛保二年(一七四二)八月二日・七日・十四日・十五日・十七日条。
 江戸時代の利根川流域の大洪水は、寛保二年八月・天明六年(一七八六)七月・弘化三年(一八四六)六月の三回が指摘されている(『日本史小百科 災害』一九八五年 近藤出版社刊)。
 寛保二年の洪水に対する藩の対応は左のようであった。四ツ目の屋敷では八月一日の午後二時すぎに床上浸水となり、飯米が水に漬かったため、ここに住んでいる藩士へ新たに白米を渡すことになった。今朝(二日朝)食事もとれないため、さしあたり藩士へ粥の炊き出しが命じられている。
 柳島屋敷の門前の土手が二、三ヵ所濁流で破れ、長屋が洪水で大破したので、被害を受けた藩士が移り住むことになった。しかし、長屋の収容人数にも限度があり、入れない者が出たほどであった。
 柳島勤番の石崎十右衛門は、勤務中のため自分の住居を顧みられず、所持品すべてを流失してしまった。そのため町貸金一歩(分)二朱が渡され、今年の末に国元切米(きりまい)(中・下級の家臣に対して支給した俸禄米)で返済するよう申し付けられている。
 また泊まり船が上屋敷へ二艘、柳島・四ツ目の屋敷へ小舟を含めてそれぞれ二艘が申し付けられている。これは水量が多くて道路を歩けず、各屋敷間を船で連絡したことが推定されよう。
 国元へは、藩邸が洪水で被害を受けたことを連絡する飛脚が出発するのであるが、旅の苦しさが次のことから知られよう。
 彼らは、途中の橋も流され、道路も寸断されている状態では、これまで支給されていた旅費では国元まで到着するのは容易でないと申し出た。そこで藩から予備費として飛脚三人へ三歩(分)が渡され、もしその予備費を使せずに済んだならば、国元へ到着後に返納するよう申し渡されている。
 ○安政の大地震――「江戸日記」安政二年(一八五五)十月二日・五日・六日条、十月二日~十七日条。
 十月二日午後九時半から十時ころにかけて大地震に襲われた。「江戸日記」によれば、十七日まで毎日地震記録されており、余震が続いていたことが知られる。この時の被害は、町方の死者約四七〇〇人(江戸の死者一万人余)、潰家は一万四千軒余、ただし武家社寺方の被害は不詳、と記録されている。
 津軽家の藩邸付近と思われるが、潰死した死骸を見分した後に片づけるよう指示したものの、混雑しているので不行届もやむをえず、見分せずとも処理せよと命じている。そして江戸詰の藩士は無事であることを国元へ連絡するよう飛脚を出発させている。