図161.独楽徒然集
享保十二年(一七二七)、信寿は官撰史書の編纂を家老喜多村校尉政方(きたむらこういまさかた)に命じている。
喜多村政方(一六八二~一七二九)は素行の外孫で開雲堂・耕道と号し、家学の山鹿流兵学を祖述し、詩文もよくした。著述に「兵機全集」「原源発機句読大全(げんげんほっきくどくたいぜん)」「輔佐要論(ほさようろん)」等がある。政方は史書編纂の命を受け、長子の監物久通(ひさみち)を伴い資料を求めて領内の豪家、寺社を訪ね、古記録・古文書を集めて整理にいそしんだ。しかし、編纂半ばにして病没したので、桜庭正盈(まさみち)がこれを継ぎ、相坂則武と伊東祐則がこれを助け、享保十六年に完成をみた。これが大浦光信から四代藩主信政までの約二五〇年間の事歴を書き記した官撰の史書「津軽一統志」一〇巻である。
政方の次子に久域(ひさむら)がいる。久域こと建部綾足(たけべあやたり)は二十歳の時に兄嫁との艶聞が原因で弘前を出奔し、上方・江戸・長崎などを遊歴、自由な境涯に生き風雅を宗とし、その多彩な才能を発揮して江戸で没した。画人としては寒葉斎(かんようさい)、俳人としては涼袋(りょうたい)、和歌・片歌(かたうた)・国学・読本(よみほん)では綾足と名のり、『俳諧源氏』『西山物語』『本朝水滸伝』等の近世小説史上、逸することのできない作品を残した。
図162.建部綾足像
六代信著の治世には、五井蘭洲(ごいらんしゅう)が召し抱えられた以外に文教面においてみるべきものがない。大坂の町人出資による学問所懐徳堂(かいとくどう)で助教を務めていた蘭洲は、享保十二年(一七二七)に江戸に出て、同十七年江戸屋敷において御手廻格三〇人扶持で召し抱えられた。月に三度、御目見以上の藩士への儒書講釈と、同十八年からは信著の舎弟豊次郎(著教、信寿の子)の儒学の師を命じられている。元文元年(一七三六)、蘭洲は信著の初めての入部に扈従(こじゅう)し、弘前城において月に三回儒書を講釈して時服を拝領し、翌二年四月帰府した。翌三年四月再び信著の帰藩に伴い来弘し、前年と同様城中での儒書講釈を命じられた。同四年正月には近習小姓格となり、同年四月に帰府した。翌五年病気を理由に致仕を願い出て、許されている。蘭洲の藩への禄仕(ろくし)期間は足かけ九年であった。蘭洲の藩への出仕は満足の行くものではなかった。蘭洲は「藩君、文を好まず、諸臣また儒術を侮る」(「蘭洲遺稿」下)との感慨を洩らしている。
七代信寧は弓馬・刀槍・兵法・儒道・柔術などさまざまな技芸に関心を持ち、剣術は小野派一刀流の免許皆伝を受け、馬術は有馬一学から伝授され、柔術は御家人の鈴木清兵衛から皆伝を受けている。また儒者戸沢半左衛門惟顕を一五〇石で召し抱え講釈をさせた。二と七の日には評定所でも講釈させ、家中の者に聞かせた。また兵書を貴田親建に月六回講じさせている(『奥富士物語』、『記類』上)。信寧は多芸ではあったが、政治には積極的にかかわろうとはしなかった。
信寧の治世期では乳井貢(みつぎ)が活躍している。乳井は勘定奉行、御元司として宝暦改革を推し進めた中心人物である。同時に、彼は朱子学に対して批判的立場をとった当代きっての学者、思想家でもあった。彼の生涯や思想についての詳細は、通史編2第四章第一節三を参照されたい。