信政

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四代信政は、寛文元年(一六六一)、十五歳の時に山鹿素行の門人となった。素行は当時の朱子学を批判して古学を提唱した儒者であったが、兵学者でもあった。素行の門に入ったのは、叔父で後見者であった津軽信英(のぶふさ)の勧めによるもので、信英は死去に当たり儒教をもって葬式を行わせた。信政は山鹿流兵法の奥伝大星伝を許され、藩の兵学を山鹿流に統一した。素行の娘婿岡八郎左衛門家臣として召し抱えたが、子孫は津軽山鹿家を形成した。寛文十一年(一六七一)、信政は二十六歳の時神道吉川惟足(よしかわこれたり)の門人になった。惟足は上京して唯一神道吉田兼倶(かねとも)の一族、萩原兼従(かねより)に師事し、宗家の子弟にも授けられなかった道統を付された。これにより、吉田の一字をとって吉川を姓とし、吉川神道の創始者となって、遂に幕府の神道方になり、徳川頼宣(よりのぶ)・保科正之・前田綱紀(つなのり)・稲葉正則(いなばまさのり)・堀田正俊(まさとし)など、諸大名の多くが門人となった。信政は、聴講の際はいつでも「初而之如く」謙虚な態度であったという。講義筆記は数十巻にものぼり、惟足の死去によりその子源十郎従長(これなが)から三事重位の相伝と道統の伝位を受けた。
 信政は子信寿・資徳のほか、希望する藩士にも学ぶことを許したため、岩田半次郎・桜庭浜之丞、後藤利卜が門人となった。惟足の内弟子北川新次郎(金右衛門正種、また武左衛門)を二〇〇石で召し抱え、六代信寿の嫡男信興(のぶおき)の守役とさせた。宝永七年(一七一〇)、遺命により岩木山麓の高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照神社)に、北川新次郎が導師となり、吉川神道の法式により埋葬された(『奥富士物語』)。遺髪・爪は菩提寺報恩寺五輪塔を建て、ここに納めた。
 前述のように現在、高照神社に「御告書付(おつげのかきつけ)」二五三件が所蔵されている。藩が使者を遣わして領内外の吉凶を報告したものであるが、藩主家の吉凶禍福が主な内容である。享和元年(一八〇一)から慶応四年(一八六八)の明治改元までが一九五通、明治元年(一八六八)から大正八年(一九一九)の一二代承昭の嗣子英麿(ふさまろ)の死去まで六二通ある。内容は重臣が藩主に政務を報告するものと同じであり、信政の生前に行われたことが、死後もそのまま引き継がれてきたようにみえる(瀧本壽史「弘前藩御告御の基礎的考察」『弘前大学国史研究』九八)。
 明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、信政は神田上屋敷から柳原中屋敷へ避難する際、和徳稲荷と名のる老人に道案内され助かっている(「津軽徧覧日記」)。信政はすぐに国元の和徳稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に和徳稲荷を祀らせた。また、江戸の盛り場浅草で人気のあった熊谷(くまがや)稲荷を、宝永五年(一七〇八)、新寺町に創立した。熊谷稲荷の御利益は、これを祀る土地は繁栄するということから、信政は領内の産業振興の神として祀ったものであろう(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について」『市史ひろさき』八)。