[現代訳]

 
 内々にお聞きしたことによれば、お母上の長年の願いをかなえるため、このたび信州善光寺へ貴殿がお連れになるとの事、お若いにもかかわらずたいへんな親孝行、感慨深いものがございます。私は先年、戸隠山参詣の折、道のあらましを紀行文に書き留めましたので、ご参考として差し上げます。
 さて、卯月(旧暦4月)上旬の早朝、鶯の声に誘われるように、卯の花の咲き乱れる中を、家を出、本郷通りの追分から巣鴨町を過ぎ、庚申塚で休憩し、板橋宿を経て、戸田の渡しで羽黒社を遥拝し、蕨宿、浦和宿から大宮権現(氷川神社)を過ぎ、上尾宿、桶川宿へ。鴻巣宿から熊谷宿までは4里8町(約16・5㎞)もあるので、中ほどに吹上の立場(たてば)がある。長土手(熊谷堤)は18町(約2㎞)、久下(くげ)村を過ぎ、熊谷宿は熊谷蓮生坊(直実)の旧跡、深谷宿、傍示堂は武蔵・上野(こうずけ)両国の境だという。本庄宿から神流川(かんながわ)を渡り、新町宿、倉賀野宿を経て、高崎宿には越後路あるいは伊香保・草津への分かれ道がある。それより、板鼻宿、安中宿では妙義への道が左に分かれ、松井田宿、坂本宿碓氷峠の麓、峠の熊野権現の社は信州と上州の境に鎮座している。軽井沢宿、平葉の原、沓掛宿追分宿は「信濃なる浅間の山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行けば京街道・木曽街道で、右の方を小諸宿に出れば、善光寺そのほか北国に向かう北国往還である。田中宿海野宿を過ぎ、上田の町から坂木宿、戸倉宿、屋代の渡し場からは、姨捨山の長楽寺、冠着山などが見渡されて、絶景は言葉に表現しがたい。丹波島は甲斐の武田と越後の上杉の古戦場。犀川を越え、善光寺町に到着して、見れば、商店と旅籠(はたご)が軒を連ね、まことに繁盛の地で、仏都の光景とはこういうものかと、驚くばかりである。
 そもそも善光寺の由来は、欽明天皇13年、本尊の阿弥陀如来百済から渡来したが、あえて信仰しようとする者はなかった。推古天皇10年、伊那郡麻績里(おみのさと)宇沼村に寺を建てたのが始まりで、その後皇極天皇元年、仏のお告げによって水内郡に建立した。発願は本田善光で、それによって寺号とした。まことに人智の及ばない霊妙な仏で、ご利益はたいへんすばらしい。聖徳太子善光寺如来と手紙をやり取りしたり、和歌の贈答があったりしたことが、「風雅和歌集」や「埃嚢抄」などの本に見えている。堂塔の立派なことは比べるものがなく、天下無双の霊場であり、参詣者はみな深く信仰して、信心を怠ることがない。戒壇の不思議ですばらしいことは、また無類である。さらに、毎朝本尊の開扉(かいひ)がある。前夜宿泊した参詣者が堂内に充満して、潮の湧くように念仏を唱え、どんな無知下劣な人でも感涙を催さない者はないだろうと思われほどで、まことにすばらしく言いようもない。
 私はそれから戸隠参詣したいという願いがあって、荒町、牟礼、柏原を通ってまっすぐ行く道は北国街道なので、左の方の戸隠山への道を杖をついてようやく登って、神前に参拝して、掃除の老人に尋ねたところ、「戸隠明神は手力男命(たぢからおのみこと)で、伊勢内宮相殿の左側にも祀られている。昔、手力男命は、天の岩戸を押し開かれた時、その岩戸を投げ、それがこの所に落ちたという。九頭竜権現は、頭が九つあるお姿で、岩窟の中に鎮座しておられる。梨を供え物とする。そのため世間では、虫歯を患う者は梨を断って祈願すれば平癒すること疑いない、と言い伝えている。これは当山の地主の神で、不思議なことである」と話してくれた。
 紀行文は右のとおりです。不具。