○水内 善光寺

   3  
登リ丹波嶌ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善光寺より荒町ヘ一里、
牟礼へ二里半、柏原ヘ一里、野尻ヘ一里、越後の関川ヘ一里半、是迄の
順路七里なり、野尻に湖水あり、其流れ越後の今町の浜にて海に入る、
此川を関川といふ、野尻の湖水も諏訪と同じく氷張つめたる其上を
人馬とも往来せり、但諏訪とハ変りて厳寒の砌ハ風荒く浪高く、
氷結バす、早春に至りて始て凍れり、湖中に嶌あり、弁財天を安ず、
  按るに、牟礼より柏原・野尻・越後の関川・二《マタ》・関山・二本木・荒井迄を
  中山八宿といふ也、又善光寺ハ北国街道の宿駅にして、本名ハ水内
  郡柳原庄芋井郷長野村なり、如来此所に遷座の後、地名もまた
  転じて惣名善光寺と称する成べし、
善光寺より東へ伊勢町・新町・淀が橋を渡り、横山村の次三輪村の南
脇に美和神社立給ふ、[神名記に美和神社、水内郡小八座の一也、]社家ハ斎藤伊予守といふ、[三輪村ハ北国街道の順路
にて善光寺より十五丁ほどに有、]三輪村の北脇に時丸の塚とて古墳あり、[善光寺七塚の其一なり、]
 
   (改頁)
 
   4  
 
○定額山善光寺[水内郡柳原の庄芋井郷長野村の霊場なり、]
 天智天皇三年甲子草創也、むかしハ天台宗にて三井寺持なり、
 其後真言宗と成て高野山に属し、また寛永年中東叡山
 に属して再び天台宗に帰す、
本堂南向、高サ十丈、二重屋根撞木造、柱の数百三十六本、垂木の数法華
経の文字の数[法華経文字の数ハおよそ六万九千三百八十四字といふ、]に准ふなり、四方に上り段有リ、正面
の板舗に大なる香台を置く、香炉の右脇に太皷あり、左脇に花瓶あり、
松を入る、是を親鸞聖人御手生の松といふなり、[毎月朔日に挿代ゆるなり、]
本尊閻浮檀金阿弥陀如来は本堂西屁の間に安置す、御厨司四方に
戸帳あり、応安二年申三月三日と記す、其外を綾錦金襴等
にて七重に包むといふ、秘仏にして毎朝の開扉といふも、戸帳扉一重
開くのみなり、中の間より東へかけて善光・善祐・弥生の前を安置
す、されバ善光を中央におく事故ある事なり、
 
   (改頁)
 
   5  
 
塩尻
 善光寺本尊ハ一光三躯也、是を新に摸鋳しけるは、尾張国熱田の
 僧定尊法師霊夢によつて、建久六年五月十五日中尊を
 鋳成し、同く六月二十八日に二菩薩を鋳けるとなん、これ三尊
 別躯のはじめか、又画像ハ伊豆国走湯山の僧浄蓮上人、承久
躯三年の春告によつて、御戸を開き、尊像を拝して自図像せり、
 同年五月仏工越前の法橋海縄鋳鎔して摸せしとかや、
  按に、定尊法師は九歳の時法華を誦す、夫より三十二年の間法
  華を誦すること凡四万八千九百部と云々、其後又法華一字毎
  に拝し、弥陀の名号一遍つゝ唱へて一千部に満つ、実に建久五年
  四月六日其功畢りし、其年の十一月六日善光寺如来の告を感得
  し、六万九千人の慈施を勧縁して、金銅の尊像を摸鋳と云々、
善光寺の本尊を生身の阿弥陀如来と称する所以を聞侍るに、
其むかし中天竺にて、大聖釈迦牟尼仏長者月葢の慳貪なるを
 
   (改頁)
 
   7  
 
不便に思召し、方便を以て西方の聖主阿弥陀如来を影向なさしめ、
其誓願を説き、其奇瑞を示現し、長者が最愛の娘をはじめ、五
百人の眷属より、国中の諸民の難病等を平愈ならしめ給ひし
かば、月葢長者夢の覚たる如く、殆随喜の泪にむせび、信仰の
思ひ肝に銘じ、忽ち内外清浄の本心に立帰り、釈尊の御許
に参り、申すやう、冀くハ今の三尊の御形を摸し奉り、我室内に
安置し、甚重の芳恩を報じ奉らん、然れ共吾凡夫の力に争か
かなひ奉らむ、我が志願を哀愍し給へとなり、仏長者に告給ハく、善
哉/\殊勝甚し、しからバ閻浮檀金を以て鋳摸し、真躰を此土に止
め奉るべし、そも此金ハ尋常の金ならず、竜宮にある所也、然バ神通の
羅漢ならでハ、争か求ることを得ん、目連を以て其使となし、竜宮城に求め
しむべしと宣へり、一会の大衆是を聞て、彼竜宮城と申ハ、其行程八万
由旬の境也、其上漫々たる汐路の底、波浪烈く、仮令神通第一なり
 
   (改頁)
 
   9  
 
とも争か至るべけんやとつぶやきけり、目連忽ち衆会の疑念を悟り、進出て
曰、吾昔時仏の音声の遠く他方に響き給ふことを計知らんが為に、
遥の仏土を飛越て、光明盤世界に到ぬ、是をもてはかるに、何ぞ竜宮
城に至らざらんや、いと易き事にてあらめとて、釈尊の勅意を承り、其儘
立て、左の足にて大林精舎の北の椽を踏給ふかと見れバ、右の足ハはや竜
宮城に飛行給へり、一会の大衆肝を消し、啻感ずるより外ぞなき、かくて目
連尊者竜宮城に到り、其形勢を見るに、四面に築地あり、銀の門を建、
内には数夛の小竜その威をあらハして守護したり、外の陣にハ、
四方に四節の景気を作り、玉の甍、金の柱、璢璃の扉、水晶の壁に玉
の簾をかけ、糸竹の調悠々と、蘭麝の薫り紛々たり、門を守護す
る眷属に、手長足長といふ者あり、其力金剛力士の如く厳く衛
りけれバ、容易入ことかなひかたけれバ、目連神通をもつて、虚空より
入なんと思ふ所に、内より赤衣の官人出て、是は竜宮城なり、御身の
 
   (改頁)
 
如き人倫の境界にあらず、早く夲土に帰り去給へといふ、其とき目
連尊者、仏勅の趣をのべ給へば、彼者聞て、扨は世尊の御使者なるぞ
や、しからバ上へ言上申さでは有べからずとて、急ぎ内に入て、件の旨
を上奏しければ、竜王聞たまひ、左あらハ是へとて、南殿に請じ
て、様/゛\の供養を演べ、其後竜王出会て、尊者に対面ありけり、
目連仏勅を伸て曰、西方極楽世界より化現来臨の如来の御
形を摸し奉りて、末代の衆生を利益せん事を願ふ、しかるに鋳
《ウツ》し奉るには、竜宮城の珍宝閻浮檀金に勝れる金なし、望給ふ
ところ是なり、ねがハくは、此金を仏に送り給へかしと、其旨を
ぞ伸給ひける、竜王うち聞たまひて、いかにも此金と申ハ誠に
此土におひて第一の重宝なり、それ此土には田畠を耕す事
なけれバ、米穀ある事なく、園に桑なけれバ絹布の類ひを調する
業をなさず、唯安楽に渡るといへども、此金の徳にて衣食お
 
   (改頁)
 
   10  
 
のづから足て、乏しき事なし、たとひ仏の財金と成とも、送リ
参らする事ハえこそ叶ひ申まじと宣へり、目連聞ておもふ
やう、吾仏前におひて勅を受、殊に大衆の中より此使者に撰れ
ながら、むなしく帰らん事本意なき業なり、神力を現じて
奪ひ取らんは最やすきわざなりと思ひ給ふが、もし了觧して容
易奉ることもやあらむと、何となき物語に言よせて、釈迦仏の
因位のむかしをぞ語り給ひける、中略竜王是を聞て、誠に理に伏
したる気色にて、斯申とて尊者怒り給ふことなかれ、仰に随ひ、
此紫金を捧申さん、去ながら容易く、参らせんも尋常の軽き
宝の如くや思ひ給ふべき、竜宮第一の重宝なるよしを演て竒
異の誉に預らん為、かくハ申せし也、此所に此金なくバ、いかで仏勅を
蒙らん、左なくバ尊者の来臨もなかるべし、且は仏勅且ハ仏尊の資料
なり、争おしみ申すべきと、其侭座を起、宝塔の扉を開き、閻浮
 
   (改頁)
 
檀金三千七百両を手自取出て恭しく捧奉らる、目連紫金を受
取、此功徳広太なるよし讃歎して、刹那に毘舎離国に皈り、閻浮檀金
を世尊に奉り給ひける、世尊歓喜し給ヘバ、月葢長者も悦ぶ事限なし、
かくて彼金を玉の鉢に盛て台上に備置、彼三尊を請し奉れバ、三尊
忽光明を放ちて照し給ヘバ、又釈尊光明をはなち、二尊の光明にて
閻浮檀金を照し給ヘバ、不思議なるかな、此金忽やハらぎ、沸すがごとく
成にけり、于時釈迦牟尼仏三昧禅定に入らせ給ひ、御身に積せ
給へる功徳六度十婆羅密十力四無所畏三十二相八十種好内外
一切の功徳を現じ給へり、然して禅定より出させ給ひ、金に向て
印し給へば、忽三尊の聖容に違ハず、金色の仏体と変じ給ふ
ぞ有難き、良あつて、本尊歩みより給ひ、新仏の頂を三たび撫た
まヘバ、新仏又三度礼し給ひ、二仏同しく虚空に飛上り住立し
玉ふ、其高き事七多羅樹の如し、倶に光明を放ち、神変不測の
 
   (改頁)
 
   11  
 
粧ひを現じ、西方に飛行給ひけれバ、月蓋遥に拝み奉り、声をばかり
に申けるハ、新仏を儲け奉るハ、南閻浮提の本尊となし奉り、未来永
劫の衆生に至る迄、利益を蒙らしめんが為也、争我願を空しく本土に
は帰り給ふぞと歎き悲みけれバ、虚空よりあらたなる御声をなして、汝
暫く待べし、本仏を送り奉て必帰来る也と告させ給ひしが、やがて飛
皈らせ給ひ、西の楼門の上に立とゞまりたまへり、長者歓喜あさからず、
如来を請じ入れ奉り、金銀七宝を鏤めたる大伽藍を建
立し、五百人の比丘を扶持し、六八弘誓の願力をあふぎ、不断礼
拝をいたせり、是併大聖釈尊の厚恩なり、かくあらずハいかでかかゝる
竒特の有べき、長者を初其外の眷属総て毘舎離国の万民こと
/゛\く大林精舎に詣でゝ、菩提の道にぞ入にける、我朝に出現し
給ひ、善光寺如来と申は此御仏の御事なり、
 正身如来、重サ六貫三百目、前立二尊一仏重サ八百七十目宛、
 
   (改頁)
 
斯て月蓋長者は同名同姓にして、七代迄跡を続、五百歳の間
栄華に栄へ楽めり、其後の願には、一天万乗の国王と成て、共に恐る
者なく如来を安置し奉り、随値供給し奉らんと願しかバ、其次の生
に於てハ百済聖明王便月葢長者の再誕也、是偏に如来不可思議
の仏力ぞかし、本尊天竺国にまし/\て衆生を利益し給ふ、其年月五
百年の間なり、夫より百済国に飛行給へり、是即月葢長者今は彼
国の大王と生れ給ふ所以なり、如来ハ百済国の禁闕に望み、空中に
まし/\て光明を放ち給ヘバ、玉殿庭上耀きわたつて見へけり、諸/\の
臣下上下の官人こハそもいかにと怪しめバ、天子も此よし御覧じて、
驚き給ふ事限りなし、如来光明の内より顕れ給ひ、あらたなる御声
をして告給ふは、いたくな驚きそ、吾ハこれ四十八願の主西方極楽の教主
なり、左右の侍者ハ救世の大悲、衆生護念の薩《タ》なり、抑聖明王の前
身、むかし天竺に在て月葢長者たりし時、無二の信心をもつて、我
 
   (改頁)
 
   13  
 
極楽浄土より吾を請すること切なるによつて、吾又応化して長者并
に眷属を初、其外群生を済度す、是偏に我夲願不取正覚の誓ひ
ゆへなり、此切徳に依て長者が願望の如く帝位に備ハる、しかれとも十
善の栄華に誇り、聊無常を忘れ、三宝に帰する志を失ひ、とこしなへ
に悪果の業をなす、此後また三途の故郷に帰りて、永刧の苦みを受
む事、見るにしのびず、昔の機縁つきざる故に済度利益せんが為、今
此処に来現せりと告給ふ、御声聖明王の耳にふるゝと、忽宿習開発して、
信仰の心肝に銘じ、感涙袖に余り、庭上にくだり、玉の冠を地につけ、慙愧懺
悔し、虚空を礼し給へり、しかふして玉殿をしつらひ、仏間と称し、如来を
請し奉れバ、三尊の如来微笑の御眸を廻らし、空中より紫雲に乗じ、
殿中に入移給へば、異香四方に薫じ、光明耀きわたりて、万億の燈火を一
度にたつるに異ならず、御門を初后宮宮女諸臣百官渇仰恭敬し奉
り、感信の声しばしは鳴もしづまらず、三業の精誠を励し、六時の勤行
 
   (改頁)
 
怠りなく給仕恭敬し給ひけり、如来百済国の御化導年月をかさね
て、一千百十二年にぞ成にける、其間の帝王凡九代とぞ聞えし、
然るに九代の天子をバ推明王とぞ申ける、如来此帝に告給ふやう、吾この
土の衆生と機縁既に熟しぬれバ、今より他方に至る也、其所をいはゞ是より
東海をこえて一の国土あり、大日本国と号す、彼国に到て群類を済
度すべしとぞ告給ふ、御門を初后妃百官下が下までも聞伝へて、御
わかれをしたひ悲しむ事限りなし、されども他邦に遷り給ハんの御示
現度々なれバ、千人の僧徒泣々外陣えかき出し奉りけるが、余に
御名残をかなしみて、また/\内陣に入奉らんとせしが、長老申けるハ、始
如来此国に到給ふ時、雲に乗じて来らせ給ヘバ、此度もまた空をかけ
りて日本に渡りたまふらめ、飛行自在の御仏なれバ、何ととゞめ奉ると
も、凡夫の力には及がたし、暫くも留め奉る事は冥の知見も憚あり、
又ハ仏慮も計りがたし、只日本に渡し奉り給へと申けれバ、みな/\
 
   (改頁)
 
   14  
 
此議に同じける、御門には此御別を歎き悲しみ給ふといへども、仏の御
告なれバ力及ばず、詔を下して日本に送り奉り給ふ御船をこそ用
意し給ひける、七宝を以て飾り、金玉の檀を搆へ、錦繍の褥、宝葢を
かざり、千人の僧都如来を御輿に遷し奉れバ、大臣百官供奉
をなし、御門・太子・后妃・侍女の御方/゛\玉の簾を挑げ、御名残を
をしみ給ひける、其外国中の賤男賤女に至る迄、巷にひれ伏し、御別
を惜み悲む声四方に響くバかりなり、斯て御船に移らせ給ヘバ、水主
梶取櫓櫂を取、海上に漕出す、さて如来に附奉る日本への勅使
には、西部姫氏達率奴利致契・思率多利致衍等、其外二人の僧
あり、日本に添わたし給ふ状に云、
 純金一光三尊阿弥陀仏像長一尺五寸、同脇士
 観世音菩薩、得大勢至菩薩像各々長一尺、同奉副
 経論幡葢、臣聞万法中仏法最善也、諸道之中仏
 道最上也、是法難觧難入也、周公孔子猶不知、是
 
   (改頁)
 
 法能生無量福徳果報、乃至成弁無上菩提、遠自
 五大竺泊三韓、依教奉行、天皇陛下宜修行、故渡
 伝帝国、仏之所化、我法流東、故附使貢献、宜信行
 者也、貢上如右、已上、
斯く御船を出しけるに、御門后妃もろ/\の侍女を具し給ひ、日
頃は翠帳の内に居給ひて、路頭にハ出給はざれども、如来の御別を
悲しみ、人の見る目も愧給ハず、海の辺に出させたまひ、宣ひけるは、
我等五障の雲厚くとも、三尊の光に照され奉らむ事今生の
楽と悦びしに、此後はいかで業障の雲霧を払ひ、浄土の月を詠
奉らん、娑婆の別を飜し、浄土の再会の縁となさしめ給へとて、
自ら御衣の瓔珞を採て如来に供養し奉り、御船に縋り乗移り
給ふかと見へしが、其儘海中に飛入て、大往生をとげ給ひけり、乳母・
大臣・百官もろ/\の宮女あはて騒ぎけれども力なく、只忙然として悶
憧、如来に別奉るかなしみに、又御后にさへ別れ参らせて、弥妄執
 
   (改頁)
 
   16  
 
の雲に迷ひなん、我等も同じ浄土に導き給へと、称名の声もろ共
に、続いて海に飛入しは理りにもまた哀なり、都て入水の人三百五十
余人とぞ聞へし、忽紫雲海上に靉靆来り、聖主来迎し引接し給ふぞ
有難き、異香四方に薫じ、音楽響き弥り、極楽往生の相を現ず、見る
人聞人心も詞も及バれず、感涙に沈みけり、されバ国中の貴賎日月の光を
失ひ、只闇路を《ダド》る心地して、釈尊入滅の昔に異ならず、斯て御船は
波浪を凌ぎ、飛が如くに駆ゆき、島々浦々うち過て、事故なく大日夲
国摂州難波津に半夜の鐘と倶に着給ふが、大光明を放ち給ヘバ、四方の
山々忽金色の光とぞ成にける、
仰我朝に生身の如来来迎ありしハ、人皇三十代欽明天皇の御宇
十三年壬申十月十三日なり、其比の内裏ハ大和国山部郡斯皈嶌の金
刺の宮とぞ申奉る、去程に百済国の官使并に二人の僧如来の宝輦
を舁て、内裏の庭上に居ゑ、推明王の書翰を捧げ、其よしを奏す、則
 
   (改頁)
 
叡聞に達しけれバ、御門諸臣を召れて、百済国より渡す所の仏像経巻
受納すべきや否を問せ給ふ、此時一同に奏しけるハ、外国より渡す所の仏
像敢て納め給ふべからず、其故は、彼国より日本を窺ふ事度々也、
然れども、神国の威風に恐怖して近倚こと能ハず、今此像を渡す事は、
日夲を呪咀し調伏する為ならん、速に御返しあつて然るべしと奏しける、
しかるに蘇我大臣稲目の宿袮奏して曰、それ国に道有は徳なり、道なき
ハ恥なり、異国の輩仮令昔は日夲に野心をさしはさむとも、今は悪意
を飜し、かゝる霊像を渡し、仏経を送る条、偏に日夲の威徳にあらず
や、夫我朝は神国なり、神明の本地を仏として貴敬せバ可ならんか、あへなく
還されんに於てハ、小智愚昧の国なりと侮り、吾国を窺ハんは必定成
べし、尤尊信し給ふべき形像にて候となり、御門聞召し、蘓我大臣に勅
有て、異国の使者に仏像安置供養の儀式を問しめ給ひぬ、天皇しか
/\の由を叡聞まし/\、詔をして、小墾田の御殿をあらため、如来を遷
 
   (改頁)
 
   17  
 
し給ひ、香花燈明をかゝけ、珍物宝物を供養し奉り、礼拝恭敬した
まひける、かくて異国の使者に引出物を賜り、返書をあたへ、二僧を留め
御暇を給りけれバ、使者は百済国にぞ帰りける、其後蘓我大臣の宅
に仏所を新に搆へ、如来を遷し奉り、金銀珠玉の荘厳を尽し、七
宝の檀錦の帳・花縵・幡蓋に至るまで善美を尽せり、或時如来の
眉間より光明をはなち、十方を照し給ひければ、禁闕の殿舎宮女曹
司局に至るまで輝きわたりて、実に生身の仏躰なれば、霊験不
思議数々にて、値遇し奉る輩、利益を蒙らざるはなく、御代も
穏にして、十九年の春秋をぞ送り迎ける、然るに庚寅に当る今年、
如何なるゆへにや、在々所々に疫癘流行して、貴賤男女親にわかれ、子をさ
きだて、是をくるしみ、其外牛馬六畜の隔なく、市中山野にいたりて歎の声
止時なし、依て御門宸襟を悩し給ひ、群臣眉を顰むるばかりなり、
内裏には大臣公卿其外諸官を召され、天下安全ならしむべき評議
 
   (改頁)
 
をぞ聞し召ける、其時物部遠許志大連奏聞申されけるハ、倩此疫難
を攷へ候に、異国より不思議の仏像を渡しけるを、御崇敬ある故ならんか、
かゝる異なる像を本朝に渡す事、其例なき所なり、依之我朝の天神地
祇異国の人形を崇て、神祇の威を失ひ給ふを怒りて、陰陽の気順環
せず、病痾の悪気と変じ、国民を悩ます条明かなり、夫吾朝は伊
弉諾・伊弉冊の尊より、一氏も異姓を混ぜず、皆々正しき苗裔なり、
然るに異国の人形を供養し尊重し給ハゞ、我朝の神祇の祟り
国土の人民に到る、はやく異人の形像を捨て、祟ぶべき神祇を敬礼し
給ふべしと、憚なく申されけれバ、諸卿一同此議に同じ、奏聞申され
ければ、御門も此よし聞召て、申す所実にしか也と信じ給ヘバ、評議既
に究まりて、勿躰なくも生身の如来を失ひ奉るべきにぞ成にける、斯有
しほどに、遠許志大臣下知して、河内摂津より鋳物師数夛召集め、猛
火盛に吹立て、勿躰なくも如来を取て其中へ投入奉り、七日七夜吹けれ
 
   (改頁)
 
   19  
 
ども、如来の御身ハ色も変らず、聊もそこね給ハず、見聞の輩こハそも
如何にと、身の毛を立、舌を巻てぞ恐れける、大臣も今ハ與さめ、穴怖ろし、
只々水底に捨よとて、難波の堀江にぞ捨奉る、其後世間さま/\の希
有多かりき、翌年辛夘の初夏に、欽明天皇崩御まし/\、遠許志大臣
も疾病の床に薨じ給ひぬ、むかし旃度波羅門は悪言を以て、暫次仏を謗りし咎によつて、無間地獄に堕たり、仮令絵に摸き木に刻むとも、仏躰
ならバ崇むべしとぞ承る、扨敏達天皇御即位の後御不予なり、上下万
民怪しみ、歎かずといふ事なし、博士を召て考へさせ給ふに、奏して曰、御
悩の事前帝の御代に焼失ひ給へる仏像の祟りなりと申す、御門
を初奉り、諸卿大に驚給ひ、やがて勅使を難波堀江につかハし、終日
さま/゛\の懺悔をなし申さる、其時如来水面に現じ、光明耀きけれ
バ、急ぎ此よし奏聞して、やがて内裏に請じ入、さま/゛\の供養をな
し給ふ事、昔にも過たり、かくて御悩は平かにならせ給ヘバ、貴賤悦
 
   (改頁)
 
びの色をなし、万々歳をぞ唱へける、爰に又弓削大連守屋大臣
[遠許志の大臣の子なり、]倩思案を運らし、参内の折から奏しけるハ、先帝の御代に
は此人形を礼しぬれバ、国土衰へ人民病悩すとて、永く失ひ給ふ所に、
今又先君の例に背き給ひ、尊崇し給ふこと御不孝とや申さん、夲朝の
諸神怒をなし給ふ事必定ならん、失ひ給ふにしくはあらじと也、
帝又此議を信じ給ひ、しからバ汝が奏する如く、先帝の旧儀に随ひ、
吾朝の神祇を敬ひ奉らんと詔有ける、守屋大に悦び、某が為にも敵ぞ
かしとて、河内紀伊国より多の人夫をめし寄せ、斧鉞を以て打砕かんと
すれ共、盤ハ砕け鎚は折ても仏躰は聊も損じ給ハず、貴賎忙然として
物いふ者なし、守屋今ハ力尽き大息突て、仮令千日千夜打とも焼とも
損滅はせまじ、只元の如く堀江に沈めよとて、黄金の妙躰仏具迄水底ニ
沈め、金軸の経巻は波の上にぞ漂ひける、又曰、仮令仏像を失ひぬる共、
附守りたる僧を安穏に置なば、重て仏法を弘むべしとて、一々捕へ
 
   (改頁)
 
   21  
 
て法服を剥ぎ牢に押篭禁めける、かくて丙午八月にいたつて、敏達
天皇崩御まし/\て帝弟御位を継せ給ひ、用明天皇と申奉る、御后ハ
穴太部皇女とぞ申ける、然るに御后或夜の御夢に、気高き僧御枕上に
彳て、后の胎内をかり参らせん、后の御答に、自が胎内ハ甚く穢侍るものをと
仰けれバ、僧の曰、吾に救世の願あり、我はこれ西方よりと宣ふ声と倶に
后の御ロに飛入給ふと御覧じて、頓て懐妊まし/\ける、聖徳太子
なり、[胎内に十二月在す、厩戸の王子上宮皇子、八耳の皇子等の御名あり推古、[帝二十八年二月五日薨ず、寿四十九、河州科長の陵に葬る、今上の太子といふ、]
 按るに厩戸の皇子ハ御降誕ありて後も、不測の竒瑞さま/\なる中に
 も、幼くして異国の経論にも流通し給ひ、あるひは守屋の大連と交戦の
 折柄も、椋の霊木に隠ろひて其危難を遁れ給ふ事など、聊怪しきに
 似たりといへども、爰に譬をとるに、神代の昔大己貴命諸神の猜にあひ
 給ひし時、鼠出て内は洞々外ハ窄々とて、己が穴に隠し奉りしに
 よりて、焼野の危急を禦ぎ給ひし例にも比すべけんや、終にハ守屋
 
   (改頁)
 
 を誅戮し給ひ、難波堀江に如来と御言葉をかハし、其仏教を受用
 し給ひしより永く本朝に其道弘まり、君臣上下信用せずといふ
 事なく、衆生化益の夲を立給ふ事ハ大なる御勲功ならすや、是
 併ながら 皇大神の御心に応じたまハずんば、争か神国に跡
 を垂給ハんや、爰をもて、これをおもヘバ、神祇を尊崇するに次て
 尤恭敬し奉るべき霊像とぞ仰がれける、
人皇三十四代推古天皇十年壬夘に当る四月上旬の頃、信濃国本田
善光
といふ者、都の務事終り、此序にとて、名所旧蹟を見巡りしが、
道の便につけて難波堀江にさしかゝりけるが、何かハしらず水中より
光さして見えけれバ、あらけしからずやと走り過むとする後より
声ありて、やあ善光怖るゝ事なかれ、我はこれ生生世世汝に機
縁あつて安置せられし阿弥陀仏なり、汝静にきけ、昔の因縁
を示さん、我汝を待事年久しと宣ふ御声殊勝に、異香薫じ
 
   (改頁)
 
   22  
 
けれバ、善光たちまち信仰の宿縁開発して、不審ながら申けるハ、
しからバ其過去のありさまを示し給へとなり、則御告に曰、
  昔在天竺名月葢 奉請如来致恭敬
  次在百済名聖明 我飛彼国被安置
  今在日本名善光 三圀一躰同檀那
  我今尋汝来此処 早仕宿縁皈敬我
  生々世々護念汝 如影随形不暫離
  故我随汝往東国 欲令利益悪衆生
如来重て宣く、我汝を待ん為、底の水屑と倶に年月をふりし也、
[凡十六年の間なり、]時既に至れり、汝我を具して夲国に下るべし、汝と一所に在
て衆生を利益すべしと、仏勅実にあらた也、善光随喜の涙にく
れて思ふやう、此如来霊異天下にかくれなし、殊に上宮太子御帰敬も
あれバとて、王命を窺ひて後悦び勇み、如来を負奉りて吾本国にぞ
下ける、倩万法一如の道理を按に、迷ヘバ則日本信州の棲茅屋土生の
 
   (改頁)
 
小屋の土人、悟れバ百済の台さながら荘厳微妙の仏界也、素より家
の内に清き物とてハ臼より外なけれバ、此上に如来を安置し奉りて、
親子三人倶に朝夕恭敬し、心ばかりの供養をなし奉りける、
 如来当国にて伊那郡に止住し給ふ事既に四十一年の間なり、
人皇三十六代皇極天皇元年壬寅にあたつて、如来告て宣く、当国
水内郡芋井郷に我を遷すべし、是より後彼所に機縁有なりと、
御示現度々に及びけれバ、則水内郡にぞ遷し奉る、善光前々より思
ひし如く、仏と一所に住ん事恐ありとて、住居の西に一宇の草堂を
営みて本善堂と号し、如来をうつし奉れども、此所にても又元の如
く善光が家にぞ帰り給ひける、不思議なりし事どもなり、
 一時油に事をかきて御前の燈明を挑ざりけれバ、如来光明を
放ち給ふに、家内白昼の如し、善光祈誓申けるハ、有難き御利生、
訶を以て演がたし、願くハ此光明を移して燈明香の火となし給ひ、
 
   (改頁)
 
   24  
 
末代に伝へなば、利益衆生の結縁誠に功徳計りかたしとなり、
光明即仏の頂にかへり、又眉間より光を放給ふに、香につき油
にともり照させ給ふぞ不測なる、如来偈を唱へたまふ、
  一度見常燈 永離三悪道
  何况挑香油 決定生極楽
 是即如来の心光にして、三有の衆生の迷闇を照し給へる御心
をのべ給ふ文なり、されバ如来宝前の燈明は眉間の白毫より
出し光明にして、数百歳を経れども更に消る事なく、今猶仏前
にかゝやき給ふともし火是なり、
其後如来御堂建立の事は、御門の御願として粲然御造営なり、
抑材木を輓に至りて、さま/゛\の不思議あり、諸天善神影向まし/\、
誰ひくともなく、材木自ら踊り、歩むが如く彼霊場にぞ集りける、
金堂を造るには、弥勒菩工匠と現じて是を造り給ひ、修造事終り
 
   (改頁)
 
て後、忽弥勒菩薩とあらハれ天に昇らせ給ひける、彼菩薩造営の間すみ
給へる所に一間をしつらひ、今の世に至る迄弥勒の間とぞ申ける、今此
善光寺ハ日本の辺地にして、凡夫薄地の草創とハいへども、菩の御手を以て建給ヘバ、魔障あとをけし、却て守護神と成けれバ、事故なく成就
せし霊塲なれバ、何人かこれを仰がざらんや、父が諱の字をもつて善光
とぞ号しける、如来を供養し奉る檀那畧系
 
   (改頁)
 
   25  
 
右檀越交名の次第塩尻に見へたり、氏姓を相続人々如件、 縁起同文
和漢三才図会
  欽明天皇十三年本尊如来自百済国渡来、而未信、
  推古天皇十年草創、建寺於伊奈郡麻績続里宇沼村、
  而後皇極天皇元年依仏勅、移水内郡建立、本願主
  名本多善光、因以為寺号、慶長二年七月秀吉公以
  本尊奉入於洛之大仏殿、然仏不悦而有竒祟、故同
  八月復奉還、
  聖徳太子為欽明・用明二帝及守屋之徒菩提、於清
  凉殿七昼夜令行念仏三味、而遣小野臣好古於
  光寺
、奉一通書、其文曰、
    名号七日称揚已 以斯為報広大恩
    仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
 
   (改頁)
 
      八月十五日   勝鬘上
   本師善光如来御前
好古乗黒駒馳至、以本田善光献上之、善光副硯紙
入之戸帳中、則有返翰、其文曰、
  一日称揚無恩留 何况七日大功徳
  我待衆生心無間 汝能済度豈不護
 待賀袮天恨止告皆人爾何於何都天急加佐留覧
    八月十八日 善光
         上宮太子御返報
右歌載風雅集、曰歎止可告、蓋太子与如来往復之
書凡三度、七言二句或四句八句而、其第二次法興
元世一年辛已十二月十五日[使者名調子丸] 第三次同二
年壬午八月十三日[使者黒木臣・調子丸二人] 其返翰蔵法隆寺
宝庫而勅封緘無嘗見之者、神仏霊異之有無也不
堪論、
  按埃嚢抄等小史載之詳焉、窃以年号雖有孝徳
  帝大化号、中絶後、天武帝大宝以来相続、故為之
 
   (改頁)
 
   26  
 
  年号始、然則推古帝有法興元世之年号乎所未
  聞也、且此時文章未備而、七言詩肇於大津皇子
  [四十代天武帝皇子、] 又聖徳大子薨去推古帝二十九年辛
  巳二月也、所謂支干皆当薨去之後也、疑件文章
  及年月等後人添妄説者乎、
古今著聞集
 鎌倉右大将上洛の時、天王寺へ参られたりける、其時鳥羽の宮別当
 にてなんおはしける、御対面ありたるに、幕下申されけるは頼朝が一
 期にふしぎ一度候ひき、善光寺の仏礼し奉る事二たび也、
 其うちはじめハ定印にておハしましき、次のたびは来迎の
 印にておはしまし候、すべて此仏昔より印相定まり給ハぬよし
 伝へて候へども、まさしく証を見奉りて候ひしと申されけり、かの幕下は
 只人にハあらざりけるとぞ宮仰られしとなり、
欽明天皇の御宇より孝徳天皇の御代迄年数百二年の間ハ宮
殿に戸帳もかゝらず、如来あらハに拝まれ給ひし也、然るに白雉五
甲寅の年に当て、如来告させ給ふやう、宮殿を営み我を納め前
に戸帳をたれよ、其故いかにとなれバ、不善造悪の輩恣に我前に
 
   (改頁)
 
寄て、臭気をかけ手をふるゝ、我是を厭ハずといへども、却て逆罪と成
て、皆悪趣に堕するなり、依之人々驚き恐れ、急ぎ宮殿を造り、御戸帳
を掛、秘仏とならせ給ふ、是その始なり、
 按るに、善光寺の仏閣度々回禄に及て、有為の相を示し給ふと
 いへ共、如来の薫徳を以て、天が下の衆生志を《ハゲマ》し再建程なく成
 就せり、其古は旧記に見へず、今縁起に載る所を見るに、高倉院の
 御宇治承三年己亥三月廿四日巳の刻にあたつて悉く炎上なり、
 そのゝち亀山院の御宇文永五年三月十四日夜半に炎上、是九十二年
 目なり、又四十八年の後花園院の御宇正和二年三月二十二日酉の刻炎
 上なり、其後又八十八年を過、後光厳院の御宇応安三年四月三日夜
 寅の刻炎上、又後小松院の御宇応永三十四年丁未三月六日午の刻東
 の之門より火発り、堂塔一宇も不残焼滅、又後土御門院の御宇文明年間にも
 炎上あり、かく度々の火災にも一光三尊の霊躰或は忽然として横山
 
   (改頁)
 
   28  
 
 の堂に飛移り、或ハ御厨子のあたりハ猛火更に至らず、錦帳の内光明赫
 《ヤク》として恙なく、或ハ紫雲に乗じて金堂に移り給ふことなど生身の
 仏躰ならずして争かかゝる竒特のあるべきや、仰ぐべし信ずべし、
如来百済国より来朝あつて、聖主十三代打続き御崇敬まし/\、或
は宮中に安置し給ひし事もありしなり、其歴代
 △欽明天皇[人皇三十代在位三十二年] △敏達天皇[三十一代在位四年]   △用明天皇[三十二代在位二年]
 △崇峻天皇[三十三代在位五年]    △推古天皇[三十四代在位三十六年] △舒明天皇[三十五代在位十三年]
 △皇極天皇[三十六代在位三年]    △孝徳天皇[三十七代在位十年]   △斉明天皇[三十八代在位七年]
 △天智天皇[三十九代在位十年]    △天武天皇[四十代在位十五年]   △持統天皇[四十一代在位十代]
 △文武天皇[四十二代在位十一年]   以上縁起 日本書紀 天智天皇三年三月以百済王善光王等以居難波、
○光明常燈[御厨司の宝前にあり、不消の燈明といふ、其はじめ善光の願によつて、如来の光明をうつし給ひしより、今の世に至る、] ○後堂には
 弘法大師四国八十四番の観音・
 釈迦・阿弥陀・観音・勢至等を安置せり、
○外陣に畳凡百畳程を敷き、参詣の貴賎この所にて礼拝す、毎夜通夜の
 
   (改頁)
 
 人夥し、○向拝の前に中左右と賽銭筥三ッ有、○外陣に定香の台あり、
 其脇の花瓶に松を差す、これ親鸞聖人御手生の松といふ、[毎月朔日に着替る也、]
 又堂を上りて東西に鐘を掲たり、外には見得ぬ物なり、常ハ撞ニとなく
 開帳の砌に用之、○戒檀迴りといふ事有、須弥檀の東脇に入口あり、楷子
 にて下リ内陣の下を三度巡りて元の口ヘ出る、実に闇夜の如し、俗間に相
 伝ふ、放辟邪侈なる人は此所にて犬と為り、又怪異ありといふ、未詳、
○御年宮[本堂の後に有、]此宮ハ昔八幡の社なりしが、今ハ横沢町に遷してその跡也、
 毎年極月二の申の夜丑の刻規式有、 ○鐘楼[本堂の東に有、] ○毘沙門堂[本堂より東二丁に
 あり、別当所の別業爰に有、] ○納骨堂[本堂の乾にあり、]此辺本堂の裏通りにて、諸家の石碑
 多し、○経蔵[本堂の西ニ有、]高サ四丈六寸二分、横六間三尺二分四方なり、
○御供所[本堂の艮に有、]○蓮花松[如来御来迎の枩といへり、] ○十六善神[正五九月十五日大般若其外御祈祷之][節、御戸ひらく、] 
○秋葉宮[経蔵の西に有、] 弁天天祠[同北に有、]山王塚・諸神塚[本堂前左右の立石是なり、] ○万善堂
[別当所の北につゞきて東向の道場なり、] ○忠信・次信の五輪ニッ並び立、[三門の内西側にあり、古代の姿にて、文字も斑に分リがたし、]
 
   (改頁)
 
   29  
 
○銕燈篭石燈篭の事、相馬弾正少弼室・石川播磨守・平岡美濃守室等を
 始として、諸国より奉納する所の数凡二百三十余基、終夜其光たゆる時な
し、以上山門の内なり、[三門へ上る日ハ正月十五日、十][六日、二季の彼岸、三月十五日、四月八日、七月十四日、十五日、十六日、十月十五日なり、]
○三門高サ六丈六尺七分、桁行十一間一尺三寸梁間四間二尺四寸、文珠四天王を
 安す、○是より二王門までを誌す、○大勧進[西側にあり、]別当所なり、東叡山
 比叡山より住職なり、○手水鉢[三門外別当所の門前にあり、] ○天王宮[別当所の南にあり、]例祭
 六月十三日十四日祇園会なり、山車渡り、夜は芝居狂言あり、其外古雅な
 るねり物数多ありて、賑ひ夥しく、諸国より参詣多し、是を善光寺
 御祭礼といふなり、○六地蔵 ○大仏[山門下東側に並ぶ、] ○釈迦堂[世尊院にあり、]本尊涅
 槃の釈迦如来なり、天延年中越後国古多が浜より出現の像なり、
○駒返り橋 ○寛慶寺[山門の東に有、] この寺は慈覚大師の建立にて浄土宗也、
 時の鐘あり、○定念仏堂、[宝林院に有、轡堂と云、此寺に東都新吉原の遊女高雄が石碑あり、十三年目毎に回向ありとかや、]
○地蔵菩薩[金仏なり、西側にあり、昔の本堂此処也とぞ、] ○阿闍梨池[同西本覚院の裏にあり、] 昔皇円阿闍梨蛇身と
 
   (改頁)
 
成て此池に住るといふ、詳なる伝はいまだ聞ず、
 按るに、遠州桜が池ハむかし比叡山肥後の阿闍梨源皇といへる智識は、三塔無
 双の学者なり、法然上人の師にして、此源の字を賜り源空と名乗給ふ、然るに
 源皇つら/\案ずるに、仏道の淵底我一世の修行にてハ悟る事あるべからず、弥
 勒の出世を俟て、三会の暁を期を期すべし、されども、それまで命を保つハ竜身
 にしくなし、是に於て弟子等を諸国に下し、竜の棲所を見せしむるに、東
 国の使者帰り来つて申やう、遠江国笠原荘に桜が池といふあり、南は
 蒼海洋々として、北ハ青山峩々たり、其間に池水を湛へて、渕底測り
 なし、且清澄にして竜蛇の棲べき霊池なりと申す、阿闍梨是を聞て、
 一夜座禅して、一滴の水を掌の中に握り、雨風を起し、雲に乗じ桜が
 池に到り、入定し給ひけれバ、波瀾すさまじく、驟雨車軸のごとく雷電
 霹靂として村邑動揺す、其後源空上人此国に赴き、此池頭に臨み、師
 弟の別を嘆じ、恩謝の為弥陀経を誦し、称名念仏し給ヘバ浅猿しき
 大竜の形と顕れ、池上に頭を揚て落涙の体なり、源空上人もともに涙
 を流し、師弟の御慈あらバ、夲の人躰にてまみえさせ給へとありしかバ、
 竜身変じて源皇阿闍梨と成て、互に越方行末の御物語まし/\、
 
   (改頁)
 
   31  
 
 また濤の下に入給ふとぞいひ伝へ侍る、されバ皇円阿闍梨の蛇身と
 なりて此池に住るといふも、桜が池の類ひなるべし、
○諏訪明神社[敷石の東に有、祭礼九月十四日、]○熊野権現社[同西に有、祭日九月十五日、]此両者ハ一山の守護
神なり、[神主斎藤下総守] ○飯繩社[一山の火防の神とす、] ○閻魔堂[奪衣婆小野道風作閻王ハ先年焼失せり、] 
○御霊屋[大本願の北にあり、]御霊屋及び御年宮ハ宦府よりの御普請なりといふ、
○摂待所[同所にあり、]是より上壱町計左右小店連りて、数珠屋町と云、東都
 浅草雷神門の内なる小間物店の如し、如来御影の掛物并に数珠などを
 多く商ふ、○二王門[高サ三丈九尺二寸、桁行六間四尺六寸、梁間四間一尺二寸、南に二王あり、]北は三宝荒神、三面大
 黒天[きやら仏なり、]○大本願[紫衣の尼寺也、]住職ハ堂上方の姫君にて、善光寺上人と称
 す、日本三上人の其一なり、[日本三上人といふハ、善光寺上人、尾州勢(ママ)田の誓願寺上人、伊勢宇治慶光院上人、]
○社家斎藤氏の宅[同南に並ぶ、下総守と号、] ○法然上人旧跡[正信坊にあり、上人如来へ参詣の時逗留の所にして、自作の木像也、]
親鸞聖人旧跡[堂照坊にあり、笹字の名号并に肉付の御歯あり、]寺伝に曰、承元のころ、聖人越後
 国府へ遠流にて、建暦元年の春勅許なり、其後常陸国へ御通りの
 
   (改頁)
 
節、当山へ御仏詣堂照坊に御逗留の間、戸隠へ御参詣の御
帰に、風越といふ所に暫く御休の時、御手慰に路傍の岩笹を
採たまひ文字の形をなし給ひ、即其夜堂照坊にて、笹字の
名号を授与し給ふよつて風越の名号ともいへり、[建暦元庚未年三月上旬御滞留、此時堂照
第二十一世源阿大蓮教智比丘の代なり、]聖人横曽根正信坊・鹿島順信坊を召連ら
れ、当山如来へ御参詣、此時花枩を差上給ふ、今にいたつて親
鷺松といひ伝ふ、[本堂正面の太鼓檀にあり、毎月朔日に挿替るなり、]聖人肉附の御歯一ツ、[堂照坊にあり、]
七十四歳の御時にて、便御詠歌一首あり、
  いつのまに髪に霜おき一葉落ち身にしみてこそ南無阿弥陀仏
また元仁二乙酉年四月十五日御止宿あり、[堂照坊第二十四世空阿大徳了意此丘の時代なり、]
聖徳太子鏡の御影[浄願坊にあり、十六歳御自作の木像なり、]○二天門[先年焼失して礎のみ残れり、] 東の方
制札あり、[松代侯より建、]西の方番所あり、参詣の諸人坊へ着く者ハ、此所より
案内する也、本堂より此礎まで長四丁、巾三間余の敷石碁盤の面の
 
   (改頁)
 
   32  
 
如し、是ハ勢州白子の大竹屋何某一寄進と也、是より南へ大門町後丁・
田町・石堂丁など北国街道の順路なり、商家軒を継で旅舎多し、
名産牛皮餅、銅細工の店多く、其外菓肴飲食噐財等冨有にして、
自由ならずといふ事なく、男女の風俗及び言語迄も東都の意気あり
て、繁昌の仏都といふべし、○善光寺に四門四号といふ事あり、曰
  東 光明遍照門 定額山 善光寺
  南 十方世界門 南命山無量寿寺
  西 念仏衆生門 不捨山 浄土寺
  北 摂取不捨門 比空山 雲上寺
 
 
  (以下略)