三戸南部氏の津軽進出と大浦築城

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戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康(まさやす)の時代、戦国大名として本格的な発展を遂げる。信時は、四男の達子弾正光康(たっこだんじょうみつやす)を外浜堤ヶ浦(現青森堤町付近)に配置し「津軽郡代(ぐんだい)」とするとともに、延徳三年(一四九一)に南部久慈(くじ)氏の一族南部光信(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)城(現鰺ヶ沢町種里)に配置し安東氏への押さえとした。三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである。
 「文亀二年壬戌、花輪郡賀田郷ニ城築、是ヲ大浦ノ城ト云、嫡男盛信ヲシテ居住セシム」(資料古代・中世No.八七七)とあり、文亀二年(一五〇二)、種里城主南部光信は嫡男盛信(もりのぶ)を新たに築いた大浦城に置いた。天文十五年(一五四六)に浪岡御所北畠(なみおかごしょきたばたけ)氏が作成したといわれる「津軽郡中名字(つがるぐんちゅうなあざ)」に「鼻和郡三千八百町ハ大浦ノ屋形南部信州源盛信ト申也」(同前No.九一五)とあり、戦国期、賀田(よした)・大浦を含む鼻和(はなわ)郡は、「大浦屋形(おおうらやかた)」と称された大浦城大浦盛信の勢力基盤となっていく。そしてこの天文十五年以後、三戸南部氏は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城三戸南部当主安信(やすのぶ)の弟信(たかのぶ)を、大光寺(だいこうじ)城には南部政行(まさゆき)を配置し、大浦城とともに強力な支配体制をここに築き上げることに成功した。
 大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信が種里城で没した。光信の跡は、嫡男盛信が大浦城にあって継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿政信が、四代は政信の子為則(ためのり)が継承し、為則の跡を永禄十年(一五六七)婿養子として入った為信が五代目として継ぐことになる。
 この大浦為信の時期、三戸南部家では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、家督継承をめぐって養子信直を推す北信愛(きたのぶちか)・南慶儀(みなみのりよし)らと、晴政側につく東政勝(ひがしまさかつ)らとの間で抗争が勃発する。この抗争に、櫛引氏九戸氏七戸氏らも巻き込まれ、糠部郡は混乱に陥ったのである。こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を奇襲して津軽郡代南部高信を自害させた。これ以後、為信は一挙に津軽一円の領有化へと向かうことになり、天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉によって公式に津軽の大名として公認されることになる(長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。