表12「時慶卿記」にみえる家臣 |
津軽為信の家臣と 推定される人物 | 津軽信建の家臣と 推定される人物 | 津軽信枚の家臣と 推定される人物 |
1 森下作兵衛尉 | 1 千田与七郎 | 1 倉光主水 |
2 郡市左衛門 | 2 主馬 | 2 庚申源七郎 |
3 五郎右衛門 | ||
4 右筆彦右衛門 | ||
5 高坂弥作 | ||
6 三畝寺弥三郎 | ||
7 中野弥三郎 | ||
8 兼平金四郎 | ||
※信建の女中 | ||
1 小宰相 |
注) | 長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」から作成。 |
次いで、重要な資料は「梅津政景日記」である。これは、隣藩の秋田藩の勘定奉行で、のち家老に昇進する梅津政景(うめづまさかげ)の日記で、元和三年(一六一七)から寛永十年(一六三三)までの記事のなかに、弘前藩士二六人の名前が出てくる。それを、まとめたものが表13である(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』八四)。表12と表13を比べると、郡(こおり)市左衛門と郡市兵衛が同一人物の可能性はあるが、その他同一人物と思われる人名はないのである。
図表13 「梅津政景日記」にみえる弘前藩家臣
しかし、『津軽史 第八巻』(一九七八年 青森県文化財保護協会刊)所収の「信枚公御代 元和年中御家臣姓名大概」と表13を比べると、郡市兵衛・高屋豊前守(ぶぜんのかみ)・戸田茂兵衛・服部長門守・秋田金左衛門・乾(いぬい)四郎兵衛・大道寺隼人(はやと)・柳野織部(おりべ)・戸沢勘兵衛・北村久左衛門・青木兵左衛門・長山(永山)助左衛門・松野大学・小坂(高坂)伝兵衛・白取(山口)瀬兵衛・寺尾(寺屋)権兵衛の一六人が、名前が一致するかよく似た人名として挙げられる。
また、「封内事実秘苑 巻三」(弘図郷)の慶安四年(一六五一)十月十日条には、外浜(そとがはま)に新たに知行地を拝領した家臣の人名を書き上げた「在々御侍衆改帳」が載っている。それによれば、田中村(現在地不明)の取立者として唐牛(かろうじ)与右衛門・松野大学・森岡采女(うねめ)、中澤村(現蓬田村中沢)の取立者として吉田市兵衛・館山善兵衛・三上荘左衛門・松野大学、後潟(うしろがた)村(現青森市後潟)の取立者として吉田市兵衛・岩倉理兵衛・川越九郎左衛門・三上荘左衛門・神左馬助(じんさまのすけ)、瀬戸子(せとし)村(現青森市瀬戸子)他の取立者として杉山八兵衛・松野大学・森山内蔵助(くらのすけ)・北村与左衛門・高倉五兵衛・工藤孫左衛門・軽米(かるまい)兵助・馬場馬之助・竹内又兵衛・長尾安左衛門・大道寺隼人・森岡采女・三上荘左衛門・大湯彦右衛門の名前がみえる。表13と共通する人名は松野大学・大道寺隼人の二人のみであるが、「信枚公御代 元和年中御家臣姓名大概」には、森岡采女・館山善兵衛・川越九郎左衛門・軽米兵助・馬場馬之助・森山弥七郎(内蔵助)の名前がみえている。「在々御侍衆改帳」で、新たに外浜に知行をもらった家臣の中に、表13にみえる種市伝助の名前がある。このように、家臣団を部分的にはつかめるが、それ以上の解明は難しい。