家臣団の成立

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弘前藩家臣団の成立過程を厳密に解することは、ほとんど不可能といってよい。それは、江戸時代初期の資料はほとんど存在せず、まして家臣団の詳細を記した分限帳などは存在しないからである。文政二年(一八一九)の自序を持つ「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん) 巻一」(弘図郷)には、為信時代の「御当代諸士姓名大概(たいがい)」が所載されているが、そこに掲載されている家臣の姓名が、その当時のものであるという確証はない。したがって、津軽弘前藩以外の資料で、江戸時代初期の同藩のことを記した資料が非常に重要になってくるが、その一つに、参議西洞院時慶(にしのとういんときよし)の日記である「時慶卿記」がある。この「時慶卿記」に登場した、津軽氏家臣たちをまとめたものが表12である(長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」同編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊)。これによれば、当時弘前藩家臣団は、為信の家臣・信建(のぶたけ)の家臣・信枚の家臣と三分しており、一つのまとまった家臣団を形成していたのか不な点がみられる。「御当代諸士姓名大概」の人名で同一人物と思われるのは、信枚の家臣倉光主水(くらみつもんど)ただ一人である。
表12「時慶卿記」にみえる家臣
津軽為信の家臣
推定される人物
津軽信建の家臣
推定される人物
津軽信枚の家臣
推定される人物
1 森下作兵衛尉1 千田与七郎1 倉光主水
2 郡市左衛門2 主馬2 庚申源七郎
3 五郎右衛門
4 右筆彦右衛門
5 坂弥作
6 三畝寺弥三郎
7 中野弥三郎
8 兼平金四郎
※信建の女中
1 小宰相
注)長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」から作成。

 次いで、重要な資料は「梅津政景日記」である。これは、隣藩の秋田藩勘定奉行で、のち家老に昇進する梅津政景(うめづまさかげ)の日記で、元和三年(一六一七)から寛永十年(一六三三)までの記事のなかに、弘前藩士二六人の名前が出てくる。それを、まとめたものが表13である(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』八四)。表12と表13を比べると、郡(こおり)市左衛門と郡市兵衛が同一人物の可能性はあるが、その他同一人物と思われる人名はないのである。

図表13 「梅津政景日記」にみえる弘前藩家臣

 しかし、『津軽史 第八巻』(一九七八年 青森県文化財保護協会刊)所収の「信枚公御代 元和年中御家臣姓名大概」と表13を比べると、郡市兵衛高屋豊前守(ぶぜんのかみ)・戸田茂兵衛服部長門守秋田金左衛門・乾(いぬい)四郎兵衛・大道寺隼人(はやと)・柳野織部(おりべ)・戸沢勘兵衛北村久左衛門青木兵左衛門・長山(永山)助左衛門・松野大学小坂(高坂)伝兵衛・白取(山口)瀬兵衛・寺尾(寺屋)権兵衛の一六人が、名前が一致するかよく似た人名として挙げられる。
また、「封内事実秘苑 巻三」(弘図郷)の慶安四年(一六五一)十月十日条には、外浜(そとがはま)に新たに知行地を拝領した家臣の人名を書き上げた「在々御侍衆改帳」が載っている。それによれば、田中村(現在地不)の取立者として唐牛(かろうじ)与右衛門・松野大学・森岡采女(うねめ)、中澤村(現蓬田村中沢)の取立者として吉田市兵衛館山善兵衛三上荘左衛門松野大学、後潟(うしろがた)村(現青森市後潟)の取立者として吉田市兵衛岩倉理兵衛川越九郎左衛門三上荘左衛門神左馬助(じんさまのすけ)、瀬子(せとし)村(現青森市瀬子)他の取立者として杉山八兵衛松野大学森山内蔵助(くらのすけ)・北村与左衛門高倉五兵衛工藤孫左衛門・軽米(かるまい)兵助・馬場馬之助・竹内又兵衛・長尾安左衛門・大道寺隼人・森岡采女・三上荘左衛門大湯彦右衛門の名前がみえる。表13と共通する人名は松野大学・大道寺隼人の二人のみであるが、「信枚公御代 元和年中御家臣姓名大概」には、森岡采女・館山善兵衛川越九郎左衛門軽米兵助馬場馬之助森山弥七郎(内蔵助)の名前がみえている。「在々御侍衆改帳」で、新たに外浜に知行をもらった家臣の中に、表13にみえる種市伝助の名前がある。このように、家臣団を部分的にはつかめるが、それ以上の解は難しい。