「津軽一統志」の編纂

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享保十二年(一七二七)、五代藩主津軽信寿は、家老津軽(喜多村(きたむら))政方(まさかた)に命じて、史書の編纂に着手した。政方は、信政の代に家老を勤めた津軽政広の子息で、山鹿素行の外孫に当たる。用人桜庭正盈(まさみつ)と藩士相坂則武伊東祐則らが実際の編纂と校正の実務に当たった。
 同年十二月四日に発せられた史料収集を命じる触書(同前No.七八一)では、①為信の代に家臣だった三六人について、ささいな言い伝えや物語でも申し出、子孫は名のり出ること、②為信の征伐の対象となった二四人について、彼らの由緒、働きの様子、伝承をささいなことでも差し出すこと、③為信の征伐を受けた城の城主の名字、④浪岡城主の名字と由緒、⑤為信の戦いに関する史料の提出、⑥為信以前の歴史について何事も申告すること、⑦寛文九年(一六六九)のシャクシャインの戦いの際における蝦夷地での事柄についての覚書、および伝聞を差し出すこと、以上を命じている。

図115.史料収集の触書を記した国日記記事
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 この触達で注目されるのは、家臣だけでなく、領内全体が対象とされたことである。また、史書の編纂の意図・方針として、為信以前の津軽の歴史についても対象とし、それを受けて為信の津軽平定の過程の記録を編纂し、さらにもう一つの編纂の力点として、シャクシャインの戦いの記録を収集・記録しようとしたことがわかる。
 四年後の享保十六年(一七三一)、史書の編纂は完了し、藩主信寿に献上された。これが「津軽一統志」(以下「一統志」と略記)である。その序文をみると、編纂の目的は、津軽家の先君たちの事績が忘れられることを防ぐことにあるという。その成は、津軽の風土、産貢から書き出し、津軽家による草創・征功を記した後に、士臣の忠否・伝記や伝承を記して終わると記している。また凡例には編纂者が編纂に臨む態度などが記されている。この書は津軽氏の事績を記すことに主眼があり、同じ事件にいくつかの説がある場合、まず本来の事象と考えられるものを掲げ、次に異説を記すこと、史実として疑わしい話については「按(あんずるに)」字を示してからその出典史料を引用し、それよりさらに疑わしい説については後世の検討を待つという姿勢をとっている。また、各家に伝わる記録類は信じられないことも多いが、いたずらにそれを削除することは避けたと述べている。

図116.津軽一統志
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 「一統志」は一〇巻からなり、別に首巻・附巻がある。首巻に地誌を置き、陸奥国岩木山津軽地方の名所旧跡について記し、以下、巻一から巻九までに津軽家始祖の光信・盛信・政信・為則の事績を述べ、為信による南部家からの「独立」(伐り取り)過程を詳細に記し、さらに信枚・信義までの歴代の出来事をまとめている。そして、最後の巻一〇上・下で、信政の藩主就任から寛文九年(一六六九)の「寛文蝦夷蜂起」(シャクシャインの戦い)に至るまでを記述している。
 中でも、巻一〇に収められた寛文蝦夷蜂起の際の松前出兵に関する記事は、その詳細さによって、現在でもこの事件の基本文献として扱われている。さきにみた史料収集を命じる触書からも、この寛文蝦夷蜂起について津軽弘前藩の記録を残すことが、編纂の方針を立てる際から重要と考えられていたことがわかる。信政の時期に藩の支配体制が確立し、それが幕府からの要請に応じて十分機能し、幕藩制国家の防衛に果たした役割を記録に残しておくことは、藩政の展開が正しかったことを示し、目的の最重要課題のひとつだったといえる。また「一統志」の序に信政が「威風を夷狄(いてき)に振」った人物としてとらえられているのは、蝦夷地への派兵を信政の威風としてとらえ、藩が幕藩体制下において「北狄の押へ」であることを藩の正史に定着させようとしていたともいわれている(浪川前掲「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における異民族支配と『北狄の押へ』論―」)
 「一統志」の編纂は、津軽家、そして藩の自己認識を確立する作業であったといっていい。編纂事業を通じて、この前後藩にみられた藩政の動揺を防ぐために、イデオロギーの面から津軽弘前藩の存在の正当性をらかにし、補強しようとしたものといえよう(長谷川成一「津軽氏」『地方別日本の名族 一 東北編I』一九八九年 新人物往来社刊)。