町年寄の由緒

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弘前町年寄を廃藩置県に至るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に大浦へ下向し、知行一〇〇石が与えられたという共通点がある。松山氏町支配頭に任命され、一方、松井氏は堀越城下支配頭に任命され、その後、弘前町方取扱となり、町方支配に従事したことが知られる。慶長十一年(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも、小泊飯詰金木・浪岡など、津軽半島・外浜の開発にも責任を負っていたようである。これらの開発に従事した松井家は、津軽氏領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運十三湊、ひいては、日本海交易への結びつきを積極的に推進する立場にあったのだろう。
 また、表中の「知行取之分」など町支配の下部組織が、三〇~五〇石取の小知行層を取り立ててゆくことで、しだいに表29にみえるような下級の町役人層が形成されていったと思われる。ただし、彼らが城下特権商人層を形成した形跡はなく、あくまでも町役人として、次代を迎えることになった。
表29 弘前における町支配担当者の由緒
町支配の職出身召し抱え時点扶 持 拝 領 時
町年寄
町年寄
町年寄
近江
近江
本城
為信代
為信代
万治3年
100石
100石
 30石
為信代 (大坂浪人)
為信代 (浪人)
知行取之分
   同
   同
   同
   同
   同
   同
   同
   同
   同
   同
   同
津軽
津軽
越前
山城
近江
津軽
津軽
津軽
津軽
津軽
津軽
近江
 
万治2年
為信代
為信代
為信代
信枚代
為信代
為信代ヵ

信義代

為信代
30石
30石
50石
50石
50石
50石
50石
50石
50石
30石
50石
50石
寛文12年
      (最勝院無住時 衆徒支配)
寛文4年
寛永年中
為信代
寛文4年
信義代
寛永14年
寛永19年(新田仕立)
信義代 (隣国見聞役)
慶安元年(新田仕立)
為信代~
奉行
 同
籠守
時の鐘撞き
   同
   同
津軽
津軽
津軽
津軽
津軽
津軽
為信代30石
30石

30石
30石
30石
    (碇ヶ関番 寛文11年より)
寛永20年(延宝3年より)
慶安2年
万治3年 (小知行役 寛文5年から)
暦3年 (同上)
万治3年 (同上)