諸役と運上

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慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、城下の家業は、鍛冶九一、銅屋二一、大工三九、馬屋と博労一八、鞘師一一、鷹師二九、紺屋一二九、そして、居鯖五一、煙草屋五四、煙草作二三があり、このほかにもさまざまな家業があった。そして、屋敷持には町役が、町方の商工を営む者には定められた役銀が賦課された(以下は、長谷川前掲「弘前城下について」による)。
 寛文四年(一六六四)十一月六日、領内一円の酒造と麹造(こうじづくり)に関する役銀役米徴収についての規定が定められた(「御定書」一八)。このとき、城下の麹役についても厳しい統制下にあったことがうかがわれる(同前第三条)。このほかにも、塗師(ぬし)・鍛冶・桶屋・畳屋などの職人に対する役銀も、多くは同年に定められた。
 商業では、居鯖役が同じころに定められ、弘前城下には四人の居鯖横目が置かれ、役銀一枚ずつを免除した(同前二八第三条)。役銀はその種類が次銀(領内貨幣でも品位の劣るもの)と指定され(同前第一条)、七月と十二月との二回に分けて上納し、一年分の請け払いを完了することが定められた(同前第四条)。
 正徳期の場合、町中の酒屋が一一〇軒で役銀は一軒につき三両三〇匁、質屋は二二軒で役銀は一軒につき八六匁、ただし、利息はすべて二歩半と決まった。室屋(むろや)は三一軒で本役は三〇匁、新室は一五匁であった。豆腐屋は四〇軒で一五匁、魚売りは本役が三〇匁、半役は一五匁である。大工木挽は、上々が八匁、上が七匁五分、中が六匁五分、下が五匁、下々が四匁であった。檜物屋は一軒で四匁ずつ、染屋は五五軒で五匁ずつであった(資料近世1No.一一五〇)。
 藩政後期になると、職種が多様化するとともに、役銀を上納するものとしないものとに分かれた。役銀を上納しない職種は、おおむね小前の店か受け売り店などである。寛政八年(一七九六)には、御役職人が二八種あり、軒数では大工が最も多く、一一五軒あった。研師、鞘師塗師などには藩抱えの御用師がいた。御役家業は、造酒屋、質屋など三一種あり、造酒屋、菓子屋、素麺屋などが御用を承っていた。さらに、無役家業では、絹布・木綿・古手・小間物問屋、荒物屋など浄瑠璃太夫に至るまで一一六種にのぼり、日雇取は五四四人が数えられた。
 役高は、造酒役は七両二歩、室屋役は三〇匁、桶屋・染屋は五匁、豆腐屋は城下が一五匁で両浜が七匁五歩、質屋は弘前が一五匁で青森が四二匁、在浦が三〇匁、などであり、城下と領内とでは上納に違いのある職種もあった。幕末になると、役銀の徴収はさらに細分化され、造酒業の場合、造酒によって、一〇〇石のでは役銀一貫五〇〇匁、一三〇石では一貫九五〇匁であった。