天明三・四年の大飢饉は藩士の生活をも直撃した。第四章第二節で触れたとおり、大凶作により諸年貢の免除を行うという緊急事態のもとで、藩は初めて藩士の俸禄を禄高にかかわらず一定にするという「面扶持(めんぶち)」の制度を採用した。天明三年(一七八三)十一月三日、知行・切米・扶持方の別を問わず、一律に一日一人四合の支給とし、足軽・小者に至るまで全家臣一万七九二六人すべての俸禄が均一化された。ただし、禄高に応じて一定の銭を支給する調整は行われた。
面扶持の支給は当主だけであるが、飢饉という状況下で、つてを頼って手当をもらおうとした藩士の「親類人数」に際限がなく、藩庁も手を焼いた。飢饉は藩士を一層困窮させたが、それでも農民が餓死するなかで藩士の生計維持が優先されたことはいうまでもない。藩士への禄米の確保は最優先として進められた。『天明卯辰日記』によると、餓死者がピークを迎えた天明四年閏正月に、二〇〇〇石を用立てるよう弘前の蔵持ちの商人に厳命し、万一違背があるときは蔵探しを行うと申し付け(閏正月十日条)、二月十八日には「自分飯米」であろうとも用立てるよう命じている。このような藩庁の態度に、『天明卯辰日記』の著者は「評に曰く」として「数万人の人民を餓死に至らせ、そのうえ御家中の四合扶持の支給さえ差し支え、何の面目で下々に用立米を押しつけるのか。雑穀でもいいというが、結実不足でまるで『鳥のような幸せだ』と下々が誹謗すること限りがない」と厳しく非難している。それでも、面扶持には麦や悪米などを混ぜて支給しなければならなかった。この面扶持の制度は、時代が下った天保の飢饉の時も採用された。
面扶持の制度は天明五年九月に至って解除されたが(『記類』上)、依然三分の一の支給にとどまった。翌天明六年十一月には一〇〇石当たり四五俵の支給となり、ようやく半知(はんち)まで回復した(資料近世2No.四四)。この時も現米でなく、藩が買い上げという形で代銭が支払われた。しかし、代銭の支払いも滞りがちであったようで、「藤田権左衛門家記」によると四月以来一切支払いがなく、印紙で支給される一〇俵分も、凶作のおり無理に換金しようすれば一俵当たり二匁五歩から五匁で買いたたかれたと伝えている(同前No.四五)。ようやく十二月に至り一〇〇石につき米二俵ずつの支払いがあり「なんとか迎年できた。」と権左衛門は結んでいる。
四五俵支給という状況はしばらく続き、生活が立ち行かなくなった藩士が御蔵から内借をする事例が続出した。大身の者でも二、三〇〇俵も前借りする者もおり、準大身・小身の者を含めればおびただしい量に及んだ。藩はこのままでは御蔵奉行の勘定が危うくなるとして、寛政元年(一七八九)には内借の制度を停止、貸出分は一〇ヵ年で返却させるという措置を講じている(同前No.四六)。また、困窮する藩士たちを扶助するため、天明七年から九年にかけて一〇〇石当たり一〇俵の手当米も支給された。
しかし、物価も上昇し、生活を維持できない下級藩士も増加した。藩庁は彼らを救う究極的な手段として、藩士に自ら知行地を耕作させる在宅制度を実施するに至る。
この制度の目的と経過については本章第二節のとおりであるが、在宅制度は知行地と藩士財政が完全に分離される蔵米制とは対極的に、藩士財政と知行地の経営を完全に一体化させるものであり、これまでの政策を大きく転換させるものであった。しかし基本的に都市生活者と化した藩士層にとっては、慣れない耕作は困難で、また在地の百姓とのトラブルも多発したため、数年を経ずして旧に復された。以後は弘前藩の俸禄制度は再び蔵米制を基調にして、幕末に至った。