文化律

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寛政改革にもかかわらず、天の大飢饉の傷は容易に癒えず、財政の窮乏に苦しんだ藩は、文化四年(一八〇七)十二月、幕府から一〇ヵ年賦で五〇〇〇両を借り入れた(『記類』下)。一方、これまでの東西蝦夷地警備は、同五年十二月の幕命で永久警備となり、それによって表高(おもてだか)が一〇万石に格上げされはしたが(資料近世2No.九五)、格上げの分だけ軍役(ぐんやく)などが増加し、藩財政の窮乏に拍車をかけることになった。
 右のような状況の中で、「律」を模範とする「寛政律」が、実効性を発揮しえなかったことから、藩政の弛緩引き締め策の一環として、その改正へと動き出し、幕府法の「公事方御定書」に範を求めた「御刑法牒」(文化律)(「要記秘鑑」弘図岩。以下、文化律と呼称)を文化七年三月に制定した。範を「律」に求めないのであれば、幕府法に求めざるをえなかったからである。また藩では、天の大飢饉後に農村の復興に力を注ぎ、他領からも多数の百姓の移住を認めたため、領内支配を一層強化する必要もあって幕府法に範を求めたともいえよう。「文化律」は、「安永律」・「寛政律」と同様に主として百姓町人を対象とするものであった。
 「文化律」の編纂は、文化四年に刑法調方(しらべかた)として、藤田権左衛門・町田助太郎野呂助左衛門桜庭清次郎・古沢庄太夫・葛西善太・高屋定助が任命され、弘前城本丸御殿で作業が開始された(「国日記」文化四年三月二十九日・四月六日条)。さらに竹内衛士・須藤五郎太夫が刑法調方御用掛として加えられ、その後に長谷川献吉・黒瀧藤太(とうた)両名も編纂作業に参与し(前掲『藩法史料集成』)、同七年三月に「文化律」として完成をみた。
 「国日記」に散見する記事によれば、「文化律」が施行されていても、その後補足改正の作業が弘前城内で行われ、追加法を定めて刑の適用の円滑化を図っている。さらに黒瀧藤太を江戸へ派して「文化律」改正のための調査研究を開始し、天保三年(一八三二)五月に改正案が一応完成した(「江戸日記」天保二年九月十日・同三年五月二十八日条)。しかし、なぜか施行されなかったのである。
 「文化律」は初めに「名目」として総則を、次いで「御刑法捌」として各則を置き、項目の数は総則が三六、各則は一一二、合計一四八からなり、(「青森県刑法・警察史〈文化律〉」弘前市立図書館蔵 に付された番号による)「寛政律」より四九項目増加した。その成は、「寛政律」をそのまま採用したところは「寛政の御例」とし、それを基礎に多少変えたところは「寛政の御例斟酌」とし、両者を合わせて一三〇ヵ条ほどになる。また幕府法公事方御定書」を採用したところは「御定書」とし、それを参考にしたところは「御定書斟酌」とし、両者の合計が一四〇ヵ条ほどになり、「公事方御定書」の影響が著しい。そのほかに「安永律」をそのまま採用したもの、「安永律」と「寛政律」の両方を斟酌したもの、文化年間(一八〇四~一八一八)の判例を組み入れたものなどがみられるのは、「寛政律」の改定・増補の過程で調査してとりまとめた一種の資料集としての性格を持っていた。また「寛政律」にみられた「律」に基づく人命・打擲・盗賊・賄賂・田宅・倉庫・訴訟・運上・雑・犯姦の項目名は削られ、条文の表記法も幕府法公事方御定書」への接近・同化が認められる。
 「文化律」の規定とそれに対応する判例を検討すると、「文化律」は各則(各論)一一二項目のうち、五〇項目中の条文に対する判例がみえる。「国日記」にはすべての判例が記載されているわけではないという史料的限界はあるが、「文化律」は「寛政律」と比較して、より綿密に適用され実効性があったことがわかる。このほかに、「文化律」の項目・条文とまったく関係のない判例が多数みられることは、「文化律」は「安永律」・「寛政律」と同様に、条文にもとづく判決の申し渡しと、慣習・先例を参照しての判決の申し渡しの二本立てであったことを示す。

図182.文化律
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 「文化律」の運用面については、「文化律」の制定・施行後も、追加法などで犯罪に対する刑の公平を図った柔軟な適用がなされている。さらに「文化律」に項目・条文があっても、「寛政律」の条文がそのまま適用されるケースもあり、中国法の「律」・「清律(しんりつ)」や「公事方御定書」・「安永律」・「寛政律」などが犯罪の審議過程で参照されていた。
 慶応三年(一八六七)大政奉還(たいせいほうかん)が行なわれ新政府が発足した。その後、治二年(一八六九)の版籍(はんせき)奉還に至るまで、幕藩法(ばくはんほう)はこれまでどおり施行され、津軽領では「文化律」が施行されていた。翌三年十二月に政府が「新律綱領(しんりつこうりょう)」を制定・頒布したことによって、幕藩法の時代は幕を閉じ、「文化律」も廃止された。