七年余り続いた天保の飢饉だが、天明の飢饉のように短期集中型の被害でなかったせいか、人肉食いのような悲惨な伝承はあまり残されていない。もっとも天保九年に至り、『新岡累代日記』(みちのく双書32 青森県文化財保護協会 一九七二年刊)のように、死者が山をなした、という記述もあるが、実際は疫病死が中心だったと思われる。天保八年十一月二十日には、村々で時疫(じえき)が流行しているので、大圓寺で疫病退散の祈祷をして薬を配ったり、また翌九年三月に、大行院(だいぎょういん)で疫病退散の法要を行ったという記事が「国日記」にみえる。
一方、他藩で起こったような百姓一揆・打ちこわしは津軽領では大規模なものはなかった。とはいいながら、津軽弘前藩はじめ北奥諸藩が飢饉により一斉に米の津留や大量の購入を行ったせいで、大消費地である江戸やその近辺の米不足を招き、打ちこわしを誘発する要因となった。さらに、凶作が起こらなかった西国でも、江戸での米価高騰に影響された商人による米の買い占めが行われ、困窮した地元の貧民層により、さらなる打ちこわしを招いた。このように天保期の全国的な一揆・騒動には密接な相関性がみられるのである。
津軽領のものとしては、天保四年八月に、廻米の中止で陸揚げされた米の払い下げをめぐって、青森町民が弘前駄送に反対して竹槍で武装し、青森御蔵を取り巻くなどの騒動を起こした一件、鬼沢村(現弘前市)の者が検見引(けみびき)が認められなかったのに激昂(こう)して、約二〇〇人が弘前城亀甲門に押し寄せた一件が挙げられる。特に凶作の後半においては、藩が事実上救済策を放棄しているような状態にかかわらず、騒動は意外と少ないが、その代わり、藩の仕事を代行していた村役人層に対する村方騒動(むらかたそうどう)が頻発するようになる。天保五年三月、下飯詰村の者五七人が弘前に押し寄せて、庄屋の救米渡し方不明について直訴したのは、その一例である(「国日記」天保五年三月十三日条)。
七年飢饉のあと、素行に問題があるとされた藩主津軽信順(つがるのぶゆき)は天保十年(一八三九)五月に幕府から隠居を命じられ、養嗣子の順承(ゆきつぐ)が跡を継いだ。順承は生産力が低下した廃田の復興と、家内の倹約を努めるよう通達を出しているが、寛政改革のような具体的な施策はないまま、幕末を迎えるのである。