図20.盆中魂祭の図
図21.盆踊りの図
夏は、寺社の宵宮、ねぷた、盆踊り、盆休みの時に行われる相撲興行と領民の娯楽が続いた。これらの行事に対し、藩庁から規制が出されている。
元禄二年(一六八九)の規定は、五ヵ条から成っている(資料近世2No.二三八)。
(1)衣装は、わざわざ調達したものでないもの。隣り町内までは踊ってもよいが、通り抜けて他町内まで行ってはならない。
(4)十三日から十六日の晩までは、木戸は九打(午前零時ころ)で閉じる。それ以後は提灯を持たない者は通行させない。
この規定と同じような内容の町触は、毎年のように繰り返し出された。盆踊りは、七月十五日の満月前後に領民に解放された娯楽であったことから、喧嘩口論が絶えず、慶応三年(一八六七)には、平井平太左衛門の弟が土手町で踊り見物をしている時、何者かに斬り殺される事件があった。また、女子の参加から猥らな行為を疑われる者もあった。元禄五年(一六九二)には、目付・町同心・町目付が上町・下町を巡回したり、同九年の盆前には町奉行が無頼の徒九人を捕らえ、町内の月行事に預けたが、改めて牢屋送りとし、盆踊りが遠慮なく行えるように配慮した。
天明二年(一七八二)の規定(「国日記」同年七月十二日条)では、衣裳を数奇(すき)にしないこと、踊りの列に喧嘩をしかける者は町役が制止すること、刀を帯びて踊ることは禁止した。衣裳はだんだん派手になり、享和三年(一八〇三)には絹による美麗なものでなく、木綿を用いるようにさせた。しかし、規制されても美服を着る傾向は止めることができなかった。文化十年(一八一三)には、盆踊りの際の蔀頭巾(しとみずきん)・頬冠(ほおかぶり)は、これまでどおり認めるが、日中は捕縛することにし規制を強化した。
天保二年(一八三一)には、商人以外の婦人が夜間、宵宮・盆踊りに出ることを禁止し、藩士の子供・召使が通行人に対して悪口・石投げすることを、父兄・主人へ厳重に取り締まらせた。同十三年(一八四二)には、日中踊る者も現れ、この傾向は弘前のみならず領内全域にまで及んだ。安政元年(一八五四)には、町奉行と勘定奉行の間で、宵宮・ねぷた・盆踊りの問題点が出され、その中で、盆踊りが子供だけでは寂しく人気がない点が指摘された。そして、藩士の召使が屋敷内で踊ることと、婦人が男姿で踊ることが禁止された。しかし、婦人の男姿は禁止されても続いたことが、この後の規制からもうかがえる。
寛政元年(一七八九)には、最勝院から町奉行に、門前と禰宜(ねぎ)町で四、五年前より十八日から二十日まで踊りの期間を延長していることに対し、禁止願いが出された。文化十年(一八一三)には、在方での盆踊りは二十日まで行われ、賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)は弘前に近く、見物人が出かけて口論も起こるので、十七日以降は禁止となった。
図22.盆踊りの規制に関する国日記記事
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延享元年(一七四四)には六代藩主信著、天保四年(一八三三)には九代藩主寧親の死去により、領内での盆踊りは一切中止となった。江戸藩邸でも盆踊りが行われていた。その化政期ころ(一八〇四~三〇)の様子は、松浦静山(まつらせいざん)の『甲子夜話(かっしやわ)』(東洋文庫 一九七七年 平凡社刊)に、次のようにみえる。
諺(ことわざ)に鼻の先のことも知らぬと云へるが、予が浅草邸の西隣は弘前侯(津軽)の中邸なり。其邸にて七月十五日・十六日・十七日の夜は踊をなす。毎年この如し。これ其領国のならはしと云(いへ)り。士分より下賤まで皆踊ることなり。其形何にと定りたることも無く、思々の衣類を著し、遊女又は半した女(はしため)、又は老人、又は乞児(こじき)、又は䏕婦などのすべておかしき容体して、鳴ものならし囃して踊る。謡ふ章も定りなく、譬へば 婆々は腰は曲ったそれ/\と云ようの詞にて、拍子を打て踊るとぞ。侯よりも時には揃衣裳など賜ふこともあり。或は四斗樽の酒を其まゝ下されて、諸人酔に乗じて踊るよし。多くは衣服に轡(くつわ)を紋につけ、木覆をはきて踊ると云。これ弘前侯の手廻小頭熊谷文八と云ふが語なりと聞ぬ。
静山は肥前平戸藩主で、平戸藩上屋敷が津軽家の柳原中屋敷(現東京都台東区鳥越一丁目付近)に隣接していたことから、盆踊りの様子を聞くことができたのであろう。静山は、身分の差なく入り交じり、着物に轡を付けて鳴らし、下駄の音を響かせ、鳴物に合わせて酔いながら踊る様子を、奇異なるものとしてとらえていた。歌の文句「婆々は腰は曲った」というのは、現在も「どだればち」で歌われるものと同じようである。