二等銃隊の創出

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新しい軍事力とは、具体的には主に家中の次、三男層や弟などの傍系親族(ぼうけいしんぞく)を取り込んだ銃隊である。家長の当主と長男は非常時に当たっての動員は当然とされたが、次、三男層らを本格的に戦力化するには彼らに相応の給禄を与えねばならず、軍制改革当初から考慮されてはいたものの、藩財政を圧迫するおそれから躊躇(ちゅうちょ)してきた。ところが時局が悪化し、限りある収入で多大の出費に応じてはただちに国力が消耗してしまうが、近々の切迫した状況ではどうしようもないと、八月五日にこれを断行する旨の勘定奉行決裁が出された。次、三男層には月に二斗の玄米が支給され、組織された銃隊は御手廻(おてまわり)・御馬廻(おうままわり)組を藩主旗本隊とみて、それに次ぐ意から二等銃隊と命名された。弘前藩の軍事力拡大はこの二等銃隊の創設にあるが、従来、藩制の枠外に置かれていた彼らがここで起された意味は大きい。やがて軍事情勢の変化に伴い、若く強壮(きょうそう)な彼らは戊辰戦争では一貫して最前線へと送り込まれ、豊富な実戦体験を身につけた。このため藩当局もその実績を無視しえず、戦後の解兵過程でも二等銃隊だけは最後まで軍事力の枢要(すうよう)を占めたのである。
 では、二等銃隊とは具体的にどのような隊成だったのであろうか。戊辰戦争期を通じて二等銃隊はおよそ三五小隊ほど組織されたと確認される。二等銃隊の実態を表12によって示すこととする。
 表12は明治元年中に編成された二等銃隊の内、無作為に選び出した第一三番隊の人員一覧である。小隊の成は隊頭(たいがしら)(銃隊司令士)一、副役一、伝令士二、鼓手(こしゅ)一、隊員三二人となっており、史料をみると隊員に若干の増減があるものの、他の小隊もおおむねこの形態となっている。隊頭の石郷岡廉之助(いしごうおかれんのすけ)は二〇〇石取り御使番で、藩内では番方上級に位置する。副役の福士は御手廻無足(むそく)組で、奉公見習い中であり、扶持はわずかに五人扶持だが、やがて正式に家督(かとく)を継ぎ、御手廻組番士に昇任するはずである。伝令士の斎藤・石郷岡も同様に考えてよいであろう。ここまでが小隊の指令部であり、さらに行軍を円滑にするため足軽から鼓手が配置されている。軍制改革では鼓手も西洋太鼓(ドラム)を打てる者の養成がなされ、武器や服装だけでなく、細部まで軍制を忠実に西洋化しようとしたのである。
表12.二等銃隊13番隊人員一覧(明治元年5月16日付)
氏 名隊中の
役割
禄 高役 職親の役職・氏名(禄高)続柄
 1石郷岡廉之助隊頭200石御使番
 2福士東八郎副役5人扶持勤料御手廻無足組
 3斎藤彦太郎伝令士5人扶持勤料御手廻無足組
 4石郷岡権蔵3人扶持勤料御馬廻無足組
 5広島助吉鼓手30俵2人扶持諸手足軽
 6今井昂蔵銃隊員80石留守居組
 7光股岩吉20石留守居組
御目見得以下支配
 8小寺伊右衛門35俵2人扶持留守居組
御目見得以下支配
 9梨田裕作40俵2人扶持買物役格
10三浦金十郎無足留守居組忠八郎(30俵2人扶持)長男
11久保田頼之丞留守居組栄作(50俵)
12阿保忠助留守居組唯八(25俵2人扶持)
13八戸宗太郎留守居組寿吉(35俵5人扶持)
14井上勇作留守居組勇之助(6人扶持)
15寺井金吉郎留守居組御目見得以下支配雄平(3両3人扶持)
16成田初太郎留守居組御目見得以下支配栄作(1両3歩3人扶持)
17藤井健蔵留守居組御目見得以下支配源吉(22俵2人扶持)
18横岡藤之助作事吟味役格勝二郎(30俵2人扶持)
19木村初弥作事吟味役格勝二郎(禄高不明)
20田中直弥作事吟味役格民助(25俵2人扶持)
21島村亀吉作事吟味役格善仲(5両3人扶持)
22高山惣助作事吟味役格小細工人助七(30俵2人扶持)
23田中東馬御馬廻与力小右衛門(50俵2人扶持)
24永沢永一郎御馬廻与力直蔵(35俵2人扶持)
25藤田音次郎御馬廻与力豊吉(30俵3人扶持)
26渋谷貞太郎家老与力円之丞(30石)
27佐々木良作早道之者伊三郎(40俵3人扶持)
28小寺清蔵買物役格三郎(3両1歩2人扶持)
29八木沢文左郎馬廻組文之助(禄高不明)
30織田将次郎馬廻組直司(40俵2人扶持)
31羽賀五左衛門御中小姓格左門(5両2人扶持)
32森又蔵御中小姓格裕之進(40俵2人扶持)
33山中重次郎無足(玄米2斗)留守居組御目見得以下支配応之助(5両2人扶持)次男
34鳥井崎良作留守居組御目見得以下支配常作(22俵2人扶持)
35岡民之助御留守居与力直太郎(30俵2人扶持)
36阿保勝之助早道之者竜之助(40俵3人扶持)
37高藤六弥太御手廻番頭富太郎(禄高不明)
注)御軍政御用留」・「分限元帳(嘉永四年改)」(弘図津)より作成。

 次に隊員についてみると、三二人中当主が四人、長男二三人、次男・傍系親族が五人となっている。当主の場合、四人中三人が御目見得(おめみえ)以下であり禄高も低く、職制上の冗員(じょういん)を兵化したことがうかがえる。しかし、冗員といっても作事方(さくじかた)や勘定方買物方早道之者(はやみちのもの)(諜報(ちょうほう)連絡活動担当)などは工兵や兵站(へいたん)部に出払っており、決して余裕があっての銃隊化ではなかった。また、長男は二三人と隊員の中で一番多いが、これは前に述べたように、非常時には当主にならって戦場に赴くべきとの慣習から、まず第一に大幅に徴編成されたのである。彼らは無給とされたが、親は軽格の者が圧倒的に多く、薄禄の中から各地への出張負担を自弁するのは容易でなかった。ことに兵員補充が限界に達する明治二年(一八六九)に入るとこの傾向は増大し、藩も小禄の者の嫡子や次、三男らを徴した場合、残らず扶持を与えねば御に成りがたいと心配しているが、原則的には財政的制約から最後まで長男層に扶持は与えられなかった。
 さて、二等銃隊の主力は次、三男層であるように先に述べたが、表12によると彼らは五人にすぎず(表中No.33~No.37)、とても中核兵員とはいえない。次、三男層がこの表で少ない理由は、第一三番隊が組織された明治元年五月段階では、まだ彼らに対する訓練が行き届いておらず、「附属隊中手続者勿論打方一向不心得」(前掲「御軍政御用留」明治元年六月十七日条)といった状態であり、まず小銃の撃ち方など、訓練に熟達(じゅくたつ)した者から取り込んでいったためである。訓練は連日、行軍・散兵・銃砲取り扱い・実弾射撃などが厳しく行われ、八月ころになると、隊頭から隊中の訓練も大半行き届いてきたので、軍政局教授の派遣がなくてもよいとの報告が出されるほど完成していった。そして、その中に多くの次、三男層が含まれており、訓練の度合いにより、順次、銃隊に編入されていったのである。
 以上は二等銃隊第一三番隊からみた結果であるが、他の小隊例もみてみよう。弘前藩の軍制改革と軍事に関する記録をまとめた史料が「御軍政御用留」(弘図津)であるが、これを丹念にみていくと、軍制改革全期を通じて二等銃隊頭は四三人任命されており、その藩内役職の内訳は足軽頭六、御使番八、同格一、徒士頭格一、中小姓頭格三、番頭四、同格五、御手廻組六、その他八となっている。また副役は一六人で、御手廻組が一三人と圧倒的に多く、伝令士も五九人の内、不明の三人を除いては全員が御手廻組・御馬廻組番士である。よって、二等銃隊の指揮系統はおおむね番方上士が銃隊頭に据えられ、その下に番方中堅の副役、さらに同格の伝令士が副役の補佐役として隊員に命令を下達(かたつ)するという造になっていた。よって、新設軍事力とはいえ、二等銃隊は基本的には封建家臣団の身分秩序に沿って組織されたものであり、その点では、常時駐留・統一的訓練・命令系統の一元化などに適合した封建軍隊であったといえよう。