農兵の組織

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弘前藩の軍制改革は、前項で述べてきたように藩兵を中心に行われてきたが、組織的にはあくまで封建軍隊の枠組みを維持したまま、兵器や兵站(へいたん)を洋式化しようとしたものであった。よってやがてそれは決定的な問題に直面することとなった。つまり、目前の軍事情勢の緊迫に際して兵員増加を封建家臣団に求める限り、人数的に絶対に不足するのである。また、無理な兵員補充はどうしても高齢や病弱など、軍隊にとっては不都合な条件を持つ者を混入させてしまったのである。
 このような藩兵の不足を補うために組織されたのが農兵隊であり、戊辰戦争期の本格的な組織命令は明治元年(一八六八)の五月から六月にかけて出された。たとえば六月十四日に藩は郡奉行(こおりぶぎょう)に対して演説書を発し、家中兵隊の数は多いが、海陸数十里の領内は防御が手薄な所もあり、農民は耕作が専務であるが、時局変遷のため農兵を組織するようにと指令した(資料近世2No.五一七)。ただ、弘前藩で農民の軍事訓練が行われたのはこの時が最初ではなく、演説書にも先年来より農兵の御組立もあるのでとしているとおり、すでに安政年間から蝦夷地警備と関連して農村部でも藩によるてこ入れが行われていた。また、弘前藩に戦争の波がまだ直接及んでいなかった明治元年二月にも、あり合わせの和砲・西洋砲三〇〇挺と三文目(もんめ)五分(ぶ)玉筒三〇〇挺が郡奉行の要請で在方惣組に貸し出されている(同前No.五一〇)。しかし、実際には農兵隊がすぐに配置されたわけではない。したがってこれらの訓練は多分に危機意識を喚起する啓蒙的な意味であり、藩が本気で農兵を戦場に動員することまでは考えていなかったと思われる。農民の訓練自体も凶作気味となれば打ち切られ、配付された銃器も傷みが多かった。ところが六月の演説書では、機器の類は十分に行き届くようにするし、軍功があった者は士分への取り立てもありうると明記しており、これから起こりうる戦闘に農兵を本格的に動員しようと考えていたことは確かである。
 同年七月から八月にかけて、農民に対する軍事訓練は軍政局から教授方や番方藩士が在地に派遣されて活発に行われ、しだいに隊成も固まっていった。まず、農兵隊を統括するのは郡奉行とされ、実際の小隊長には農民の事情に詳しい代官が起された。また、副役には訓練に当たってきた軍政局の教授が一人付くこととされ、農兵隊の機能が低下しないように考慮された。さらにその下の伝令役や嚮導(きょうどう)(先行案内役)には在村郷士(ごうし)(村にあって士分待遇を認められた上層農民)や帯刀役(たいとうやく)(帯刀の特権を認められた上層農民)が三~四人充てられた。そして、隊員は各組・各村より盛壮(せいそう)の男子が選ばれ、おおよそ一小隊三八人から三四人程度にまとめられていたことが「御軍政御用留」(弘図津)から確認される。不十分とはいえ、以前に訓練の経験があったことから、農兵隊の精度はしだいに高まっていき、八月十二日には郡奉行小山内清之丞(せいのじょう)が四小隊を率いて、盛岡藩兵が集結していた野辺地方面へ備えるため、青森に出動できるまでになっている。彼らの持つ小銃は八匁(もんめ)ゲベール銃で、藩兵のミニエー銃とまではいかないまでも、ある程度の洋式化は進んでいた(表13・表14参照)。
表13.明治元年8月29日碇ヶ関出張農兵人数調
No.役職名人数備     考
1小隊司令士1御目見以上の士分より任命,郷夫1名貸し付けられる
2半隊司令士1御目見以上の士分より任命
3伝令役4御目見郷士・郷士・帯刀役より任命
4銃隊農兵36弾薬方と小荷駄方に4名を隊中から交番で出すこと
小計42
5足軽目付1郷夫1名貸し付けられる
6弾薬取扱宰料兼1代官小使より出すこと
7弾薬持夫7隊員36名につき1名増。農民より徴発
8医 者1碇ヶ関病院から派遣になる
9小荷駄方勘定人1藩より派遣
10小 人2農民より徴発
11炊 夫6農民より徴発
12浮 夫8農民より徴発
小計27
総計69
注)御軍政御用留」(弘図津)より作成。

表14.農兵武器調
No.武 器 名数量備     考
1八匁ゲベール銃40伝令役4,農兵36名分(附属品―胴乱・管入・和息・三股・万力・弾抜・火門針)
2八匁弾(ハトロン附)20,0001挺につき500発ずつ
3トントロ管(雷管)26,00010発につき3発の控え
4尖 弾600
5尖弾トントロ管(雷管)780
6弾薬箱34大20,小14
7尖弾薬大箱1
8控えゲベール銃8
注)御軍政御用留」(弘図津)明治元年8月29日条より作成。

 ただし、農兵隊の最大の弱点は彼らが実戦経験を持たないことであった。農民は戦士ではなく、江戸時代を通じて戦乱とは無縁であった。このため、戦場に引率されていっても士気は奮わず、戦争のことはもちろん、朝夕の飲食をはじめとして在陣中の一切を心配し、かつ、農民ということでみだりに苦役(くえき)されることを恐れる始末であった。現場の指揮官は農兵たちに、戦陣では上下貴賤(きせん)は論じられないし、一統で飢えや寒さ、労苦をともにするものだと諭しながら動員していったのである(前掲「御軍政御用留」明治元年九月一日条)。
 このように、農兵隊は決して自発的に組織されたものではなく、大多数の農民は当然徴兵を忌避(きひ)した。それでは農兵が具体的にどのように集められたのか、全体が解明されているわけではないが、いくつかの興味深い事例が確認されている。現五所川原市前田一(はじめ)家には明治二年(一八六九)付の賞典禄下賜(かし)状が伝わっているが、これは同家を興した前田万助宛(あて)に、柏木(かしわぎ)組代官田中元一が秋田水沢口の戦闘の労苦に対して金三両を与えるという内容である。前田家に伝わる話では、農兵の徴発に際して本家が尻込みをし、時の当主が自分の姉に婿をもらって、かわりに農兵としたという。これが万助(前田家では紋之助としている)であり、彼は戦後田六〇人役(四町歩)を本家から分地され、別家を興したのだという(佐藤文孝「一枚の感状」『郷土誌北奥文化』二〇 一九九九年)。
 また、明治三年から実施された帰田法の時、土地の取り上げを恐れた豪農たちは、藩に多くの請願書を提出したが(帰田法については、第六章第三節二参照)、その中には、自分の家では戊辰戦争に際して小作人を養弟(ようてい)として農兵に差し出し、藩に多大な貢献をしているので、何とか要求を容れてほしいというものが散見する(「諸願書綴」弘図津)。万助にしろ小作人にしろ、本家との関係は養弟であり、養子ではない。養子にすると相続問題が生じるからであろうが、農兵への代償として四町歩の耕地を割くのは本家としても痛手であったにちがいない。つまり、弘前藩の農兵組織は上層農民に対して賦役(ふえき)的に割り当てられ、その負担はさらに小前(こまえ)の農民に転嫁されたと推測される。