神仏分離の準備

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弘前藩に新政府から最初の神仏分離令がもたらされたのは、明治元年(一八六八)五月のことであったが、当時は戊辰戦争の混乱のため宗教政策まで手が回らず、しばらくは放置されていた。しかし、同年八月に弘前藩を頼って奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)が来弘し、最勝院(さいしょういん)(弘前八幡宮別当)を陣所とすると、最勝院とその末寺の僧侶は弘前八幡宮への社参を禁止され、最勝院梵鐘(ぼんしょう)をつくことも停止された。ただ、この例はあくまで醍醐の在陣中に限定されていたし、最勝院の具申によってなされた極めて限定されたもので、領内に拡大することもなかった。
 翌二年二月、藩は新政府からの神仏分離令を領内に触れたが、その内容は多分に具体性を欠いていたため、藩では対応に苦慮し、京都・東京近辺の諸藩の様子をみることとした。とりあえず、藩は寺社奉行を社寺(しゃじ)御用所寺社役社寺調方と改め、別当寺院神職支配を停止させた。そのため藩内の全神社寺院の支配を離れ、社寺調方の直接扱いとなったが、一方で新たな神職組織の再編成を迫られた。図76は安政年間(一八五四~一八五八)の神職組織であり、図77は明治二年八月~同四年十二月の神職組織であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や最勝院などの別当寺院が配下神主らから切り離され、社家長(しゃけちょう)を通じて社寺方、すなわち藩と直結していることがよくわかる。社家長には旧最勝院社家頭小野磐根(いわね)(旧名若狭)と長利薩雄(おさりさつお)(旧名薩摩)が任命された。藩は最初社家長を家柄によらず公正に選定するとしていたが、結果的には国学者平田篤胤(あつたね)の没後の門人である小野と、小野の紹介で平田の門人となっていた長利が、これまでの経験と配下への影響力を買われて任命された。その他、明治三年九月からは神明宮神官斎藤長門社家長代に任命され、藩は彼ら三人を通して神仏分離を進めていった。

図76.旧藩時代の神職組織(安政年間)


図77.明治初期時代の神職組織(明治2年8月~同4年12月)

 明治二年(一八六九)八月当時、藩では図77のような組織を定め、神社から別当社僧を切り離したが、仏像・仏具の除去までは行っておらず、小野・長利ら社家長から具体的政策を求められた。そこで藩は翌九月、神祇官より内々にうかがった回答をもとに、藩内の実情に合わせて神仏分離を実施する旨、発表した。また、同三年六月には新政府より大小社の調査が求められたが、これに対して藩では「藩内御崇敬神社調」を提出し、弘前神明宮をはじめとする一〇の大社と、その末社の格式や祭日を報告している(資料近世2No.四二二)。このように、戊辰戦争が終結した明治二年五月以降、弘前藩では新政府の指令する藩治職制への対応など、さまざまな課題に直面したが、宗教面でも神仏分離というかつて行ったことのない政策に取り組まなければならなかった。