昭和三年(一九二八)の夏から秋にかけて、『弘前新聞』は一万号記念事業として津軽十景の選出を行った。この事業は俄然弘前市民をはじめ、周辺地域の人々の耳目を集め、数多くの投票を呼び起こした。四十数日の投票期間、津軽人の心をときめかせた津軽十景の結果は、次のとおりである。
二位に五万票以上の差をつけて一七万票近くを集めた瑪耶渓が首位となり、二位から四位までは一〇万票以上を集めた。弘前市民のシンボルでもある弘前公園が四位、市民が誇りに思う岩木山が六位というのは意外な感じもするが、おおむね津軽人の郷土愛が見て取れるような結果といえよう。
写真8 昭和初期の瑪耶渓
昭和四年、弘前市民は自らが誇る弘前城と、そこに見事な花を咲かせる桜が、映画で世界に紹介されるという光栄を受けた。鉄道省が全国の桜の名所を撮影し、それを『桜咲く日本へ』と題して外国で放映することになったのである。事業自体は鉄道省の観光客吸引策だったが、弘前公園の桜は非常に好評を博した。フィルムは四本作られ、『弘前城と桜』の題名で、アメリカに二本、ヨーロッパに一本、残りの一本は海軍の練習艦隊が持参し、世界の港で公開することになった。
まだ戦争が起こる前のことであり、外国との交流も頻繁だった時期とはいえ、弘前市が世界に紹介されたことは、当時の市民にとって最高の喜びだったであろう。当時弘前城には津軽為信の銅像があり、桜と天守閣と為信像は市民のシンボルであり誇りでもあった。当時の絵はがきでも、弘前公園を写したものは無数に残されている。それだけ弘前市といえば弘前公園というイメージが当時から強かったのである。当時の観桜会を紹介した写真を見ても、恐慌・凶作・戦争のイメージは全く見られない。そこにはファッションこそ違うが、今日と同様に桜を楽しむ市民や観光客でにぎわいを見せている弘前公園が存在する。
写真9 昭和初期の観桜会
不景気とはいっても、弘前市民にとって毎年開催される弘前ねぷたは何よりの楽しみであった。市民は不景気なりにも、色とりどりのねぷたを製作し競い合った。見物する市民も観光客に混じって夏のひとときを過ごした。
写真10 ねぷた(昭和初期・仲町)
青森市の歌舞伎座とならび、弘前座では演奏会や演劇が繰り広げられた。現在の我々と同様、当時の市民にとっても演劇や音楽の鑑賞は格好の趣味だった。それにちなむ形で市と弘前新聞社が主催し、弘前市歌を募集している。昭和九年十一月、「弘前市の秀麗なる山水と、質実剛健なる地方色とを謳歌し、将来発展の意気を鼓舞する」目的で、七五調の作詞を公募したのである。作曲は近衛秀麿である。
写真11 弘前座
弘前市だけのことではないが、当時の音楽を語る際に津軽三味線の隆盛も見逃せない。音楽コンクールやピアノ・声楽なども盛んに行われた。絵画・書道はもちろん、当時の市民も現在の我々と同様に多様な趣味に興じていたのであり、不景気のなかでも生活を楽しむ工夫は持ち合わせていたのである。
市民はスポーツにも大いに関心を示した。『弘前新聞』は昭和九年の夏以降、「県下スポーツの華」として岩木登山競争を開催した。一番町にあった弘前新聞社前から岩木山神社を経由し、頂上まで往復三〇キロ弱を踏破するものである。現在各地で行われる地域マラソン競争の類だが、これも毎年夏を彩る活気ある行事として市民の喝采をよんだ。
昭和戦前の世相を語るとき、そこには常に不況と恐慌・凶作のイメージがつきまとう。たしかに恐慌・凶作が青森県をはじめ、北海道や東北各県を襲ったのは事実である。しかし弘前市の場合、青森市と同様に近代的な都市が形成されており、そこには当時流行したモボ・モガの時代が展開していた。土手町通りのにぎわいは都市弘前を何よりも象徴していた。角は宮川をはじめとするデパートでのショッピングも、市民の楽しみだった。映画も市民の娯楽の一つであり、ニュース映画で情報を仕入れ、娯楽映画を楽しみ、その流行が流行を呼び、それに興じる市民が街を歩いていたのである。
写真12 角は宮川
地主小作制度に象徴される農山村社会の深刻な問題は、地主の豪農・豪商化をもたらし、小作人の窮乏と自作農の小作化を引き起こしていた。昭和農村恐慌はそれらを増幅させた。貧富の拡大は当時の社会運動でも問題視され、運動家の重要な闘争材料でもあった。
社会運動家の重要な活動根拠の一つでもあるのだが、同じ時代・同じ日本の社会に、一方で身売り女性を出さざるを得ない農山村社会がありながら、もう一方で地主や豪商などが都市で派手な生活をしている社会の矛盾があった。後に青年将校たちが五・一五事件や二・二六事件を起こした要因の一つも、東北地方の貧しい農山村社会が、地主・豪商・資本家、そして政党政治家の経済的搾取にあると見なされたことにあった。貧富の拡大による生活の格差が問題化したのも、この時代の一つの特徴だった。
その一方で地主や豪商たちは、第一次世界大戦後の好景気をばねに、大資本をもとにした企業活動を行った。その結果、多くの労働者やサラリーマン階層が登場し、彼らが会社や工場などの近辺に住居を構え、いわゆる都市を形成した。都市には人口が集中し、近郊からの物資の流通によって商店街が形成された。さまざまな人や物資が集中することで、新たな文化も創造された。このような都市が形成され発展したのも、第一次世界大戦後から昭和初期にかけてだった。
農業以外にさしたる経済基盤のない農村民が、凶作で欠食児童や身売り女性を生み出さざるを得なかったのに対し、都市に住まう人々は、不況下にありながらも、少ない給料や賃金で生活を維持できた。そして彼らは農家が仕事のできない冬場でも、就業さえしていれば、少なくとも賃金を得ることができた。ある程度一定した賃金収入があることは、何よりの強みでもある。彼らはその少ない賃金をもとに、ささやかながらも都市での生活を楽しんでいたのである。
同時に、不況下にあるストレスや時代の圧迫感が、モボ・モガなどの享楽的な文化を生み出した側面もある。人々が多数集う都市だからこそ、新たな生活・文化が生まれ、多様な価値観を生み出す。比較的単調な生活が続く農山村の文化とは、ある程度異なった文化や社会が都市には展開しつつあったのである。こうした多様な社会が各地で見られたのも、昭和初期の社会の特徴でもあった。