こうして徳川家康の命に従い、会津遠征の軍に加わるべく、下野国犬伏(いぬぶし)(栃木県佐野市)に陣を取っていた真田昌幸に、石田三成方の豊臣家奉行長束(なつか)正家等より七月十七日付けの書状が届けられた(写真)。七月二十一日のこととみてよい。秀吉の遺子秀頼を擁して反徳川の兵をあげたので、是非吟方になってくれというのである。そのため、昌幸とその長男信幸、次男信繁(幸村)の父子三人による協議がなされた。その結果は周知のように、昌幸と信繁は石田方・西軍に加担し、信幸徳川方東軍に加わり、父子兄弟が東西に分かれて戦うことになった。

真田昌幸宛長束正家等連署状
真田昌幸長束正家連署状

<史料解説>

真田昌幸長束正家連署状   真田宝物館蔵

  慶長五年(一六〇〇)七月十七日

 家康会津遠征軍に加わるべく上田を発し、下野犬伏(佐野市)に在陣していた昌幸のもとに届いた檄文。反家康勢・西軍の決起を告げ、豊臣秀頼への忠節、つまりは西軍への同心を求めている。家康内府)が会津上杉景勝征討の軍を起こしたのは誓詞や太閤の置目(遺言)に背くものであり、相談して「楯鉾に及」ぶ、即ち挙兵した、別紙に掲げた家康の非違条項を尤もとお思いで、太閤様の御恩を忘れないでいたら味方してほしいとしている。これを受けて、真田氏は昌幸幸村西軍に付くべく上田城へ引き返し、信幸はとどまって東軍に味方することになった。豊臣家五奉行のうち、石田三成と浅野長政が抜けたあとの長束(なつか)正家・増田(ました)長盛・前田玄以の三名連署。

<訓読>

  急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

真田父子犬伏密談図
真田父子犬伏密談図

<史料解説>

真田父子犬伏密談図   佐藤雪洞画  上田市立博物館

 西軍より届いた檄文をうけ、真田父子三人が犬伏(いぬぶし)の陣中で協議している様を描いたもの。向かい合ってそれぞれの思うところを述べ合う昌幸信幸。それをじっと聞いている幸村

 信幸は天正十七年に家康の下に出仕していた。その後は秀吉の家臣扱いとなっていたが、妻には家康の重臣本多忠勝の娘小松殿を迎えていた。

 これに対し、信繁は秀吉に出仕していた。そして、秀吉側近の要人のひとりで三成の盟友でもある大谷吉継(越前敦賀城主)の娘を妻としていた。吉継は、やはり家康の命に応じて会津遠征に参加しようとしていた。しかし、美濃にまで進んだところで佐和山の石田三成に招かれ、家康打倒の計画を打ち明けられ協力を求められる。吉継は再三それを思いとどまらせようとしたが、親友三成を見捨てられず、ついに同心したという有名な話であるが、信繁の岳父でもあった吉継の西軍加担の事実も当然、使者により伝えられたはずである。

 また、昌幸の娘のひとりは、石田三成の妻の弟宇多頼重(頼次)の妻となっている。三成と頼重は義兄弟だったのだが、頼重は三成の父の養子となり、「石田刑部少輔」とも名乗っていた。このように真田昌幸は、その娘を介して石田三成と近い姻戚関係にあった。真田父子は豊臣・徳川の両方とそれぞれに深い結びつきを持っていたのだった。

 昌幸沼田領問題をめぐっては家康と干戈を交えてさえいる。家康に対する不信感はやはり拭いがたいものがあったろう。一方、秀吉は結果的にせよ、徳川軍に攻められた昌幸の窮地を救ってくれ、その後も昌幸を厚遇してくれた。天下人であった秀吉が、自分のような子飼いでもない田舎の一小大名を特にかばってくれた。これを大いに徳とする思いは強かったものだろう。実際、武田氏滅亡後の大争乱の中で北条・徳川という大強豪を敵に回して、石高こそ十万石足らずとはいえ面積は広大な、信濃・上野二国にわたる領域を維持できたのは、秀吉の裁量によるところが大きかった。

 さらに、この点は忘れられている向きが多いが、昌幸上杉景勝への恩義の思いも強かったものと考えられる。景勝は徳川軍の上田城攻めのとき後詰をしてくれただけではない。これ以後小田原の役にかけて、北条勢の攻勢に耐えて沼田城沼田領を真田方が持ちこたえることができたのは、上杉の援軍の力によるところも大きかった。天正十三年の上田合戦の時はもちろんだが、秀吉書状によれば、翌十四年の時点でも沼田領の真田持ち分の城の二・三か所には、上杉勢が詰めてくれていたものでもある。

 この天正十四年には、家康自身が真田を討とうとして出陣し、家康を取り込みたい秀吉もそれを承認するという、真田氏にとっては危機的な事態を迎えてもいた。結局この真田再征は秀吉の意向により中止となっているのだが、これは上杉景勝真田を庇護しており、景勝から秀吉への働きかけが強かったことによるとみられている。

 その恩をうけた景勝を征伐しようとする軍に、家康の命で加わっていた昌幸であった。それも、豊臣政権に対して逆心を企てているという難癖をつけての征討軍である。内心忸怩たるものがあったことは間違いないだろう。

 この遠征に従軍し下野に至っていた秀吉恩顧の諸将も、真田昌幸・信繁以外はほとんど全員が家康に従った。その中で、昌幸は嫡子信幸と断ってまで、ほぼ即時に西軍への加担を決断した。反徳川陣営決起の知らせを受けたその日の夜には次男信繁とともに犬伏の陣を引き払い、上田へ向けて引き返している。これは縁戚関係だけでなく、上杉・豊臣・徳川氏、それぞれとの今までの経緯に対する思い、それも特に上杉氏征討について反発する思いが強かった故と思われるのである。

 父昌幸・弟信繁と袂を分かち、徳川方にとどまった信幸は父弟の離反を家康に報告した。七月二十四日、家康信幸の忠節を「奇特千万」と賞し(写真)、続いて二十七日には、小県郡上田領)は親の領地であるから、異議なく信幸に与えると約している(写真)。

真田信幸宛徳川家康書状
真田信幸宛徳川家康書状

<史料解説>

真田信幸宛徳川家康書状   真田宝物館蔵

  慶長五年(一六〇〇)七月二十四日

 父昌幸・弟幸村と袂を分かった信幸は、家康のもとにおもむき、父と弟が西軍に応じたことを報じ、自分は家康に忠節をつくす旨を告げた。これは信幸のその忠義を、家康が「奇特千万」として与えた褒状。

<訓読>

  今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

真田信幸宛徳川家康安堵状
真田信幸宛徳川家康安堵状

<史料解説>

真田信幸宛徳川家康安堵状   真田宝物館蔵

  慶長五年(一六〇〇)七月二十七日

 二十四日の右の書状に続いて家康信幸に与えたもの。小県郡は親の領地であるから異議なく信幸に与える、その上どのようにも取り立ててやると約している。

<訓読>

  今度安房守昌幸)別心の処、其の方忠節を致さるる儀、誠に神妙に候。然れば小県の事は親の跡に候間、違義無く遣はし候。其の上身上何分にも取り立つべきの条、其の旨を以って弥(いよいよ)如在(じょさい)に存ぜらる間敷く候。仍って件の如し。
   慶長五年七月二十七日 家康(花押)
     真田伊豆守殿