小沢芝産同亀春一代記 慶応三年八月稿
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「当家初代
好古堂芝産一代記 全 小沢和徳誌焉」
(上伊那郡辰野町 小沢和延氏所蔵)
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清和源氏之末流小沢伊勢守之苗裔
[初代]小沢氏元祖喜左衛門 [逆応道順居士] より[二代]小左衛門 [華山蘭藁居士] [三代]治兵衛 [壁応心鉄居士]
[四代目]小沢喜左衛門政則 照阿興吽居士
[嫡子]小沢治兵衛氏朝 壁岸道鉄居士
喜左衛門二男 惣領
別家[五代]小沢小左衛門氏昭 小野序助 浩外義然居士
寿岳瑞応居士 二男
智海良泉大姉 小沢 元郁 万嶽雄峰居士
三男[家督]
小沢小左衛門 松山寿徳居士
四男[別家]
小沢 団治 仁嶽義淵居士
五男[早世]
小沢五藤治 鉄壁金柱信士
女子
古田長十郎室 南室仙喬法尼
本家喜左衛門家督
三男
小沢喜左衛門氏久
天長亮賀居士
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[四男]外戚 吉左衛門子
小沢吉左衛門 小沢小左衛門
棟林元梁居士 貴嶽盛高居士
雪巌素仙大姉 永嶽寿昌大姉
小左衛門嫡子吉左衛門
小伝治
善之丞
善九郎
おとの
幾次郎
嘉左衛門
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[当家初代]好古堂芝産一代記
一元文元年出生幼名小沢岩松父ハ小沢小左衛門母ハ同村名主
小野長左衛門娘也 本家小左衛門ニ男女子供六人あり
惣領ハ鉄之助成長して小野序助上町綿屋江養子ニ行
二男ハ小源治幼年より尾州名古屋江医学ニ遣し
執行之上帰国中町江養子ニ遣シ小沢元郁と改中町より
別家シ医師と成[小野下町ニ而開業す]三男喜三治成長し親之家督
相続して小沢小左衛門 と改名老後隠居して
[天明寛政之頃也]寿徳と号シ両小野手習師範致し候四男岩松幼
年より手習学間を好み其頃[元文寛保之頃也]ハ当村ニ手習指南致す
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もの無之松本水野家之御浪人岡本伝左衛門と云
御方仁義正敷(ただしく)諸道ニ御達シ被成誠篤実温厚
之御仁ニ付小野村之御師匠ニ御頼申上一統御指南ヲ受候
其後岡本様水野家江御帰参ニ付[門人之内高弟と被仰]御跡譲を請ケ且
寺子之親御達ニ被頼[宝暦十一十二之頃也]小沢団治と改名手習師匠
相始申候同人妻ハ飯沼中村名主小沢小左衛門姉ヲ娶り申候
岡本様者試月先生とも申学文能詩作等も被遊候
諸礼等委敷(くわしく)祖父団治へ不残御伝授有之右伝書等
所持罷在候処天保五甲午二月朔日夜火災ニ付其外書類
焼失残念之至ニ候五男五藤次気性も能両親寵愛
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にて手習学問を励み俳諧等も心掛兄弟中も一入力に
思ひ候へ共寿命無之廿五才ニ而死去致し候其節辞世の
句 あくひしてひとりのほらん死出の山 と被成候由哀ナルコト也
女兄弟壱人ハ早世し壱人ハ北小野村大出古田長十郎
室と成ル扠(さて)当家祖父団治本家より別家分知致し
唯今の酒屋之家屋敷之処南之方間口七間四尺是江家作致
身代持始候処男子弐人有之本家世盛りニ育立候故
世事ニ疎く手習学文遊芸等謡鼓三味線尺八等ハ
人にも誉らるゝ程ニ候へ共百姓之家ニ生れ鍬鎌算
盤等ハ生涯之間一度も手ニ不取只上人一通之事而已
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子供江[手習素読等]指南より外ハ何も不致事故纔三ケ年余も暮シ候
内ニ八拾三両余之大借と成無拠親類相談を請本家
より被譲候田地を質物ニ入其外家財道具等売払ひ
右借財元利不残金主方江相済シ候へ者残金少々残り
是よりハ魂を入替何成共稼可申と中町大下伯父様方
にも御異見被仰候所江折能松島村より手習師範ニ頼
来り松島三ケ村之子供サヘ教被下候へ者万事御不自由無ク
御世話可申候間是非松島へ御越可被下と北松島村藤沢
右衛門三郎殿南松島日野重左衛門殿頼みに御出被下候ニ付
親類評議を請候処何レも可然由被申依之子供之親御
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衆中江茂相咄断申候上跡指南(次の師匠はの意味)ハ岡本様より譲り弟子之
内ニ而八左衛門殿舎弟要七殿其節一番能書ニ候故是江
師範を譲り置夫より任松島之招待引越申候併取付
之事故先一ケ年ハ妻子ヲ本家江預ケ置独身ニ而一ケ
年手鍋ニ而相勤其翌春より妻子共ニ松島村へ御引取
被成候由最初一ケ年御壱人ニ而御暮被遊候時ハ未タ御近
付も少く万事御不自由御淋敷御苦労今更察し
上候乍去三味線抔若キ者へ夜分ハ御教江被成仍之
若キ衆毎晩参り稽古等いたし大ニ人和ヲ得取持
宜敷随分賑かに御暮被遊候由日長キ頃ハ退屈被
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成馬便ニ大豆煎などを本家江被遣下候様書面抔にて
被仰越候事抔有之候由翌年より者親子四人一所に
被成御座候故何も角もいゝ沼より御出被成候祖母さまニ御任せ
子供教訓之外ハ世事ニ一向御構無之御安気ニ御暮し
被遊候由毎年少々宛蚕御養ひ被成[毎年よく当り候]由是もばゞさま御
先立御働桑もぎ抔御手伝被成候由何事も祖母様
御油断なく御働近所之衆へも丁嚀ニ御心易御交り
義理よく被成候故次第ニ諸人ニ被尊敬門人も繁昌し
近郷他村より入門有之大ニ楽々と御暮しニ被為成候
尤祖母様ニハ平生倹約を御守り正敷御勤被成候由ニ候
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一宝暦十庚辰年春本家より北ノ屋敷江家作別家いたし候
棟ひきく質素ニ建候故伯父氏朝様普請見ニ御出
御覧被成御腹立ニ而甲ニ似テ臍を巻とかや[此様成普請]見度もなし
とて既ニ御帰り被成候を漸御引止メ棟上之御酒を御すゝめ
申候所袂より金子三両御出シ造作之足シニ可致とて被下御
帰り被成候と承り申候 芝産様之思召ニ者百姓ハ不勤候
故大キ成家ハ不入只本家より分知并家等も成丈物入ヲ懸
不申様ニとの思召也とぞ
一宝暦十二壬午年男子出生幼名茂吉成長して団治
匡保と名乗同親之業ヲ継ギ老後緑毛亭亀春卜号ス
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一明和元甲申年二男出生幼名豊吉成長して木下町
玉屋江養子卜成新内と改甲州市川御陣屋野田松三郎
様御手代役相勤小沢正助清方卜名乗訳有て浪人し
東都神田御成道花房町代地ニ而手習師匠相始め
寿福楼松正卜看板出シ大ニ繁昌し御旗本御家人
并町家之子供共ニ門人多し老年迄栄耀ニくらし
七十一才ニ而卒ス[天保五正月四日葬送][最初ハ外神田岩井町代地ニ而寺子屋相始其後花房町 代地へ引移り又上野町ニ而指南いたし六十八才ニて帰郷横川 木曾沢ニ而一ケ年教又江戸へ帰り一ケ年遊ひ正月二日卒ス]
一芝産様其頃之江戸飛脚甚右衛門[久保村之人也]と申人江相頼み被
仰候者倅茂吉十二才ニ而最早手習も相覚へ候ヘハ江戸江遣シ
他人之目を見せ行末渡世向ヲ為覚度迚十二歳之冬
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甚右衛門殿ニ附而出府町家江店奉公ニ入候処至極主人之
気ニ入十六歳之春迄相勤候処首尾克相勤後ニ者
内之実子の如く愛せられ暇を取候時ハ惜まれ候而
漸ニ暇を取帰国之時ハ主人も途中迄送り互ニ涙ニ而
別れ帰り候と承り候帰国之後ハ[十六才より]商ひを始め朝夕両親へ
孝行を尽し昼者近在江日々負ひ商ひ等被成候よし
一芝産様常ニ被仰候者兎角善心仁心なきものハ禍
多し縦ハ最上吉日にても悪心悪事を工み候ヘハ終
にハ身をも家をも亡す又悪日不成就日に拘はらず
善事慈悲心家職を勤めさへすれ者自然と福
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来るもの也依て吉日たりとも悪しき事ハ慎てせぬもの
也と常々仰られしと父公より承り申候
一芝産様初メ松島村江御引越之砌ハ先師匠森[半助信敏]氏の
居宅ニ而手習指南被成候処古屋ニ而麁宅(そたく:麁は「あらい」「粗末」の意味)ゆへ外
屋敷[北畠ト云処新町へ普請後此家者山伏へかし置候処是も消失いたし候]を借り学開所を作り御教被成候内茂吉様も御
成人御稼被成候而共々御苦労被成松島新町油屋茂兵衛殿
北ノ屋敷へ六間口ニ而立派ニ[二階付ニ]御普請家作御住居被成候処
寛政十一年の春二三軒先より出火類焼いたし候芝産
様ニ者寛政三年御病死ニ而其後の事ニ候
一最初分知之節建候家ハ借財埒(らち)之節同村兵右衛門殿ニ
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売渡シ申候屋敷ハ武八郎殿ニ無心被申松島へ引越後ニ只
今之屋敷ニ武兵衛殿家作素建被致外囲ひ等出来
造作ハ聢与(しかと)出来不致家共ニ組替ニ致し候松島留主故
家賃屋敷共ニ一ケ年金弐分ツゝニ而問屋別家[よろづや]長左衛門殿
姪婿之事故長々貸置申候長左衛門殿も此屋敷にて
稼出し高持ニ成唯今之屋敷へ家作致寛政年中家作
被致引移り被申候跡松島住居ニ而家不用ニ付雨沢直治殿
世話ニ而上町大工善五郎殿へ寛政十年春売払候所右
家塩尻宿荒井富田やへ善五郎殿より売遣シ申候也
一芝産様御在世之砌下諏訪宿亀屋ノ弟松島へ来り
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泊り居候而紫檀棹之歌三味せん盗み取夜逃いたし候処
茂吉様朋友之若手日野や久左衛門殿始四五人ニて東西
南北へ追手ニ出候処芝産様御案シ被成若(もし)捕へ打擲抔
にて痛メ候而者気之毒とて杖を突松島大墓まて
御出掛之処へ右之盗逃来り御逢被成今ニ若キ衆追来り候間
急ニ逃可申迚三味せんも不取直ニ御遁し被成候若衆達も
大ニ張合を抜し被申候由[祖父様ニ者余人と違ひ只仁心つよく一向ニ無欲 之御気質故今時之人気卜ハ雲泥万里ニ御座候]
一天明四年大飢饉之節茂吉様商売ニ而御都合能大出村
酒屋喜右衛門殿ニ米余程御買預ケ置之処松島山道
之大工幸助とかいひし者の処へ芝産様一寸と御出被成候而
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親子四人計其困窮見るに見兼大出酒屋ニ倅茂吉
買置し米有之間予か口上ニ而壱俵持来り凌可申又
此事茂吉ニも誰ニも一切咄シ申間敷と堅ク御申被成候へ者
悦酒屋より早速持来凌候由芝産様より一切内へ御咄無之
其年之暮勘定之節一俵不足ニ付芝産様へ御尋
申御心当り無御座哉と申上候へ者只勘忍して呉よと計
被仰候ニ付併如何被成候と申候ヘハ当夏山道之大工家内四人
にて子快等か泣を見兼夫故一俵遣シ申たりと親の事
ゆへ茂吉様ニも其儘ニ承知被成候其冬小行燈(あんどん)ニ硯箱
引出シに拵[うるしニ]塗揚当夏親子四人之命御救ひ被下候御礼ニ
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御隠居様火燵(こたつ)ニ而本抔御覧之節御用ひ被成候様ニ迚
歳暮ニ持来り申候大ニ重宝ニ而有之候処天保五二月朔日火事ニ而焼失
一[俗名小左衛門氏昭]寿嶽様中風ニ而十三年之間御病気之節も至而御随ひ
よく御孝行被成候由御舎兄寿徳様傷寒ニ而強ク御煩
之節も松島より御看病ニ御出被成一ツ夜着之内ニ御入撫さすり
御看病被成熱病故余人ハ身要心いたし候へ共芝産様
にハ兄之看病ニ而死バ本望迚無怠り御勤メ御看病被成候が
少も御うつりなく御看病被成其内寿徳様ニも御全快ニ
被為成候由斯一心ニ実意を以する時ハ自ら仏神之
感応加護有之ものと難有事ニ候
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一木下町玉屋隠居とハ格別御合口ニ而御懇意之呑仲間
平生被参被遊候由夫故伯父様ヲも養子ニ被遣候由
凶年之砌茂吉様大出酒屋ニ而酒壱本御買被成当年
之事故御退屈之砌御一人ニ而御上り被成候様ニ御申候へ共
御悦決而人ニハ出シ不申候迚被仰候がいつか木下へ書状ヲ被遣候
哉玉屋隠居折々被参忽壱本[二人ニて]呑仕廻夫よりは
樽酒ハ止メ小買ニ而上ケ候と親人御はなし被成候
一平生珍らしき物出来候ヘハ兎角人ニ進せ度思召が
御病ひにて麺類其外別ニ何角出来候節ハこつそり
御出懸知己之御仁を御連レ込共々御楽しみ御酒之上
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私か家内ハ福手ニ而沢山ニ有之候 宜上り下されとて
おどけまじりに機嫌よくあしらい被成候故ばゞさまニも
閙敷拵へ足シ抔客之目ニ見せず機嫌をとり饗応
する事折々のよしいつとなく陰徳にも相成候哉
茂吉様ニも諸人之愛敬を請次第に御仕合よく甲府
にてハ伯父様御立身被成其頃ハ何不足なく御くらし被成
尤天明七年より中風ニ而御発病寛政三年迄御煩ひ
御病中[吾父]茂吉様一代之内の御勝手宜時節故御療治
御養生服薬等も手の及ぶ丈御届キ内村御入湯抔ニも
駕籠ニ而茂吉様御付添其外看病人等大勢ニ而物入ニ
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御往反被成飯沼より御出被成候祖母様と親茂吉様と御両人ニ而
五ケ年之御看病大切ニ御従ひ被成平日之御孝行松
島村日野屋[久左衛門]大東[喜惣治]其外之御老人方御感心被下我等幼
年之頃[右之老人方より]御咄承り申候寛政三丁(ママ)亥四月廿八日卒ス同
廿九日葬送松島北村明音寺門内ニ而葬礼小野村
同姓親類高遠松島三ケ所木下長岡大出門人衆[雨沢いゝ沼]中条
大泉統而弔ニ御尋被下天気快霽ニ而菩提所神光寺
本格ニ而出張 小野三ケ所親類之女中達馬ニ而参られ
供ニ立凡上下(かみしも)着之人数三百人余之由松島始而之大葬
礼と人々噂申候由 誠奇代之事と難有奉存候
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一芝産様一代者名乗無之夫故印形も無之何事も本家へ
御任せ置公義向公事訴訟事等一切御嫌ひ唯道人
風ニ而子供江指南之外ハ詩作并俳諧古流之生花
尺八蹴鞠等も被成松島近辺大家歴々衆と附合御楽
[此時節ハ小野伊那ともに高持衆ハ大分蹴鞠流行或ハ楊弓杯もはやり候由]
被遊候由一生金銭ハ御貯不被成候へ共能き生れニ候
一毎冬子供謝礼ハ川下り笊(ざる)ニ入置掛取来り候ヘハ上り端へ
出し置書出し取候て御覧之上其笊ニ有之間よきやうに
取可被申と挨拶いたし候ヘハ掛取衆然ハ何程貰申候迚
断り取候由其外跡より来掛取も右之通ニ取行遅々来ル
掛取ハ笊ニ尽無之候ヘハ又春迚不取行候人も有之由
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年々左様ニ而人も気風を知り居六ケ敷事なく年取
を御祝ひ被成候由 茂吉様御成人後ハ商売も被成万端
御引受御賄ひ被成候ニ付猶々御安堵ニ御暮被遊候由
一或年節季大晦日町方日野屋久左衛門殿店商ひ掛
寄ニ出北村中之寄銭持来り夕方迄御預ケ申度とて
大笊一はいさし銭粒銭共ニ預ケ置又掛取ニ被行候跡芝産様
内之銭と思召掛取ニ例之如く其笊ニ有之候間勘定
いたし持可被参とて掛取衆追々ニ取行其跡へ日野や
来り候処茂吉商ひ之寄銭と思ひ払候迚誠ニ日野屋も
迷惑之処無致方茂吉様と相対ニ而大づもりいたし
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茂吉様より勘定償相済シ候由誠ニ今時之咄とハ別段之事也
一中風御病中木下若キ衆帯無河原ニ而其頃名人之
初蔵芝居有之芝産様ニ御病気御慰ニ御出可被成迚
別ニ高桟敷ヲ掛木下頭分之若キ衆本駕籠ニ乗せ申
大勢ニ而舁参り大木戸ヲ明高桟敷へふとんを敷夫江居ら
せ木下松島之門人衆廻りニ被居酒肴所々より沢山ニもらひ
[近村之歴々衆も御見廻被下]終日饗応ニ而見物被成候処役者初蔵肝を潰し
桟敷へ参り茂吉様へひそかに申候者私共諸国狂言にて
是迄何方となく歩行候へ共今日御隠居様之御見物
御歴々方の御見廻御饗応誠ニ御大徳驚目感心仕候
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定而明日も御見物之御積り可有御座候歟先々今日之所ニ而御帰宅
御連レ帰り御尤ニ奉存候よき事ハ寸善尺魔ニ候へ者明日
御見物被成若哉桟敷ニ酒之上ニ而喧嘩等も有之候時者
御病人之御事万一之義有之候而者今日之全盛水之泡
と相成如何ニ候間先々今晩限りニ而御帰り可被成と流石初
蔵之異見祖父并親茂吉様ニも忝事(かたじけないこと)と被思召木下
衆種々御留被下達而と被申候へ共其夜木下衆へ篤ク
礼を述又々駕籠ニ而松島新町宅迄無事ニ被送帰宅
被成候由尤門人衆取持とハ乍申小野村より出稼同様
他処住居ニ而右之饗応を請候者無勿体忝事と
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親匡保様も我等幼年之節折々御申聞有之候
一芝産様御壮年之砌尺八を御好み被成甲州乙黒明暗
寺より本則を請松本山辺江中町治兵衛[氏副]俵や直次[正盛]
何レも御若キ時三人ニ而入湯ニ御出被成虚無僧出立にて
紫縮緬之丸ぐけ〆錦の袋ニ替筒を入御城下を終日
三人ニ而吹歩行御楽み被成候由三人共ニ尺八御上手之由逗
留中御家中衆と御附合風雅之酒宴等も御座候よし
其頃ハ同姓中世盛之時節只今之時節ノ人気と違ひ
渾而(すべて)風俗優美之有様也当時之人気ハ上下共に
金銭之世中ニ成古昔とハ雲泥万里と替り果申候
(改頁)
一芝産様飛州先生江御誓約神道御学び御講訳
御聞被成候 御聞書数多有之写本ハ百姓分量記
俳諸十論抔有之候御蔵書ハ
書言故事 蒙求 朱子家訓 五経 古文 三体詩
小学四巻 訳文筌諦 唐詩選 絶句解明 七才子集
桜陰腐談 伊呂波韻 節用集大本二冊 小本節用用文章一冊
小笠原流諸礼大本伝書 外ニ写本諸礼二冊 草書韻会
三略一巻 三略註書大本[但シ写本]明教大師補教編
其外写本小本等有之候 右亀春様より匡晧迄伝来
之処去ル天保五年火災ニ而惜哉不残焼失也
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一芝産様御廟所ハ松島明音寺後山開山塔ニ有
御戒名 仁嶽義淵居士
俗名 小沢団治
寛政三丁(ママ)亥年四月廿九日 寿齢五十六歳
智廊敬信大姉
寛政十一乙未年(ママ)五月廿日 同人室 俗名すゑ
五十七才卒ス
飯沼中村小沢吉左衛門娘
右明音寺ニ位牌も納メ在之候
右者尊父匡保様より承り候儘ヲ謹而書記之矣
好古堂一代記畢
三代目小沢匡晧字和徳撰述
(改頁)
(以下画像なし)
緑毛亭(注2)一代記
二代目好古亭芝産嫡子
小沢団治匡保 幼名茂吉 老年剃髪緑毛亭亀春ト号ス 七十三歳卒
ス 天保五甲午六月十二日 法名緑毛亀春居士
同人妻 幼名ふみ後ニたみ 高遠町人近江屋四郎五郎娘 天
保八丁酉十二月十日卒ス 行年六拾七才 法名緑巌
智春大姉
男子 早世
女子 幼名梶後ニかね 病身ニテ老年薙髪法随尼ト云
安政五戊午年六月十五日 六十七才卒ス 法名
玉祭法随法尼
男子 幼名忠吉 喜次郎ト改メ三代目ノ団治 家督ヲ
続(継)キ政左衛門ト改名シ又団治ト改ム 隠居シテ
和徳ト号ス 実名匡晧随喜軒素信ト云 菁莪堂
ト号シ雲集楼ト云 静寿館楽山ト号ス
匡保舎弟
小沢良助清方 幼名豊吉 東都神田上野町ニテ卒ス 七十一才 法
名積翁為善居士
匡晧母方親類
近江屋
高遠町 白鳥 甚四郎 当時藩中ニ而白鳥正平
箕輪西山 木曽福島問屋
中条村 小沢 団右衛門 唐沢与一右衛門 亀子 孫太夫
きの国屋 同横町 北殿宿問屋
高遠中町 伊藤 藤左衛門 細田 杏泉 倉田三郎兵衛
同御家中 中林太次右衛門
とさや
同中町 真部 友右衛門
木曽や
同下町 小林 惣右衛門
きそや
同 小林 藤左衛門
太田や
同 黒河内甚右衛門
緑毛亭亀春一代記
一宝暦十二壬午年出生 幼名茂吉 父ハ芝産母ハ飯沼中村小沢吉左
衛門娘 本家小左衛門宅ニ生れ稚きより愛敬ありて父母の寵愛浅
からす 生立直にして仮にも父母に争ふ事なく成長に随ひ親に孝
行を尽し其行ひ正しく手習学文ハ父より教を請恒に学問の志厚し
安永二癸已年十二才の冬父の命に随ひ東都江久保村飛脚甚右衛門
に連られ行店奉公を勤実貞成事主人の気に入首尾克三ヶ年相勤
其翌安永六丁酉ノ春無事ニ帰国父母の悦限りなし 夫より商ひを
始め山方中原 八乙母 古田 大泉 羽広 上ツ戸 中条辺または久保
塩ノ井 長岡 大出 沢 両小河内村々へ時々の売物小間物太物類日
々出情(精、以下同じ)商ひ致し候処諸人の贔屓(ひいき)を請何方ニ而茂往を待居て買候故
両三年に大ニ仕出し新町[松島油屋茂兵衛ノ北隣]江店掛りに相応之家作を致し万
之店を出し次第に商売繁昌いたし候 親芝産様ニ者二階広く候故
手習子供ハ二階ニ而御教へ被成候
一安永九年十九才之時中伊那辺ニ而大禄之豪家より以仲人懇望被致
何分養子ニ貰請度旨被申込近所平生心安き人々迄も参り進め呉ら
れこちらにハ御二男も御座候間誠先キハ大禄と申よき所ニ候間是
非御相談御取組被成候様ニと仲人其外迄ニ強而すゝめられ芝産様
ニも御乗込親之情合ニ而我が痩身代より養子ニ遣はせば彼が仕合
と覚し召飯沼へも申遣し伯父小左衛門様ニも御同心被成跡ハ豊吉
ニ譲り置養子ニ可参 還而夫が両親へ孝行之様ニ被仰芝産様ニも
其義ニ御決着 既ニ先方へ取極メ可及挨拶と被仰候ニ付茂吉様種
々御考被成候処弟豊吉[後ニ良助ト云]ハ平生気もあらく放蕩ニ而銭遣ヒ等
も幼年よりあらく始終不安堵之者ニ両親を任せ我レ惣領ニ生れな
がら向ふの大禄を見当ニ養子に行事ハ何分心の済ぬ事也 併両親
始伯父様がたニも其思召ニ候ヘハたとへ不承知ヲ申上候而も早速
ニ御得心あるまし 只足を抜て断るより外なしと了簡を究め平生
心友にて万事咄合致ス心友の朋友三日町村伊兵衛殿子息後に松島
本陣へ養子ニ成千葉原喜惣治殿也 是江咄思案をかり相談之上取
計はんと直ニ其夜三日町へ参り喜惣治殿へ委細噺し談シ候処喜惣
治殿も同心ニ而成程御舎弟ニ而ハ往々御不安堵ニ被思召御尤ニ存
候 一先何方江歟暫御出被成御断之義可然と相談を請書置を残し
跡之義喜惣治殿江委細頼置三日町より直ニ発足いたし甲府宅間酒
屋者松島出口樋口平右衛門殿伯父ニ而以前より知音ニ付右之宅へ
参り委細咄シ頼み候処早速請合然者拙家ニ暫ク被居酒蔵ニ而帳付
ニ而も彼致候様ニと深切ニ世話被致呉候故一ケ年計宅間ニ在留罷
在候内右縁談之義も断り相済帰国致候様松島より文通ニ付弐拾才
之冬宅間へ厚ク礼を申述暇乞いたし松島江帰り又々商ひ出情両親
江仕へ申候
一親茂吉様母之仰ヲ守り若年より酒を御慎み少シも不呑物毎実貞ニ
堅ク被成候故諸人之思入能商売元手金茂無差支間ニ合其頃大出酒
屋松島大東三日町伊兵衛殿其外高持衆迄も取持商ひ元手ハ二十金
三拾金ニ而も借入置ながらも間ニ合飯田八幡村油屋孫三郎殿抔ニ
も被取持商売自由ニ金廻りよく候 且又江州商人伊勢屋伝四郎殿
奥井忠兵衛殿抔ハ大商人之所日野屋久左衛門殿定宿ニ而松島近在
之店々江太物 小間物 筆 墨其外卸売被致日野屋ニ者長々逗留被
致候而段々代物も其度々仕入懇意ニ相成後々ハ遠国ながらも誠兄
弟同様ニ交り致候由 仍之天明三卯年大飢饉之節抔ハ飯田ニ而大
豆を仕入甲州へ送り大ニ儲其外穀類ニ而儲自由能暮し少シハ人に
取替も出来両親江も孝行安堵為致人ニも誉られ候由 是全芝産様
平生善心正直を御守被成候余光且御先祖之御蔭故と我等江も御申
聞被遊候
(○申略・母嫁入リノ記事アリ)
一寛政三年四月小児出生之処産家之内ニ水子ニ而相果申候 此以前
天明七年秋之頃より仁嶽様中風ニ而長々御煩当年ニ而五ケ年ニ相
成候処懐妊之節より御悦今ニ孫を見るとて御楽み之処小児不育死
去いたせしを甚悲ませ給へは参り居候近所之衆今ニ又孫殿も出来
可申間必御歎キ成れぬやうニと慰めけれバおれハ此病気故モウ見
る事ハ出来ぬ/\迚泣給ひ父上ニも誠ニいたはしく悲み共ニ泣給
ひしとなり 祖父様ニも中風追々重らせ給ひ療薬しるしなく終に
其四月廿八日かくれさせ給ふ 且母ハ産後煩ひて久々打臥いまだ
得与不肥立内舅之不幸故葬礼之供ニも歩行不叶油屋より連参り候
横町辰之丞と申者之肩ニ負れ野辺送り之供ヲ勤其後日数経て漸全
快いたし候由 夫より七日/\の問弔五拾日の間急度忌中相勤初
七日迄ハ毎早朝ニ上ミ下モ着用にて廟参不怠五十日之忌中払も心
の及丈法事相勤神光寺松島へ葬式共ニ両度御越平日之忌日其度々
明音寺へ相願御請待申葬式忌中払ニも明音寺より御伴僧大勢召連
御光駕被下候由 且他村配役之旁江ハ葬式之節大勢ニ而忌中払ニ
御招客手ニ不及候故小野親類松島いゝ沼高遠より参り候客計ニ致
シ残者餠を沢山ニ搗乍返礼人を頼み為持参り外村々江配り返礼申
述候と親人より承り申候 誠ニ仁嶽様之御徳世之好キ時故如斯執
行も出来申候 中々今時ニ而ハ我か身分ニ而ハ中々不及事ニ候
雖然父母之高恩を能思ひ候へ者家之有無ニ不拘在世ハ勿論後々迄
も人間之勤可成丈心を尽し厚ク敬礼を以親先祖之祭祀勤行度もの
也
一芝産様五ケ年之間御病中祖母様と親人御両人之御従ひ御気嫌を取
御介抱御孝行御慰被成候事老歳子之孝ニも似たり抔大東隠居抔も
御咄被下候
一同性(姓、以下同じ)従弟直治殿子息喜藤次殿幼少之節手習内弟子ニ被頼八才より
拾六才迄九ケ年之間松島へ引取預り万事世話いたし元服子ニ被頼
因み子ニいたし候 右頼置候而直治殿[別人ニ而正盛ト云シ人也]ニ者九ケ年之間
江戸稼被成候而都合能被成御帰国之上喜藤次殿被引取申候 親人
御壮年ニ者訳而篤実ニ堅ク御行状宜ニ付直治殿ニ茂一入頼母敷被
思長々之間御任せ被頼候由也
一父公御壮年之砌謡ハ大出村井沢藤右衛門殿ニ御習ひ被成候 毎夜
大出村迄雨雪之夜も不休御根気能御通ヒ御稽古被成候 神道ハ里
ノ今井村梶原大膳先生并床尾先生よりも御聞被成候と被仰候 学
文之御朋友は梶少進老[医師 後ニ飯田荒町ニ住ス心友ノ知己也]千葉原喜惣治殿 樋口
求馬
老 大井田昌庵老 日野善右衛門殿 日野久左衛門殿 大出村井沢条
助殿抔誠断金之朋友ニ而常々集会有之相互ニ行通イ被成候由 其
後者いゝ島本郷村桃沢夢宅宗匠京都ニ而歌道御執行相積京都東山
岡崎垂雲軒澄月上人と申御方二条家風の宗匠ニ而歌道の達人にお
はせしに長々随身し終ニ歌道の奥儀道統の伝を受地下の宗匠のゆ
るしを請京都にて大名(メイ)を発して門人を引立給ふ 一と先故郷江帰
国ありて伊奈郡諏訪松本の御藩中其外ニも門人あまた出来歌道専
ら開けり 并飯島町松島駅小野宿ニも和歌之社中拾弐人アリ 父
匡保にも早くより門人ニ成学ひ給ひしにある春伊勢太々講ありて
連中と共に参宮し其序(ついで)京都大坂名所旧跡をも拝まんとて発足の
砌飯島の本郷村宗匠[桃沢茂兵衛匡衛とて旧家の村長也 幼年より和歌ヲ執心して三十
歳ニ而上京し澄月ヲ師トシ学ブ]江立寄
懸御目候処此度上京被成候ハヽ尊師澄月上人江御状差上度候間東
山岡崎垂雲軒へ御届可被下 尤貴殿歌道御執心之訳も書面之内へ
書添遣シ可申間夢宅門人と被申尊師江も拝謁可被成迚宗匠より書
翰を授り夫より道中無恙(つつがなく)伊勢太々神楽首尾能相済し京都大坂順拝
し京都逗留中東山垂雲軒澄月上人の御庵室へ推参し取次を以右之
書簡を差上何卒御目見仕度旨願ひ候処暫有て座敷江可通との仰有
恐る/\御座敷の入口迄参り扣居候処寄(奇、以下同じ)麗の御座敷ニて備後表に
高麗縁の畳上人にハ白無垢の小袖ニ紫縮緬の丸ぐけを御〆成れ折
節堂上方御両人様御座候而何角御清談も有之様子也 武者小路
様ニ大炊衛門様也 御次ノ間ニ而承り候由 猶々恐入て平伏いた
しけれハ上人様仰ニ者信州桃沢よりの書翰相届呉られ披見之処い
まだ若年ニ而歌道ニ志桃沢門人の由寄特之事随分無懈怠心懸らる
ゝ内ニハよき歌も出来るもの也 此道六十才以上ならでハ和歌の
味ひ知れがたし 貴様にも随分身の行状をつゝしみ美食を好まず
成丈麁食を食して長寿を保たるへし 唐人ハ肉食をする故ニ夭寿
にして七十古来稀也抔と詩ニも作れり 我朝ハ慎みよき人ハ随分
百歳の寿も保つべし 愚老当年八拾四歳いまだ眼鏡を用ひずと御
話しあり 始めての拝謁に御示の御教訓難有恐入申上るハ只今の
御教訓誠ニ以有かたく候 唯々貧賎之私ニ候ヘハ何卒と志候而も
兎角不任心底候と申上候へ者重ネて尊師仰にハイヤとよ此都の内
にて七蔵(ナヽクラ)持ても志シなきものハ生涯道を知らずして終る也 たと
へ貧賤陋巷(ろうこう:狭くむさくるしい町)にありとも志ありて学ふ時ハ終にハ歌道の奥にも至る
此上志を逞(たくまし)ふして桃沢に随ひ励んて執行せらるべし 扠此節ハ日
もうらゝかによき時分也 定而紀行の歌首あるべし また東山見
物抔ニて即吟もあらハ見せらるべし 時に五首組題を遣す間爰に
て早速詠出なつかしくハ旅宿へかへりよまれ又明日にも持参せら
れハ点削いたし遣はすべしとこま/\と御深切ニ仰聞られける
夫より題を給はりて御暇申て旅宿へかへりける 翌日者道行中と
神社仏閣を拝み廻り一日立て又々岡崎の御庵室江参り上人江懸御
目右組題の五首を詠草に認入二尊覧一候処早速御直し下され随分捨ず出情上達致すべしと仰下され懐紙へ
勤めつゝ老か齢ひも古き世の姿にならへ言のはのみち 澄月
この時澄月上人懐紙御認被遊候へハ御同席の堂上様御覧被遊尊師ニも書ハ御見事也と
御讃メ有之候へバ上人御答ニハハイ若キ時余程骨ヲ折り習ひました 若イ時ニ骨をお
らねば此位ニもかけませぬものと御挨拶被成候由 誠ニ貴人の上ニ而者軽薄なく感心
仕る事也
と遊はされ外にも懐紙短冊等国への土産にとて御染筆下され有難
く頂戴し色々と御教諭を蒙り名残惜くも御暇乞申上桃沢への御返
翰を預り奉り旅宿へ下り休みぬ 洛中見物して打連て帰国いたし
けり
一世の中の事一たびハ栄へ一度ハ衰ふる皆是世の有様とかや 此頃
迄甲州市川御陣屋御手代役小沢良助清方卜云伯父様ニも御仕合よ
く御立身中登りニ御帰国之節おりよ叔母さまをば駕籠にのせ御自
分ニハ乗掛馬ニて立派ニ誠古郷へ錦を飾ると本文の如く皆夫々ニ
宮笥物を調へ小野 飯沼 松島 木下 高遠 中条迄御廻り御逗留中も
諸親類入替り見廻を請厚く饗応せられ夫より御夫婦共ニ甲州市川
へ御帰り之処寸善尺魔と御留主中ニ傍輩相役柴田右内相役をかた
らひ元〆江種々讒言(ざんげん:人をおとしいれるためありもしないことを言うこと)し終に無実之罪を以小沢良助御暇出忽浪人之
身と成如何ニも無念難止全無罪旨を願書ニ認柴田右内を相手取御
奉行所へ願出候処上ニも不便ニ被思召野田様[御代官野田松三郎様]ニ而ハ一旦
御暇出候事故御内意ニ而も御座候哉 榊原小平太様へ新抱ニ被仰
付只今迄よりハ扶持方も余分ニ御抱江可被下段ニ被仰下候へ共讒
者之為ニ最早先主ニ而元〆脇ニも被仰付べき小口ニ成候処を留主
中讒口ニ落入無実之罪ニ而浪人と成候を残念ニ思ひ込一図ニ取登
せ右之義ニ而親人も早速甲州へ参り種々異見致シ先々落付心を鎮
め榊原様へ御奉公可仕と精々異見致せ共更ニ不聞入榊原様ヲば御
暇を取親人帰国之跡直ニ江戸御奉行所へ欠込訴出候ニ付御支配飯
田御役所江申来り御差紙ニ付良助引取ニ付出府可仕と被仰附差添
人相頼親人江戸表御奉行所江罷出候処良助取登せ候と相見江理害
ヲも一向不聞入一概ニ願而已申張疳積(かんしゃく)病気同様ニ相見不便之事ニ
候 其方兄之役ニ引取申付候間国元へ連戻り篤与異見差加候様被
仰付請取旅宿道中雑用多分之費ニ而連帰り右之段荒町御役所江
帰村届申上候 帰国之上精々異見致候へ共一心ニ凝かたまり更ニ
不聞入一間ニ閉籠り長々敷ニ尋も有之候長願書ニ而又々御奉行所
江欠込願出ル事都合四度其度毎江戸表へ御差紙ニ而被召出引取被
仰付候 且飯田御役所江も出府被仰付ニ被召出又帰村届ニ罷出江
戸表江四度飯田江八度其度々差添人雑用共ニ入用多伯父夫婦ヲ引
取旅宿払伯父乱心同様ニ而異見も不聞入女房も捨置欠込致候ニ付
親父之計ひニ而伝(ツテ)を求め叔母おりよさまをは暫之内上野東叡山御
坊官岸本按察知様江御奉公ニ入候処生質柔和実貞ニ御座候故御気
ニ叶ひ首尾能御奉公相勤居申候 或時親義岸本様江上り御目見御
礼申上りよ義不仕合者ニ而此度ハ御奉公ニ上り何角御恩ニ預り難
有旨申上候へ者仰ニ者只今之不仕合ハよき事ニ候 前世之業を今
果すニ而後々ハ必幸を得るもの也と被仰ける 万事宜奉願と御暇
乞申上旅宿江引取伯父計引取り帰国いたせしが其後江戸ニ而伯父
様大病ニ相煩親人御出府之上おばさまと看病被成道中通し駕籠ニ
而御夫婦共ニ松島へ引取其節も大物入ニ而引取御世話被成候 依
之寛政十一春松島にて類焼之節ハおばさまも御同居故其夜忠吉ヲ
脊負ひ御働被成候 其後木下へ暫く御預ケ申置本山宿本陣小林氏
江再嫁也 右之一件ニ而親人大借ニ相成無拠(よんどころなく)所持之田地も売減し
候処芝産様御不幸諸払入用追々不如意之処江戸歩行ニ而折々留主
商売ハ休み不都合相成候処寛政十一年の春火災ニ而家財焼失 其
五月続而祖母様[同五月十九日]御不幸大ニ拍子を失ひ両親共ニ力を落し候
処思ひ直し故郷江帰り同性と一所ニ住居之積りに心を定め種々ニ
被留候へ共決心之上ハ品能断り其十月故郷小野村江三拾三年目ニ
帰郷いたしける 此時匡保様三十八才 祖父ハ明和二年の冬より
参り候故三捨五年目也
一寛政三惣領出生之処小児ハ産家之内ニ而死去母上ニハ産後大煩之
処医療ニ而追々全快ニ相成候へ共両親共痔之病ニ而父上ニ者常ニ
御顔之色も青く兎角御弱ク被成御座候故毎年下諏訪或ハ山辺浅間
へ御入湯母上ニも年毎御入湯渋山江も度々入湯ニ御出被成候 後
々者還而御若キ時より者両親共ニ御達者ニ被為成候 諏訪江入湯
之節御立願ニ而間も無ク妊娠臨月ニ成寛成五癸丑正月十四日平産
女子出生健かに育申候 諏訪明神へ立願之子なれバとて則お梶と
名付申候而ばゝさま殊ニ御籠愛也 其のち寛政八丙辰十二月十日
鶴鳴ニ男子出生幼名忠吉と江戸伯父様名を御付被下候 則拙が事
也 忠吉出生之節ハ至而難産ニて生れ兼御祖母様始両親共ニ御心
をいため平生心易衆中日野屋ハ勿論被詰居誠手ニ汗を握り産神諸
神へ母子安全ニ生ましめ給へと立願して祈りけれバよう/\生れ
けり 須藤玄眠老といふ古法家の医者生レかゝりし頭へ手をかけ
引出し候由 諸神の御蔭にて母子共に命を助り候へ共むりに引出
し候により跡ニ而常々頭をもみ円め候へ共少シ顔も曲り追々直り
候へ共成人之後もやはり少ハ曲り見へ候 併其時産死いたさず母
も助り育て被下し両親之大恩須弥蒼海ニも譬へかたく其時母の御
難儀跡々も暫く御脳(悩)み御煩ひ被遊やう/\御肥立幾許(いくばく)の御苦労御
慈みを蒙りて成長し難有事ニ候 只々父母御在世ニ御心に叶ふ様
に孝行届かざる事老て今更後悔すれども甲斐なく只今ニてハ霊前
へ念仏申より致し方是なく恐入候
一光陰程なく寛政十一已未冬十月父上三十八才母三拾才姉七才拙忠
吉四才にて目出度帰郷 我等二人ハ乗物ニて父上ハ歩行母ハ馬に
て其外雑物 簟笥 長持 人足共ニ松島ニ而送り呉られ日野屋[金次郎殿]
大東[喜惣二殿 息安太郎殿]樋口[平右衛門殿息]北村梅五郎[後ニ中坪宇八]殿右惣代ニ
而送り呉られ馬人足共ニ松島弟子達近所其外大勢大出羽場入口迄も送り呉ら
れ別れを惜み帰られ此時本家寿徳様御夫婦共ニ御在世本家之厄介
不大形松島送り衆中を同姓近所打寄饗応呉々礼を述て帰しける
夫より暫く本家ニ居御世話を請候内筋違向布屋兵次郎殿家を借宅
いたし所々繕ひ引移り申候所寿徳様両小野雨沢飯沼之子供江久敷
手習御教被遊候処御老衰故御勤りかたく幸松島より団治帰郷居所
も定り候故右手習子供指南譲り度旨子供之親御達御寄せ被成一同
江御談シ御掛被成候処親々達も先年手習師範被成松島ニ而も是迄
長々被成候事故みどりやへ御無心可申と一同御得心之趣ニ付吉日
を撰ひ寿徳様子供を御引連御出有之親御達も銘々御出盃致シ御譲
を受目出度祝相始申候
一同年夏五月十八日蚕養之桑を祖母さま昼迄きげんよくもぎ御働被
成候処昼飯始メ候へ共更ニ御見へ不被成両親も何方へ御出被成候
哉と近所を相尋候所部屋の奥ニ御臥り被遊先程より俄ニ腹痛頻ニ
いたみ候故堪かね爰に臥り居候 昼飯も不進いやに候 只々胸元
江突詰苦しくと被仰大病之御様子故夫より両親もあきれ介抱し薬
を上ケ人を頼みて医者衆を頼みに遣し候処須藤元眠老長岡養雪老
木下中川氏皆々御出診察いたし直ニ調合薬を急キ煎し次第に上ケ
候へ共如何之訳哉吐瀉もなく更ニ痛み止ず 親父も医者衆ニ向ひ
一通り之御薬ニ而ハ早速吐瀉も無之病人至而苦敷相見へ候間何と
そ紫苑剤を御用ひ可被下候 御医者方へ対し失礼申上候も余り母
の苦みを見兼候間何分ニも紫苑御用ひ被下吐瀉有之候ハヽ少シは
苦痛も薄く可相成と存候と申候へ共其頃ハ本道家之医者方計ニ而
承知不致大事を踏み仰尤ニ候へ共御老体と申荒き療治ハ自然夫ニ
て若哉之義有之バ還而御為ニ不宜と三人相談計して何分紫苑ハも
り不申候 次第ニ痛み重り其夕暮迄も段々と苦痛不止祖母さま早
御覚悟を御極め被成枕元江茂吉々々と御呼被成此度之病気ハ定業
也 色々と心を尽し呉候得共薬効少シも験なく所詮存命叶ひ難し
必狼狽(うろたえ)る事勿れ 是迄段々孝行忝し あの良助の不埒者度々御奉
行所へ欠込そなたニ幾許の難義をかけ此後どのよふな後難も計り
難し 是迄此母へ義理を立勘当も致さぬハ志嬉しけれども所詮良
助を其儘ニ置ハ此家立がたし 今度ハ予も此世の暇乞也 忌中払
済候ハヽ早速願出良助を久離勘当すべし 是吾が遺言にして此家
の為也 必々久離すへしと被申付 扠早くより生死之落着ハ今井
先生様より女ながらも承り置たり たとへ落命するとも迷はず上
天高間原(天)江帰る也 仍而只今中臣祓一巻早速写べし 吾是ニて受
用する間読上べし 其上ハ柩の中へ納べしと泪一滴出さす早とく
写せとの玉へバ親人ハ夢現共分ず只涙にむせべともいつかな変せ
ぬ御気質故泣々中臣祓を写す 其内に母人に是迄ハ世話に成申た
跡中よく暮し細くも先祖の煙を立よふに頼む 姉を呼よせて嘸さ
すり父母のいふ事を必背くなよと仰られ忠吉ハ生れたばかりぐわ
んぜなし すなをニ能育よと仰られ夫より形見訳(分)をなされて父上
ニ札を付させする内医者衆ハいつか〓れて帰り近所の常心安きば
アさま来り泣ながらおかみさまマア何たることといふを聞ヱヽ
この人は人の大切な臨終に涙を流し穢らはしい勝手へ行しやれと
平日に替りしかり付られ傍の人達もあきれる計りの覚悟也 夫よ
り衣服を着かへ合掌し親人に中臣祓をよませ一心に受用し是にて
心懸りなしと終に明る十九日五十七才ニ而暁の露と消給ふ[当春火災後山道庄
左衛門殿家ニ借宅にての事也]父母を始め有合ふ人々嘆き悲しみ縦(たとえ)るに物なし 従
夫小野 飯沼 高遠 中条へ人を走らせ告しらせ神光寺よりも法印
様本格ニ而祖父様葬式之通御出張明音寺様も先の通り御出張諸方
親類縁者相集り翌五月廿日葬礼野送り忌中払迄心を尽し相勤めけ
る 此時寛政十一己未年五月廿日也 御戒名智廓敬信大姉明音寺
後山ニ葬ル 此御祖母様ハ御気性も正敷生涯貞操潔白男子も不及
程之方にて家事ニも御苦労遊ばされ松島へ御引越御取付之砌ハ御
倹約を能御守り木綿島ヲ御織被成候ニも割糸を木ノ皮ニ而御染御
織其外之事共も何角ニ御心を用ひ家ノ為を思召祖父様御没後ニハ
父上ニも何角ばゞさまニ御尋御聞被成一入御力ニ思召候処俄ニ御
不幸誠闇夜ニ燈火を失ふ如く十(途)方ニ暮此レよりハ如何せんと誠ニ
力落悲しかりしと常々被仰キ
一小野へ御帰り布屋ニ而手習師匠始候冬又々江戸表より御差紙到来
跡手習子供加茂川先ノ次郎左衛門[英慶トテ歌人能書也]ニ預ケ頼み置駒沢喜
清次殿差添ニ相頼江戸表へ出府仕御奉行所ニ而引取被仰付候所祖
母之遣言卜云且度々之事故勘当願仕候処御奉行根岸肥前守様被仰
聞候ハ其方多クもなき弟之義先々連返り異見可致と之御意ニ付無
拠又々引取帰国又々飯田御役所へ御届申上置伯父様ハ暫之内扇
屋茂左衛門殿店を借住居被成候 無商売故御連合おばさまハ暫木
下町玉やへ預ケ申候 兎角伯父様何分御心不解只甲州ニ而之一件
を一図ニ凝かたまり乱心之気味ニ而此上も不案心故飯田御役所江
御願申上久離(くり:親族関係を絶縁する方法)御聞届ニ相成勘当いたし候 従夫思ひ切金之路用金
を母より相渡し又々江戸江被参申候 是寛政十二年之三四月の頃
也 漸親人ニも江戸表より之後難御遁れ被遊候 おりよおばさま
ニも女の道を守り是迄実貞ニ御暮し被成候へ共今迄も度々置去り
ニ逢ひ様々御艱難(かんなん)成れ此度迚も伯父様久離ニ而雲を霞と当テなし
の御浪人故最早手切と相成木下町ニ御座候を雨沢直治正盛隠居の
御世話ニて本山宿本陣小林氏江後妻ニ縁談親人も共々世話致し相
整参り納りける 只今迄ハ御苦労被成候処貞節を御守被成候故俄
ニ御運開き御仕合直り申候 松島ニ而火事之節ハ私宅ニ而拙を負
ひ御働被成候よし 本山へ御出之後も倉沢へ御出之度毎叔母様ニ
ハ御出被下候 御本陣も心易く御出被成候 人間一代の浮沈ハ誠
ニ春夏秋冬の押移るに異ならす 只々道を守るにあり
一寛政八九年之頃松島酒造之仁都合ニ寄酒屋商売相譲度旨ニ而被進
メ家公跡ヲ引受酒造御始被成候思召ニ相成明音寺和尚寛積様江茂
其段御咄申上候処夫ハ結構成事也 金子ニ而茂米ニ而も元〆致し
可遣と 又外々ニ而も取持呉候仁有之ニ付弥相談整跡引受米穀仕
入込働之者抔頼少始掛候処江伯父之一条起り出府抔致大ニ不拍子
ニ成且先酒屋造り候酒大桶弐本計違ひ候酒共ニ譲らんと申事より
相談亦々もつれ彼是行違ニ而破談ニ成相止メ申候 右ニ付此度余
程之失墜ニ而倒レニ相成申候 其跡松島之人如何之引合ニ而引受
候哉酒造被致候 然処雨沢直治殿者株持之酒屋故右株酒蔵一式同
性直八殿江貸為造申候所松島此度始メ候人無株之義ニ付直治殿江
戸表江訴へ出依之松島酒造仁江江戸御奉行所より御尊判到来名主
組合親類差添可罷出旨被仰付御差日通皆々出府いたし候 其砌者
当時と違ひ田舎ニ而分ケ株抔と申事無之酒造之義甚六ケ敷無株ニ
而造り露顕ニ及候ハヽ首道具抔と申而此度松島当人者勿論組合役
人諸親類まて如何ニ成事と大ニふるへ込日々其事ヲ案事大騷キニ
相成申候 父上ニも跡より引合ニ付甲府迄御出掛之処双方之難義
を御奉行所之御憐愍(れんびん)ニ而松島之申訳相立早速相済帰村被仰付父上
ニ者甲府より引返しニ相成申候 元来今度之一件父上酒造ニ掛り
候節者直治殿不願出松島人酒造相始候と直治殿願出候故同姓之事
故全ク直治殿と同腹ニ而松島へ難義ヲ懸候与疑惑を請江戸より帰
村前留主中者親人大ニ松島衆ニ被恨既ニ喜惣次殿ハ日比無二之熟
懇ニ候得者留主中ニも被参候而祖母さま母江も被申候者御親父様
より二代長々御別懇ニ是迄御咄合御付合申候ニ此度之義ハ誠ニ松
島役場迄難儀掛り如何ニ而も不実至極之御取計抔と種々恨不足数
々被申祖母さま母人も委細ハ不知唯々大ニ心配ニ日を暮シ居候処
早速事済帰村ニ相成漸安心ニ成申候 此度之一義親人ニ者直治殿
出府願出之義夢ニも御存無之決而同腹抔と申義毛頭無之疑惑ヲ請
其上共々御難義被成永々住居之松島衆ニ被恨大ニ立腹夫より直治
殿卜義絶ニ相成互ニ三四ケ年之間不和ニ打過寿徳様御不幸之砌本
家江互ニ詰居候而も牛ノ角付合ニ而双方共ニ一言も不申罷在候
如斯元より無実之義ニ松島衆之疑故いつとなく晴候而又々松島衆
も已前之通心易ク相成申候 直治殿とハ桃沢宗匠之御仲釈ニ而双
方和睦ニ相成互ニ歌道を学ひ睦敷(むつまじく)相成候[享和二年ノ夏の頃和睦]
一寛政十一の冬松島より帰村布屋ニ居候節荷継問屋相始暫継候所伯
父之義ニ而御差紙到来出府いたし候ニ付相止メ僅之内ニ敷金貸倒
レ等出来損亡被成候 祖父様寛政三年御不幸後ハ兎角御不仕合ニ
成江戸伯父様甲州市川御浪人度々御差紙ニ而出府度々之御物入続
而新町ニ而類焼其間右酒造之御損祖母様御不幸帰郷之物入借宅引
移り荷問屋始メ僅之間ニ余程之損亡抔ニ而万事拍子を失ひ御苦労
而已被成而御勝手不如意ニ成祖父様御代ニ質地ニ相成候田畑を若
年より御苦労被成御勝手追々直り御請戻シ其外御買足シ被成候田
地家財衣服等も無拠御売払享和三より文化元迄ニ今之屋敷ニ御家
作被成候家屋敷ニ町張廿四俵取田地ヲ残シ余之田地[町裏八俵取 高橋八俵取 下町裏
五 俵取 畑弐ケ所等也]売せり物等被成漸借金御払被成 新宅御造作取急キ膳
豌 皿 鉢 夜着 蒲団等新タに御調旅籠屋商売相始メ候処大ニ繁昌
手習指南ニ蚕毎年御養被成是も御蔭ニ毎年御当り漸御暮シ方拍子
取よく耕作ハ元来不被成故一粒も不作候得共下女壱人ツヽハ毎年
召遣ひ手間日雇月ニ五日ツヽも置賑かに御暮シ我等と姉二人之子
供ヲも何不自由なく御養育被下誠ニ父母之大恩難有事ニ候 兎角
世ノ中人之盛衰ハ只あざなへる縄の如しと実成かな 少宜しきか
と思へは物入出来て不都合と成又慎て倹約して稼ク内ニ者又仕合
直る 按(かんがえ)るに月満てハかけかけてハ又満る 万事かくのことし
一享和二年之頃迄ハ忠吉セン気ニ而腹痛ニ而弱ク候処中町治太夫氏副
様万事御運強男女拾人之御子方達者ニ御育故親父より御頼み申忠
吉ヲ名付子ニ被成喜治郎と御改被下序ニ手習始祝申候 同年宗匠
夢宅様松本より御帰りニ御泊折節五月雨ニ而御逗留被成和歌社中
衆御寄合歌合御講釈等有之候 実相庵住山様 氏副様 英慶様 昌
暙様方御門人ニ成毎日御出被成候[此節追々小野ニ歌道開け正盛 光寧氏 義光 好甫
氏 政典 光亨右ノ衆中御励被成難陳歌合月次歌合等有之社中ノ出精宗匠ニモ深ク御褒詞有之候ヨシ]五月雨も止み御出立被成候由を御とゝ
め申さんとて家公匡保歌はし書アリ
五月雨の晴ぬるなへに君ゆけは雲となりたき心地こそすれ
と申せしかは宗匠御返しあり
君さらに雲とおほはゝ我も又はれぬなかめと日をふりぬべし
夢宅
右懐紙内曇りへ御認被下表装所持いたし有之候所惜哉焼失
一享和元年春上町布屋兵次郎殿より催促ニ付家を明ケ渡シ下町伊勢
屋権右衛門殿ヲ借宅シテ引移り申候 其度毎繕所等有之候 二階
狭く候ニ付下ノ小座敷ながし元迄板敷ヲ新タに張り手習子供ヲ置
教訓被成候 然る所同三癸亥年坂下要左衛門新規ニ家作いたし素
建ニ而持こたへ兼売ニ出シ候所休戸勘左衛門殿世話ニ而金九両弐
分ニ而買請表弐間通続たし表間口六間ニ北江弐尺押入ヲ出し裏行
六間半ニ二階ニ而子供を教候故二階四拾畳敷計ニ致シ大工棟梁横
町善五郎殿木挽ハ木曽久米右衛門殿下タ大工ハ上ノ原与三郎どの
休戸三かど利右衛門市太郎殿[只今惣左衛門殿也]左官ハ休戸善七殿[渡戸左官ト二人ニ而ぬり]参り申候 翌文化元三月下旬迄ニハ外囲ひハ勿論坪庭之塀上下雪
隠等迄有増建揃造作も荒々出来壁之分ハ前年冬十月迄ニぬり申候
棟上致素建之所ニ而家代金(ママ)こはし運ひ地形礎居木も所々より貰又
ハ買ひ候へ共継足シ旁勘定致シ候ヘハ金三拾八両余かゝり候由
[新宅江移従後手習子供之外旅人宿相始メ泊りも追々繁昌いたし候]来年造作張付等迄済し畳買足シ壁之上
塗迄之雑費積大凡七拾八九両もかゝり候と家公被仰候 此節[米値段金
拾両ニ四斗入四拾俵或ハ三拾八九俵也]穀も下値職人も拾日作料位ニ候処普請ハ思之外掛り申物也 喜次郎十四才之春父上之仰ニ付高遠中町紀伊国屋藤左
衛門と申叔母聟之商家へ被預店奉公ニ参申候 併縁家之事故善光
寺開帳ニ而旅人泊閙敷歟又ハ養蚕ニ而閙敷節ハ毎度内江手伝ニ被
遣参り働申候 且文化四卯年御遷宮前より差縺燈籠出入差起り御
遷宮ニ者争ひニ而別当神光寺より蝋燭不渡火も不燈飯田御役所へ
願出訴答共ニ被召出双方共御吟味御利害等有之候へ共更ニ不相済
久々利御役所ニ而も不相済文化四五六之春迄指縺終ニ江戸表御奉
行所へ欠込御訴訟申上双方御尊判ニ而御召出ニ相成文化六己巳年
御遷宮献燈ハ三ケ所ニ而三燈鬮(くじ)引ニ而相済七月帰村ニ相成申候
小野村訴方惣代兵右衛門雨沢直八飯沼七左衛門ニ而相済帰村後又
々盆後より差縺相手方より江戸表江願出再出入ニ相成御召出ニ付
此度ハ父上訴方三ケ所惣代ニ被頼無拠俄ニ文化六冬十月上旬御出
府有之候ニ付預り候手習子供両小野より六拾八人来り習居候 右
之子供に逼(せま)り親類其外訴方衆之相談之上休戸勘左衛門殿高遠中町
〓江参り喜次郎殿御借り申江戸留主中手習子供世話致貰申度一同
相談之上御無心ニ参候と被申 紀伊国や叔父藤左衛門ニも承知被
致乍留主居参可申段被申付候故直ニ翌日原勘卜同道ニ而帰宅従夫
極月迄三ケ月手習子供江素読ヲ教手本ヲ認清書ヲ直し跡書迄首尾
能為書無事ニ留主居仕候 此時喜治郎十四才也 然る所父上ニ者
御奉行所向宜敷申分得勝利弥三燈鬮引先証文議定之趣ニ相済訴答
為取賛証文ニ而御奉行所江も書上いたし首尾克三ケ月かゝりにて
其極月中旬過目出度帰村飯田御役所江も右之済口書上御届仕り燈
籠一件双方無異論永ク三ケ所之規模と相成治り申候 此以後夫銭
出入差起り是も長々飯田久々利ニ而御吟味其上江戸御奉行所江罷
出御調之上訴方勝利ニ成続而役出入と成文化七八九と出入続三ケ
所共ニ訴答頭分替る/\飯田并久々利江罷出江戸御勘定御奉行所
へ欠込訴等いたし三ケ所二ツに割レ後々ハ婦人迄も気立申争等有
之武家なれバ元亀天正之戦国ニ不突(劣)いと騒がしき時節也
(○中略・遷宮献燈出入、助郷夫銭出入ノ記事アリ)
一文化十二年二月八日ニ者役交代ニ而後役江引譲り可致筈之所出入
跡故種々入組多く五人組組合之一条或ハ貯米之調へ中馬一件之相
談等彼是ニ而無拠父上御勤被成候内日光御法会ニ付御通行日々人
馬触来り寸暇無之外ニも差入組之訳出来追々延候処漸引渡之時節
到来四月下旬後名主落札市郎左衛門殿江首尾克諸帳面諸書付役人
年寄立合之上相調へ目録帳之通無相違相渡シ同人より受取書取置
申候 先々目出度夫より父上ニ者直に表向御断り御引被成我等江
身上向迄も御譲り被成御気楽ニ相成 又已前御嗜(たしなみ)被遊候和歌抔御
詠被成 又ハ御酒之御仲間意両寺訳而梅年様[祭林寺和尚御能書也]とハ断金之御
友方壷先生[儒者渡辺姓]も祭林寺ニ寓居詩作名人ニ而尾館又ハ拙宅江も梅
年様と御同伴ニ而御出御酒宴詩歌俳諧等ニ而風雅之御楽みも有之
其外同姓中又ハ知己之方々と折々ハ御酒ニ而御遊言も有之 時節
ハ文化文政之頃ハ大御所様[大政大臣家斉公様] 御治世泰平之御代米穀等ハ誠
ニ下直にて上下鞁腹(ひふく:はらおびのこと)之最中ニ而楽多ク街道ハ賑かに旅宿之客人ニ
而毎夜泊りも有之親人ニも此節暫ク御安心ニ相成申候 コノ頃ハ
毎春二三四月ハ善光寺参詣人諸国より老若男女夥(おびただ)シク且京 大坂
尾州 名古屋 美濃 岐阜二千人講出来右ノ講宿頼マレ私宅ハ毎晩
泊リ客有之大ニ繁昌イタシ候
一此已前文化十年冬十月喜次郎拾八才ニ而伊勢江参宮疱瘡之節[九死一生ニ而
大病ニ付奉立願全快]煩候立願果シニ讃州金毘羅山迄参詣京大坂大和廻り鳳来
寺秋葉山其外参詣五十四日之往反ニ而目出度下向 同行ハ休戸三
郎兵衛殿木曽久米右衛門殿扇や留蔵殿拙共ニ四人
一此参詣留主ニ姉おかね[おかぢ改名]伊奈部屋(ママ)升や中村由介殿娵ニ北殿村
問や三郎兵衛殿中媒ニ而縁談定り婚礼首尾克相済申候所姉義兎角
痞(やまい)ニ而病身ニ成翌四月不縁ニ相成引取申候 高遠近江屋も女子計
ニ而相続人無之江戸表ニ而仕立物商売覚来候弥五右衛門殿弟鉄三
郎殿至極柔和人物宜候間のぐちや伴蔵殿世話ニ而当家江貰請団治
倅といたし高遠舅近江屋四郎五郎名跡養子ニ遣し末ノ叔母おしう
江妻合申候 是も喜次郎参詣留主之事也 如斯近年引続物入多ク
其上姉義病気ニ而薬礼所々之医者ニかゝり抔ニ而無拠入用嵩み借
財出来ニ付無拠文化年中町張田弐拾四俵どり正金三拾八両ニ佐五
左衛門殿江売払借用等御払被成候
(○中略・鉄三郎ノ記事、文化十三年西国寺社参詣ノ記事アリ)
(以上画像なし)
(改頁) 18
(中略)
一其後文化十四丁丑十月大出村井沢岡右衛門殿被参被申候者
南殿村ニ師匠無之候ニ付御無心申南殿江御親公様御隠
居仕事ニ御越御指南願度候右内聞被頼参上致候と申
尤御出被下候ハヽ村ニ不限隣村之子供も集り可申と存候間何分
御談示可被下と被申候故何レニも親類共へも咄其上御挨拶
可仕と申而岡右衛門殿ハ御返し申候又一両日過て南殿金左衛門殿
重左衛門殿改而招待ニ被参是非御頼申度両人惣代ニ而参り申候
最初子供少ク御執付之内ハ私共四五軒ニ而何角賄決而御不
(改頁)
自由無之様ニ致シ只子供さへ御教へ被下候ハゝ私共寄合候而
御世話之処ハ引受候間無御案事御越可被下と申被頼候
ニ付近親ニも相談懸候処跡手習子供ハ喜次郎殿江
譲り置而左様が宜候半与一決致南殿御両所へ約諾
整ひ吉日を定メ可参と挨拶之上御両所ヲ御饗応申
御帰し申候 引越之日ハ為迎宮木宿升屋次郎右衛門茶屋
迄南殿より善八殿紋三郎殿才料小文治殿弁当にしめ
酒肴持参待被居小野よりハ家公之郎党ニ本家主人
喜藤治殿治郎左衛門殿拙と四人附添同姓之内より馬人足
かり態与南殿江之宮笥酒ヲ馬ニ付雑物等も附候而
(改頁) 19
外ニ箪笥壱ツ長持壱掉本箱机夜着ふとん之類
馬ニ付人足ニ而宮木迄持出し茶屋ニ而殿村衆ニ対面
挨拶之上暫休み酒弁当之御馳走此方之人足江振廻
爰より小野江馬人返し是より南殿人足ニ而継参り申候
尤親人江ハ乗鞍馬仕立参り是より馬上ニ而参り申候
夕方南殿村江着之処平右衛門殿宅ニ待請草鞋脱座敷江
通り候処清水金左衛門殿同重左衛門殿有賀紋三郎殿同善八
殿清水孫右衛門殿後室同彦兵衛殿御袋有賀庄蔵殿抔各
詰居替る/\出及挨拶此度子供之指南御無心申上候処
御承知被下今日者当処江御出被下忝何分銘々子供之義
(改頁)
御教訓頼上候と被申此方より附参り候我々江も夫々互ニ挨拶
相済風呂ニ入菓子茶抔出吸物酒肴ニ而饗応右詰被居候
衆中内室達ニも銘々被出挨拶種々肴等出大酒宴ニ成
本膳出誠ニ婚礼同様之御馳走ニ而目出度相納各も退出被
致夜も更臥り申候 翌朝も御馳走ニ成本家始四人二而昨夜
相詰饗応被下候家々江草鞋がけニて七八軒此度亀春義
御村方へ参り此上万事御厄介ニ預り候間宜頼上候と申且昨
夜御馳走ニ成候礼を述平右衛門殿ニハ別而礼を申何事も相
頼置其日之夕方四人連ニ而小野江引取帰り申候亀春様ニハ
追々子供も相増御教方一段ニ而評判宜相成隣村より
(改頁) 20
段々門人繁昌し北殿南殿塩ノ井田畑神子柴[天竜川向]牧村より者
大野田兵馬左衛門の子息抔参り右村々之子供ニ而四拾人余ニ成
取持能御安心ニ御暮被成候此時南殿村江ハ親人御老年ゆへ
飯焚ニ姉おかね参り居申候尤此已前姉ハ高遠中町〓
紀伊国屋治兵衛江嫁し参り候へ共兎角病身ニ付不縁シ帰り居
候ニ付南殿村江遣し申候然ル所姉義度々煩ひ還而親人より
看病を請飯拵も不出来御傍ニ而御心配御苦労ヲ掛候間
母人替り参り抔致シ申候翌年ハ文政と改元同二三四五
六年と七ケ年南殿ニ而御教同七年春ハ兎角御弱ク
御成被遊候故達而被留候へ共拙も参り漸断り申同二月暇乞致シ引取申候
(改頁)
一亀春様文政五年八月上旬南殿村住宅之表ニ瓜畑有之取ニ
畑江御入御転び被成候所一向ニ御足立不申近所之衆駈付内へ抱
込介抱致シ被下候所御怪我之様子故驚候而拙者其朝南殿ヲ
立村はづれ迄帰り掛候所重左衛門殿子息富太郎殿息ヲ切て
追掛呼候ニ付一所ニ立帰り見候処気分ハ大丈夫ニ候へ共足の
膝骨痛候様子故早速池上桃啓老参り御覧被下候へ共怪我
之事故諏訪立木様江参り御療治受候方宜候半と御医者
始近所之衆中も共々進メ被下候故其義ニ決シ直ニ取急ぎ
支度いたし金左衛門殿重左衛門殿善八殿紋三郎殿之下男ヲ
壱人ツヽ御無心申本乗物ニ而拙相添金子并むすび沢山に
(改頁) 21
用意いたし乗せ出し候而松島日野屋ニ而一休致シ又々急キ候
へ共上平出村辺より日も暮夜中参り下諏訪湯の町扇屋へ
夜ノ五ツ時過ニ漸着泊り候而明朝夜明未明ニ乗出シ立木様
御屋舗へ日当り前ニ着御療治相願候処早速御覧被下候而
是ハ膝の添骨折たり併直ニ参候故療治致し可遣ス老
人故一両日も過遅く参候ヘハ療治不叶取急キ参り仕合と被仰候
町之店へ参り哂四五尺麻苧買調参り可申と御差図ニ付
早速買参り候所御療治被下添木右哂苧縄ニ而能々
御あて御結ひ被下附薬呑薬二品被下大切ニ致し一廻りも過
候ハヽ亦々参り候様ニ被仰下御暇乞仕夫より乗せ出し其夜私宅へ峠ヲ
(改頁)
越遅々帰り候処内ニ而も待居油屋始同姓衆近所之衆中御
見廻被下麺類抔拵南殿男衆達へ御酒抔振廻一礼ヲ申候而
南殿御世話ニ成候処々江宜伝言ニ而御礼相頼下男衆翌朝相返シ申候
其後駕籠ニ而両度参り都合三度立木様へ参り申候其度々
拙附添参り御療治受御薬貰参り申候最初ハ少も不立
候処追々御蔭ニ少々ツヽ宜相成候五廻り程過候而立木様江
伺候処入湯も是からハ宜からんと仰ニ付松本山辺江母と拙
両人附添駕籠相頼み参り四五日附添介抱いたし入湯
夫より母人計附居拙ハ内江帰り子供江手習指南いたし居
間ニ一夜泊りニ様子見ニ参り申候母も四廻り程付居候所
(改頁) 22
追々宜候故五廻り前ニ[宿へ頼み置]母ハ帰り申候宿より杖ニすがり湯迄参り
入湯出来候様ニ相成候ニ付跡二廻りハ父上計ニ而入湯被成都合
七廻り入湯被成御帰り之節ハかうじん馬ニ而拙御迎ニ参り合乗
ニ而首尾克御帰家被成候 最初往掛ケ之節ハ御足曲り不申
駕籠之外江足ヲ出シ帯ニ而足ヲ駕籠之棒江釣り結び大
事ニ山辺へ参り候所七廻り入湯ニ而大ニ相応いたし此度帰り
ニ者幸神馬ニ而御帰り父上ハ勿論一同悦申候 又来年土用
湯ニ三廻り程山辺江御出被成其翌年も八月末より九月迄
三廻り程御入湯被成候 依之御老年之御怪我ながら御
全快ニ相成申候 併御怪我ニ付右之方少御足短ク相成申候
(改頁)
一文政六年之冬[南殿村ニ而]亀春様御足御全快後十一月頃頻りニ
御頭痛御煩御難義被遊候同所海潮庵尼僧のすゝめニ而
[恵妙とて老尼也 此弟子無三と云若尼僧手習ニ参り候ゆへ平日深切に参り申候]
善光寺如来様江立願剃髪被成日課念仏五百遍ツヽ
御勤被成候 且京都三十三間堂棟木の神江立願柳ノ木ヲ少ニ而も
不伐正月柳箸ヲ不用慎候間頭痛平愈之御利益を御かけ
被成候所早速御痛み止御全快ニ相成候 且当夏之末より
右之御手少々筆抔御持被成候而も少御ふるへ被成候ニ付
子供へ手本抔認被遣候ニも御心遣被成候夫故御帰村之思召
ニ相成候 併南殿ニ而ハ跡之師匠早速無之こまり候ニ付
頭立候衆中ハ勿論庄左衛門殿彦八殿抔も小野迄被参
(以下画像なし)
拙江種々被申御親公様少々御手御ふるへ被成候へ共他
年御仕込故随分御手本も御認被成子供へ素読毎日御教へ被下候故
親々悦罷在候 是非今両三年ハ南殿村ニ而御指南願上候 御老体
故御案事ハ御尤ニ候へ共其段ハ私共如何様ニも御大切ニ致シ候間
決而少も御案事無之私共御無心ニ上り候間私共江御任せ被下候様
ニ深切ニ被申下候へ共足の怪我後者兎角色々と御気弱ニも御見へ
被成候ニ付南殿衆江者品能断り申同七年春二月拙南殿村江参り諸
方江廻り漸帰村之積ニ断り申述父上ニ者子供之参り候村々家々へ
断り是迄之礼ヲ申述引取之日限相定拙ハ先江帰宅其後被送首尾克
御引取被成候 南殿村より御引取御帰家之節も惣代ニ而平右衛門
殿庄左衛門殿送りニ被参荷物等も南殿村人足ニ而首尾克届ケ被下
候而七年余ニ而目出度御帰宅ニ成本家始御近所皆々御出被下南殿
衆ヲ(ニ)礼を申酒飯抔進し候 南殿衆機嫌克被帰申候 喜次郎一両年
改名政左衛門長々親父世話ニ相成万事之礼ニ同年三月中南殿北
殿 田畑 御子柴迄世話ニ相成候家々江少々ツヽ宮笥持参ニ而礼ニ
参廻り申候 其節与次右衛門殿ニ泊り二三日遊ひ帰り申候 且親
父南殿在留中委事ハ匡皓一代記ニ出ス 家公南殿村御在留中姉人
ハ度々煩候ニ付南殿ニ而万端世話ニ相成深切之至難尽筆紙長く忘
るべからず
一家公御帰宅後妙法蓮華経弐部御書写被遊候 右一部ハ神光寺江奉
納一部ハ内ニ而惜哉焼失
一文政八乙酉凶年 米直段昨年当春迄も拾両ニ三拾弐三表(俵、以下同じ)いたし候
処八月より上り高直ニ成壱表四斗入ニ而金弐分ニ相成申候 此冬
ハ松本西在山中より騒動発り池田大町辺其外打こはし候 甲州も
騒動起り六川酒屋近所迄騒動諏訪様より防キニ出其内鎮り帰ル
一文政九年正月横川市ノ瀬村ニ而子供江手習師範之義御頼申度と同
村孫左衛門殿を以家公ヲ被頼 此砌ハ又々丈夫ニ被成御座候故相
談極り又々二月より父上横川市ノ瀬村江御移り被成伊左衛門殿宅
明キ居り是ニ而手習御教被成候 同村酒屋金左衛門殿 市左衛門殿
山しろや祖兵衛殿 源十郎殿 三十郎殿 忠七殿始其外[門前入谷迄も村ノ衆迄]別
而深切ニ取持被下子供も弐拾五六人も有之 母姉替り/\参食事
等拵子供教諭一段ニ御教被成南殿同様横川ニ而茂大ニ諸人ニ被倚
頼御安堵ニ御暮被遊候 文政九年より十十一十二天保と改元此
暮迄五ケ年横川ニ御住居同二年春二月御引取 天保二年二月御帰
後手習子供江読物抔御教被成候而万事成合ニ而健かに間ニハ歌な
と御よみ歌書抔にて御慰み被成御座候処同三年同様ニ御暮被成同
四年の春頃より次第ニ御弱ク其冬の十月頃北方両社江参詣の御志
シにて杖にて御出掛大出山幸江御立寄暫く御咄休み御馳走ニ成ら
せらるゝ内ニ向ふの道を案し参詣なしに帰らせ給ひける 其後霜
月頃天気よき時けふハ又御宮江参らんとて出給ひしか町やしき山
屋迄御出店先ニ腰を御かけ被成休みて大ニ草臥しとて夫より帰ら
せられ其後ハ内にのみ但近所本家抔計りニて外ヘハ御出も不被成
候 大ニ御老衰と御成被成候 当冬寒気つよく成候而ハ火燵ニ始
終御臥り昼も多クハ御臥り御食事も細く候 酒も少々ツヽ御上り
被成候 且当癸巳諸国一統殊之外大凶作故俄ニ米穀高直[四斗入壱俵金壱両成
雑穀モ米ニ准シ高し]ニ候故老衰の御心弱キ所なれば傍ニ而如何様ニ申慰ノ候
而も御案事強ク候故分ケ而御弱ク相見心配いたし候 然る処天保
五甲午正月より追々御よはりの処同二月朔日火災ニ而家財不残焼
失裏の物置計り残り此火事ニ而誠ニ御心身共ニ御よはり被成候
早速横町宗四郎殿宅ヲかり引移り手習子供も参り候へ共終ニ同六
月十二日朝正六ツ時御死去ニ相成候 尤前日昼後迄ハ平日之通り
勝手之囲炉裏之傍ニ而子供江素読御教被成候 御食事も朝飯昼飯
共ニ不相替御上り被成候 酒ハ毎日少々ツヽ御上り被成候 町屋敷
奈良やニ而酒小売いたし候間取寄せ置候所今朝[十一日之朝也]迄ニ切レ候而
今日ハ上ケ不申候所十一日夕方頻ニ御好み被成候所少モ無之候故
上町町やしきの小売場江鉄之助ヲ買ニ遣し候所何方ニも売切無之
候ゆへ明朝ハ下モ町酒蔵ラ大国や江買ニ遣し候間今晩ハ御こらへ
被成候様ニ申上て夕飯ニ粥を少々上り麦のたて粉なと御上り候て
直ニ寝所江御休み被遊候 又宵ニ被仰候者一両日ハ腰より足へ掛
頻りニ痛み難儀ニ候間明神様江御立願掛ケ早速相直り候様致し度
と被仰候間私明早朝ニ社参仕立願いたし可申と申候へ者御悦被成
明朝早ク参り呉よと被仰候 勝手より部屋へも母と両人ニ而御介
抱申候而御休ませ申候 又夜四ツ時頃麦ノたて粉ヲ御望み被成母
人早速拵上候ヘハ茶碗ニかるく二かき計り上り大キニ宜敷迚直ニ
御休み被成候 又宵ニ夕飯後亭主ニ被抱度よし被仰候所母人も何
ヲ仰候ぞ小児でハ有まじと被申拙も笑候迚抱キ不申上候 跡ニ而
考候へバ明朝御落命故自然と被仰候に抱上不申事後悔仕候 且今
晩御酒切レ上ケ不申事生涯之後悔ニ候 扠翌十二日朝夜明候故起
出表之駒沢川ニ而手水うがひ致し直ニ北小野両社へ参らんと足を
踏かけしが老人之事故一卜先逢ひ候て其上之事と内江入神棚ヲ拝
礼仕り仏檀ニ向ひ先祖之霊牌ヲ拝み候内部屋ニ而家公アアヽヽツ
と痰ノからまりし御様子故直ニ飛込見候所大ニ替りし御様子ニ驚
き大音ニ而御呼申候へ者目を御開きウヽと一声仰られ候へ共跡ハ
何共仰られず 其内母并家内皆々あはて起出水ヲ上ケ鉄之介ヲ元
郁老へ飛せ御親子共ニ参り気附御薬抔用ひ種々介抱いたし候へ共
水も薬も通らず次第ニ惣身冷へ終ニ七十三歳にてねむるか如く御
往生被成候 少しも御病苦無之故沐浴之砌も只々御ねむりニて今
にも御目覚候ハヽ物も仰られ候様ニ相見へ申候 昨夜迄も食事御
上り被成候ニ今朝俄ニ如斯故只々□入計何共致し方なく落涙仕
母 姉 妻 鉄之介も悲嘆無限 親類御近処江も知らせ追々寄集り遠
方之親類高遠中条并松島明音寺日野屋江も御書面告之飛脚ヲ差出
し申候 里辺江ハ本家より告為知申候 火事後時節柄之事故近親
相談ヲ以寺へも届いたし其日之七ツ時葬礼仕候 尤神光寺清源法
印弟子弘伝法印共ニ江戸御役寺へ被召出御留主中故村相談之上他
宗祭林寺慧年和尚様本格ニ而御出張引導御弔被下候 神光寺より
北小野観音堂庵主代僧ニ而出実相庵御隠居様飯沼坐雲庵大元僧上
下堂主遠方故高遠中条ハ今日之間ニ合ず跡より悔みに参り申候
小野村三ケ所北小野同性親類集り葬礼相勤申候 多年師範致し候
故葬礼ハ賑かに見送りいたし候 戒名ハ先年南殿村へ被頼参候節
清源法印様より戴キ有之血脈御座候故此度ハ世話薄く有之候
緑毛亀春居士 行年七十三歳
辞世 兼てより行へき道と聞しかと別れと思へは悲しかりけり
三日計已前ニ帳のはしに御書被成候
翌日同姓中近親近所詰居候所四ツ時過松島明音寺和尚様御伴僧御
供被召連日野久左衛門殿 千葉原七郎右衛門殿 千葉原半四郎殿 樋
口平右衛門殿 市川利右衛門殿 中坪宇八殿 市川忠兵衛殿 小出嘉
十殿抔定而今日之御葬式と存参り候迚皆々上下持参ニ而御出被下
音信も過分被下候 昨日之葬礼故松島衆無本意被思候様子也 近
所之衆寄合松島和尚様始外衆中饗応之上厚礼申述御帰し申候 松
島殿村横川衆追々悔ニ御出被下高遠中条里辺よりも悔ニ諸方より
御出被下候 猶委(くわし)くハ音信帳ニ記シ置申候
一亀春様御根気能御壮年之頃より写本あまた被成候 歌書者古今和
歌集 後撰集 拾遺集 新勅撰集 三玉集 堀川次郎百首 源氏物語提
要六巻 土佐日記 一君三臣和歌首 仮名遣小本一 視吾堂霊社御行
状二巻 悋問余答 和歌てふは伝書三巻 西山遺事六巻其外少々宛
之御書留不遑(いとまあらず)枚挙誠ニ当家之宝物也 且諸先生方御筆掛物数幅其
上堂上様ニ者花山院様御染筆之御掛物園大納言様正親町大納言様
鷲尾中納言様御三人様之三夕之御色紙横物一幅其外京都江戸宗匠
方并桃沢夢宅宗匠之懐紙短冊詩歌画師之書類も分限不相応ニ所持
在之候処度々之火災ニ而不残焼失いたし時節とハ乍申残失(念)之至ニ
候 併家公御一代勲功被遊候事故当時雖無之爰ニ書残し置候
一亀春様御若年より御壮年之頃伊奈辺都而(すべて)狂言流行ニ而松島ニも年
々狂言有之其度々狂言ニ御出被成殊ニ女形御得手ニ而且村々上手
之衆計ニ而寄せ狂言有之 夫江も度々仲間ニ成狂言被成候故伊那
ハ宮田上穗辺迄村々歴々衆ニ御近付多ク松島より帰郷後伊那之衆
中松本往返ニも立寄御尋被下候衆数多御座候 全体人和を被得候
御生質故何方之村江御出被成候而も諸人ニハ大切ニ愛敬を御受な
され候事御一徳に候
一文化之頃和歌御出情其頃小野社中者実相庵不住隠居様 正盛[直治]
怡川[清兵衛] 氏副[治太夫] 英慶[次郎左衛門] 光好[兵右衛門] 氏義[元郁] 正暙[直八] 政典[元亮]
光亨[和泉寺了右衛門] 匡保[団治]都而拾弐人何レも御出情ニ而折々歌合等有之
御心友方ニ御座候 上諏訪御社中ハ千野源太様 同おかよさま 加
倉并了僊様 古田与一左衛門様 上田又左衛門様 小平様其外ニも
御座候由 松本御藩中ニハ別而西郷新兵衛様始其外ニも御執心之
御方々在之其頃者松島ニも和歌社中八九人余有之飯島町ニも有之
右五ケ所組合歌合等有之候 右之歌合宗匠添削之判等有之候 写
ハ委敷正盛様御調被記置俵屋ニ所持也 匡保様御詠之歌少々覚江
爰に記ス
諏訪温泉寺内清光院当座
二本の松のちとせにならはなむさくらは散し山吹の庭 貞慎
さくら花残る御法の庭もせにまた珍らしく匂ふ山吹 重興
おのつから色そ妙なる山寺の籬に匂ふ山吹の華 匡保
あか結ふ庭の流れも澄増り八重咲ける山吹の花 夢宅
裏書ニやよひ廿日あまり二日二本松てふ温泉寺にまかりて山
寺の庭に山吹咲ぬといふこゝろをよめるトアリ 宗匠自筆
此外に三人歌有失念故不記
寄煙恋
うき中になかめられけり浅間山たえぬ煙の行末の空 匡保
忘恋
さりともと待しも今は昔にて忘られ果し身をいかにせん
同
駒峰月
入る月をのせては送る山なれはむへこそ駒か嶽といふらん
同
此歌ハ西山中条村小坂団右衛門の家にて酒もりの折からよみ
給ひし也
中いな西山にて
里はみな曇るとのみや思ふらん此山本にふれる白雪 匡保
鳥の跡のなき世なりせはいかはかりよゝの言の葉何とかゝまし
同
中山道美江寺宿の本陣山本宇兵衛俳号雪香園主人を訪ひて短冊三
葉を貰ひ礼に歌よみて送る
咲にほふ梅の木のもと尋ねすは花の匂ひも袖にとめしを
匡保
雪白し夜はほの/\と明の山
明樽のかた荷は□のさくら哉
外ニ一句失念
諏訪御家老千野氏七十の賀を祝し奉りて
千世経へき君か齢ひのしるきかな田鶴そ来馴るゝ衣か崎に
同
木曽の棧にて
世を渡る常の心にくらふれは岐蘇のかけちは踏よかりけり
同
岡崎の乾斎といひし歌よみの僧尋ね来られし時
恥かしな何言のはも中/\に世のちりにのみ埋むやとりは
同
此外御詠出沢山ニ有之候得共焼失ニ而万分が一ヲ記し残す
一家公御壮年之頃より人ニ被頼総而扱事世話事異見事松島御住居以
来小野村内南殿横川御住居中迄も平生被御頼被成御掛り被成候ヘ
ハ御根気能昼夜之わかちなく御世話御仕遂ケ御治メ被成候故其度
々被頼夜ヲ更し異見扱等被成或ハ夫婦喧嘩家内もめ等ニ御かゝり
被成候而も不思議ニ人も承知いたし御治メ被遊候 依之処々御移
住之先々諸人之尊敬取持宜候 唯々考るに中々以我等ニ而者不及
事俟
右之外家公御一代之有増書洩雖有之余者略之 尤此書不許他見
只子孫江祖父并家公二代之間万端御慎諸事御苦労ヲ御勤或者御倹
約等被遊両代共ニ孝行御勤之御行状等為申伝不厭悪文聊書残す也
維時慶応三丁卯載立秋下旬
当家三代目 随喜軒 七十三叟
小沢匡晧字和徳謹書
(注1)1736-1791(56歳)農。明和2年松嶋村へ招かれ当地で寺子屋を開く(『辰野町誌』)
(注2)1762-1834(73歳)農。亀春のこと。芝産の子。寛政11年まで松嶋で師匠をつとめる。文化11年まで小野で師匠をつとめた後、南殿(現南箕輪村)、一ノ瀬村で師匠をつとめた(『辰野町誌』)