九戸一揆の意義

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九戸一揆鎮圧後、しばらく浅野長吉蒲生氏郷らの仕置軍は南部領に駐留し、逃散した百姓の帰村や九戸城普請などの仕置に当たっていた。天正十八年の奥羽仕置では検地等の直接的仕置はなされなかったが、この再仕置によって南部領にも直接的に秀吉の仕置の手が入ることになった。しかし、信直にとっては九戸一揆の鎮圧により、自己の権力に対立する国人衆を掃討し、豊臣政権の直接的仕置と強力な庇護のもとにその権力を以後安定して維持することができたのである。また、この一揆鎮圧のために津軽氏を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに至る仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵のための名護屋(なごや)参陣を奥羽の諸大名に強制していったのである。
 『津軽一統志』によれば、一揆鎮圧直後、為信はいまだ陣所を引き払わずに九に留まっていたとされる(資料近世1No.三七)。その間、南部信直は、領土を割(さ)きとられた私怨を晴らすため、為信襲撃の許可を得ようと浅野長吉陣所を訪れた。それに対し長吉は、すでに惣無事令が出て私戦が禁止されているため襲撃を断念するよう信直に厳命し、やむをえず信直はその指示に従った。そして長吉は、信直が為信を襲撃する恐れありの情報を伝え、早々に陣を引き払い津軽に帰国するよう促した。結局、信直による為信襲撃は未遂に終わり為信は帰国したという。
 また、一揆鎮圧直後の九月十七日、信直は糠部郡代官であった木村秀勝(ひでかつ)に、代官所廻りの町に為信の家臣である「津軽之者」がやって来るであろうから、「さん/\にはき候て押返らせ申候」と徹底して退却させるよう命じている(「木村文書」)。九戸一揆鎮圧後の動揺の中で、為信の家臣南部領へ侵入するという危機感が当時はあったのであるが、この際にも、信直は殺害することは厳禁している。惣無事令の下での信直には、私恨による殺害はできず、津軽氏家臣をせいぜい徹底して追い返すことぐらいしかできなかったのである。
 為信襲撃未遂やこの津軽氏家臣に対する処置からも、戦国末期以来から残っていた信直の為信に対する私恨はこの段階でも消えうせていたわけではなかったのであるが、私戦という行為はすでに豊臣秀吉天下のもとではできようはずもなかったのである。信直は、秀吉が出した惣無事令によってその近世大名としての権力をようやく存続できていたのであり、その惣無事令に自ら背くことはありえなかったのである。