堀越城の縄張りは、本丸を中心として、それを取り囲む形で複数の曲輪が配置され、城の中心部に達するにはいくつもの曲輪や虎口を通過しなければならない構造になっている。また、防御遺構をみると、幅の広い水堀を設け、敵を多方向から攻撃できる「横矢(よこや)がかり」などの工夫がなされ、さらに食い違い虎口や桝形虎口などで曲輪の出入り口を堅固に構築している。しかも、中土塁やそれと曲輪との接点にある防御施設、さらに曲輪の平場のように、戦闘の際の防御も十分留意した構えを設けており、発達した近世城郭の特徴を備えていた。
図25.堀越城縄張り推定復元図
堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその町並が細長く連なる、いわゆる「街村状」の町であった。『天和四年堀越村書上絵図』には、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、「村隠」として高さ七尺(二・一メートルほど)の土塁が記されている。この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸(きど)が置かれていたと推定されている。この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町」という戦国期城下町に特有の構造を持っていた。
図26.堀越城跡の航空写真(平成13年撮影)
なお、堀越城跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器・銅銭等が出土している(『堀越城跡発掘調査報告書I』平成十二年 弘前市教育委員会刊)。舶載磁器について、青磁(せいじ)の皿は十五世紀後期~十六世紀中期の龍泉窯(りゅうせんよう)・龍泉窯系で製作されたものが中心で、白磁(はくじ)の皿は十六世紀代の景徳鎮(けいとくちん)で製作されたものが多く出土している。国産陶磁器については、瀬戸美濃産の緑釉(りょくゆう)または銅緑釉(どうりょくゆう)の小皿が多く出土しており、大窯Ⅱ期(一五二〇~一五五五年)に製作されたものが中心で、次いで大窯Ⅲ期(一五五五~一五九〇年)のものが多い。瀬戸窯産の陶磁器が北日本の城館に多数搬入されていることが知られることから、「津軽一統志」の文禄三年居城移転を裏付けるとともに、大浦氏が北国海運を通じてさまざまな商品を購入していたことを知りえよう。