堀越城の限界性

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慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣謀反を起こし、堀越城がいとも簡単に陥落するという事件が起きた。「津軽一統志」(資料近世1No.八二)は、この時の状況を次のように記している。
 「尾崎ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。城の留守居(るすい)であった田村・土岐(とき)・浪岡は、この時、為信が関ヶ原で使用する武器・矢・弾薬等を検査するため城内の櫓(やぐら)にいたところ、尾崎ら三人が本丸へ押し入り、留守居の田村ら三人を討ち取った」とし、その後「本城に籠城した尾崎ら三人が、金(こん)小三郎がいる西ノ丸の屋敷へ鉄砲をおびただしく打ち掛けたため、金氏の一族縁者のほか、日頃出入りの町人百姓にいたるまで金氏の屋敷へ駈け集まり、尾崎の屋敷との境にある塀際に土俵を積み重ね、鉄砲の玉を防いだ」と記している。
 この記述によれば、堀越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる。堀越城は、土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を通じて、さらにその軍事的強化を図っていたことがわかる。また、町人百姓による城郭の警備も非常事態の時の防御機能として組み入れられていた。しかし、一旦ことが起これば容易に城が陥落し、さらに町人百姓らの城郭立ち入りが行われることからして、その防御機能は低いものであった。
 慶長七年(一六〇二)に家臣天藤(てんどう)氏による天藤騒動が起こった時も、天藤氏らが「堀越城内へ駆けつけ、無二無三に切り入り、立ち会うものを切り捨て、信建(のぶたけ)の御座間・御寝所の近くまで切り入った」とされて、危機に陥っている(資料近世1No.一六一)。
 また慶長十一年正月には、堀越川(平川)が大洪水を起こし、町屋まで浸水するという事件があった(同前No.二一八)。実際、堀越城跡の発掘調査では、平川の氾濫原に位置していたため、たびたび洪水に見舞われたと報告されている。
 堀越城は、岩木川東岸で浅瀬石川平川まれた地帯へ津軽氏が進出する拠点として、政治的・経済的な側面に重点を置いて設置され、近世城郭の特徴が随所にみられる「政庁」型城館であった。しかし、慶長年間の度重なる堀越城での家中騒動水害により、軍事的・地形的欠陥がらかになってきた。
 この城郭の軍事面と家臣団統制の強化のため、為信は早くも慶長八年(一六〇三)、高岡(弘前)の地に町屋の屋敷割を行い(同前No.一七九)、同十一年に住民の移住を促した(同前No.二二二)。慶長十六年の高岡城(弘前城)への居城移転の準備が始まったのである。