弘前藩庁日記の開始

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寛文元年(一六六一)六月三日、津軽信政弘前入部の記事をもって「弘前藩庁日記」の記録が開始された。
 「弘前藩庁日記」には、弘前城中の記録である「国日記」と江戸屋敷の記録である「江戸日記」とがある。「国日記」は寛文元年から幕末の元治元年(一八六四)まで、また「江戸日記」は、寛文八年(一六六八)五月十一日、信政が参勤江戸に到着した日から開始され、慶応四年(一八六八)まで記録がなされた。現在所蔵している弘前市立図書館には、合計四五一五冊(「国日記」三二九七冊、「江戸日記」一二一八冊)の日記が残存している。
 この日記は、延宝三年(一六七五)に定められた「日記役勤方之定」(資料近世1No.七八七)において、記録に当たっては藩政執行上先例を参考にできるように、藩の御日記方がさまざまな帳簿類をまとめて清書したものである。たとえば「国日記」の場合、各役職においてまとめられていた記録と考えられる「御伝帳」・「御家老帳」・「御家老剪紙(きりがみ)控」・「御用人剪紙控」・「御用留書」・「御広敷帳」・「山方帳」・「御勝手方帳」・「寺社帳」・「凶事帳」の記事が集大成されていることが知られる(「国日記」天保三年六月二十八日条)。御日記方は、延宝三年正月二十六日、「御城御日帳役人」に工藤次兵衛が命じられ(同前)、同月晦日に「日記役勤方之定」(資料近世1No.七八七)が定められたことに始まるが、それ以前は、藩庁日記専任の役人が存在しなかったのではないかと考えられている(弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』一九七〇年)。

図88.藩庁日記(国日記)

 「国日記」一日分の記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老用人大目付寺社奉行郡奉行町奉行勘定奉行などの名が記される。それから日々の記事は、まず、月日と天候が記されたあと、その日の家老用人大目付の登城の有無、次に祭祀仏事行事藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替家禄増減家督改名縁組などが記され、また賞罰記事は武士のみならず町人百姓身分にまで及ぶ。各方面の申し出・届け出・願い出と、それに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、もたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記される。「江戸日記」の方は、藩主の公的動静、藩士の人事に関する記事が主である。形式的には、月初めに月番家老用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、それから本文に移っていく。本文の形式は「国日記」同様といってよい。
 「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録していかなければいけないと定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大なものとなり、また御日記方藩庁日記以外の諸種の記録も行う状況になると、日々差し出される膨大な記録をまとめることが困難になり、ついには、その日の内にまとめることが不可能となって、清書が滞ったようである。延享二年(一七四五)や寛政三年(一七九一)には、記事内容の省略が認められた。文政九年(一八二六)には、日記の清書が四〇年ほど滞ったとして、物書を日記清書の加勢に命じている(「国日記」文政九年七月二十四日条)。天保三年(一八三二)には、清書滞りの状況調査と、清書実施のための五ヵ年計画が御日記方より差し出されている(「国日記」天保三年六月二十八日条)。現存の「国日記」が元治元年段階で終わっているのは、廃藩当時にその時点までしか清書が進んでいなかったためではないかという推測もなされている(前掲『弘前図書館蔵郷土史文献解題』)。