十八世紀に入ると、商品経済の展開や度重なる飢饉や災害等によって三都における借財も増大した。宝暦改革に伴って領内外からの借財高の調査をした「宝暦四年甲戌御改革帳之写」という文書がある(弘図岩)。それによると、同年の上方の借財は二四万四一三八両余、江戸での借財は三万三九一六両余に及び、さらに国元の借金六~七万両を加えると、借財の総額は三五、六万両にもなる巨額なものであった。大坂からの借入先としてもっとも大きいのが茨木屋(いばらぎや)で、実に八万八三八九両に及ぶ。それに次ぐのが鴻池(こうのいけ)の二万六二二二両余、佐藤の一万四〇〇〇両余で、この三家だけで上方全体の半数を占める。上方では、ほかに元文四年(一七三九)より借入先を特定しない個別の借金が九万六〇〇〇両余書き上げられている。江戸では全体に小口のものが多く、延享三年(一七四六)からの「新借の分」八七三〇両の借入先は津軽屋三右衛門の一〇〇〇両を筆頭に、一〇〇両から三〇〇両という単位が多いが、計四九口にわたっている。ほかに寺院の貸付金の祠堂金や座頭の貸付金まで借りているのが特徴である。
最大の借入先であった茨木屋は、元禄以来津軽弘前藩の蔵元(くらもと)を務めていた。蔵元とは蔵屋敷の管理に当たり、大名から廻米を中心とする「蔵物」の売却・出納をつかさどった商人のことで、藩財政には不可欠の存在であった。これに対し、藩の公金の出納、江戸や国元などへの送金に当たった商人を掛屋(かけや)というが、両者は兼任していることが多かった。鴻池は代表的な蔵元商人で、金沢・広島・徳島・岡山・柳川など大大名の掛屋を務め、さらに尾張・紀伊両藩の御用達も勤めていた。藩では茨木屋だけでは不足と感じたのか、延享二年(一七四五)から蔵元に追加している。両者とも見返りに藩から扶持を受けており、安永四年の段階では茨木屋万太郎が七〇〇石、鴻池新十郎が五五〇石余など、重臣に匹敵する家禄が与えられていた。鴻池は他の諸大名からも扶持を受けていたので、その総額は一万石にも達したという。
蔵元は大名から手数料である口銭(こうせん)を与えられるなど利益も多く、大商人は競って蔵元・掛屋になりたがり、十八世紀中期の大坂には一〇〇人を越す蔵元が存在したという。諸大名は蔵物の売却で藩財政を運営していたが、やがて売却代金だけでは不十分になり、蔵元からの融資に依存するようになる。大名貸しは将来回送される蔵物を担保に行うものであるが、実際は凶作などにより年貢米の回送はしばしば滞り、さらに米価の低迷などで大名貸しは不利になり、不良債権も増大した。また、大名の中には借金を踏み倒したり、返済できないまま蔵元を罷免して、新規の町人を蔵元に任用する者もあり、リスクの多い商売であった。