乳井貢が主導した宝暦改革では蔵米制が採用され、後年の恒常的な蔵米化の先駆けとなった。宝暦五年(一七五五)、藩は飢饉のため在方の借金・借米を免除、同年九月に知行取から切米取(きりまいとり)に至るまで全藩士の蔵米化を打ち出している。この蔵米化は、「国日記」九月九日条によると(資料近世2No.三六)、知行地から年貢が徴収できず困窮した藩士が多いのを名目に、知行取の年貢もすべて藩庫に納めさせ、藩のほうで給与を再分配するという、藩財政と藩士財政の一括化を目指すものであった。これ以前、寛延二年(一七四九)の飢饉で知行一〇〇石(または俵子一〇〇俵、金給二〇両)以上の藩士からは半知借り上げ、それ以下の者は三分の一借り上げという処置がとられており、宝暦四年になってようやく解除されたばかりであった。そのため藩士層の不満に配慮してか、実施に当たっては、本来凶作に対する扶助米は藩庫から出す性格のものであるが、昨今は出費も増大し武士以外の三民に対する支給だけで手一杯であるとして、藩士相互の扶助としての理解を求めた。なお、この際の年貢率は六ツ物成(ものなり)(収穫高の六割。これを給与分として与える)とされた。
蔵米化に当たっては、宝暦六年十月に発行された一種の現金手形である「標符(ひょうふ)」が活用された。藩士は標符を渡され(ただし十分の一は現金)、各自で商人から現金化した。標符制度は宝暦改革の特徴的政策の一つであったが、経済の混乱を招き、翌宝暦七年(一七五七)七月に廃止された。蔵米制も歩調を合わせるがごとく、同月に凶作後の復興もなったとして、再び地方知行制に戻された(同前No.三七)。「平山日記」の作者は地方知行制の復活を喜ぶ藩士層の様子を紹介している。
ところで興味深いのは、地方知行制復活の布達において知行主の非道を藩が強く戒めていることであって、万一百姓に対し非道の取り立てがあった場合は、知行を永久に取り上げ蔵米渡しにする、と述べている。百姓に対しても、そのような行為があったら大庄屋を通じて代官へ訴えるよう呼びかけており、蔵米化の前に凶作・半知といった状況下で、少しでも収益をあげようとする知行主の収奪があったようである。また、同布達では貸借の儀について不弁明なところがあった時は吟味のうえ裁断することが述べられており、知行地の分散・相給(あいきゅう)化で知行主と知行地百姓との結びつきは薄まっていたといえ、借金などにみられる知行地百姓とのトラブルがしばしばあったことをうかがわせる。