意見書提出の奨励

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飢饉の最中の天四年(一七八四)閏一月、七代藩主信寧(のぶやす)が没し、嫡男信(のぶはる)が八代藩主襲封(しゅうほう)した。四〇年に及ぶ信寧の治世は、洪水地震、さらには飢饉といった天変地異に悩まされ続けた時代であったが、先述した宝暦改革を除けば積極的・効果的な対応がなされず、信襲封時には、藩財政をはじめ、藩政のあらゆる面で危機的状況に陥っていた。とりわけ、農政や廻米策をめぐっての家臣団内部の対立は藩の重臣同士の対立にまで発展し、藩庁内部の動揺は著しかった。森岡主膳元徳(もりおかしゅぜんもとのり)(家老)・山田彦兵衛勝令(やまだひこべえかつはる)(用人)・大谷津七郎茂成(おおやつしちろうもりしげ)(江戸用人)と津軽多膳貞栄(つがるたぜんさだよし)(用人、後に家老)との対立は、多膳が、天三年九月から十月にかけて、当時江戸にいた藩主信寧に領内の状況を訴え出るという、いわゆる「津軽多膳出府」問題を引き起こしている。
 このような中で襲封した信は、そのリーダーシップの確立を図ろうと「自筆書付」を多発した。その内容は、君臣の道の強調であり、武芸と学問の重要性の強調であった。つまり、いかに不作や天災に見舞われようとも、「武士道」を堅固に守っていれば国の恥辱に及ぶことはないというものであり(天五年三月「自筆書付」)、飢饉時の状況に対応しつつ、自らのリーダーシップで階級的威信の保持と階級的結集を図ろうとしたのである。そして、ここに君臣関係を前提として一致団結した政策遂行が図られるべきとする論理が生じ、人材の登用や意見書の奨励が信によって推進されることになった。
 襲封直後の天四年(一七八四)三月の「自筆書付」は、次のようにその趣旨を説し、意見書の提出を奨励している(藤田権三郎「家記」天四年三月十七日条)。
   (前略)
一、壱人之了簡ニては知慧限有、壱人ニ而は手之不及又間違之事も有之ものニ而候間、一統心を合せ、諸役人之意能々不塞様に相用可申事、

   (中略)

一、役人初諸士まても一統心を合せ、為に相成候義一同ニ心懸、出情相勤可申候、右ニ付仮令無益成事有之候而も不苦候間、直に申聞候、役筋之外、家中江戸国元ともに目見已下之者迄も、一統存寄次第言上書差出候様可致候、若心得違之筋有之候而も一向不苦候間、何事ニ不寄心付候義は無遠慮差出可申候、惣て下之情上へ不通候ては、国家之難治ハ古今歴然之処ニ候、

 一人の考えでは及ばないことも多い。たとえ間違ったことがあってもわないから、気の付いたことがあれば何なりと意見書を差し出すようにとの趣旨であり、それらの意見が上に通じないようでは治世が困難であり、家臣一同結束して事に当たるようにと訓諭している。この方針により、「受言函(じゅげんばこ)」が江戸藩邸および弘前城門に設置されたという(『津軽藩史』東北産業経済史第五巻)。

図152.藤田家記の信自筆書付(写)
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 意見書は、このような藩内の結束を強化する動向の中で提出されたものであり、現在多くの意見書が確認されている。以下取り上げる二つの意見書は実際の政策にも大きな影響を与えたものであり、藩政上重要な意義を有している。