土着策の展開と農村

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藩士を農村に居住させるという土着策は、農村やそこで生活する人々にどのような影響を与えたのであろうか。
 前述の諸改革意見書にみられるように、当初、藩は土着によって藩士の質朴化が図られるとしていた。しかしながら、実際はそれとはまったく逆の方向に向かっていたようである。「工藤家記・佐藤家記」寛政六年十二月二十九日条(『中里町誌』全 一九六五年 中里町刊)によれば、在宅藩士の振る舞いはわがままで誰はばかることもなく、「百姓と利を争ひ、或は淫酒(いんしゅ)ニ耽り、行状も乱れ」ている。そして、藩士土着によって古来の質朴な風習は一変し、「上下奢侈之風俗」になったと記されている。各村に数人という在宅藩士の分布が、よりその支配者意識を増長させたと同時に、年貢収取対象である農村に密着しているという安易な気持によって、「在宅衆威を振ひ申候」(『平山日記』寛政六年条)という状況を引き起こしたわけである。この在宅藩士たちによる権力の恣意的行使や農村での悪行については、いくつか例を挙げることができる。たとえば、農村での隠商売の者を摘発して「盗賊同様之仕方」(同前寛政九年十一月二十六日条・同十年条等)、つまり脅かして金を巻き上げ、内済にするといった類が多い。このような状況は、裏を返せば、在宅者の農耕従事が藩の予測に大きく反したものとなっていたことを示している。それは、自ら積極的に手作りしなくても、その生活が一定程度可能な状況にあったためであった。つまり、土着策によって藩士の財政を自立させ、藩財政からの経済的分離を目指してはいたものの、切米取金給家臣については自己の開発地がその相当に達するまでは扶持米の蔵渡しを継続し、また知行取層においては六ツ物成渡しから四ツ物成渡しになったものの、百姓からの収取は地方渡しによって基本的に可能であったからである。単にその生活を維持するには、あえて農耕従事の必要はなかったのである。したがって土着藩士がその財政を豊かにするには、特に知行取層においては百姓からの収取強化、および夫役徴収の強化を図ればよいことになる。これが藩士土着によってもたらされた農村状況の一端である。
 そして、この状況は、最終的に百姓の困窮を導き、結果として藩士財政の拡大も見込めない状況となり、藩士土着策廃止の要因となっていくことになる。
 「要記秘鑑」(御家中在宅御触)寛政六年閏十一月二十三日条によれば、在宅藩士の心得違いとして、次の点を改めるように命じている。
(1)手作り分については百姓同様、藩に上納することになっているが、村役人からその遅延をいわれた時、不法の意義を申し立てていること。

(2)手作り地=自分開発地に百姓や人馬を取り立てていること。

(3)給地百姓に対して理不尽に先納や過役を申し付けていること。

等である。いずれも給人の恣意的権力発動が、在宅によって増長されたことを背景としている。年貢収納が行いやすいように、生産力のい土地や代々つながりの深い土地を知行地として家臣に与えるとともに、百姓からの直収納の形態をとった結果、百姓からの収奪が強化されたと同時に、年貢収納における知行権が拡大されたからである。しかし、これは視点を変えると、藩当局が意図したことでもあった。在宅藩士が、知行地百姓に対してこのような行為ができる根拠として、彼らの御蔵諸役を軽減したり(「要記秘鑑」(御家中在宅御触)寛政六年二月十二日条)、この時期の知行帳に記されているように、手取り分の小役米などを「山作人足」の名目で徴収ができるようにしていたのである。つまり、百姓からの収取を土着策の原点としていたために、給地百姓の成り立ちのうえに藩士の成り立ちを確保し、そのうえで藩財政からの藩士財政切り離しを実施しようとしたものが、逆に藩士によってその最も基本である給地百姓が困窮する方向へと導かれていったのである。結果として双方ともに貧窮化の道を歩むことになる。しかも、在宅藩士たちの給地支配の恣意性が、藩の財政基盤の蔵入地百姓をも巻き込むことによって、土着策の弊害が現実性をもって藩政上に表面化してくる。それは具体的には、交代勤務時における自分の知行地百姓・馬以外の徴収が行われるようになってきたことである。在宅に当たっては居村近くの百姓を多くつけ、御蔵諸役も軽減しているのであるから、自分百姓・馬を使うべきとした御触が散見する(同前寛政六年四月二十日条・同七年二月二十四日条等)。つまりこれが意味するのは、給人知行権が恣意的に拡大され、給地を越えて、居村の蔵百姓へも波及している状況である。ここに、蔵百姓の疲弊が導かれることによって、土着策が直接藩財政を脅かす存在となったのである。
 このように、藩士土着策廃止の理由を、農村状況に求めるならば、藩による給人年貢徴収権拡大の方向が、蔵百姓を含む領内百姓を全体的に疲弊させる方向へと向かったためであった。