このような開発政策はどのような人物によって担われていたか。開発掛の役人として代表的な人物に平沢三右衛門が挙げられる。彼はいわゆる「地方巧者(じかたこうしゃ)」というべき存在であった。「平沢三右衛門由緒書」(弘図八)によると、平沢家は新田地方に土着していた藩士で、俵子二〇俵二人扶持の下士に過ぎないが、代々新田普請奉行や土淵堰(どえんぜき)奉行などを務めるなど、開発については専門職的立場にあった。彼は開発御用掛として登用される以前にも、安永二年(一七七三)から五年にかけて二五七八人役を開墾、潰村二五ヵ村を復興したといい、天明飢饉後に豪農や一般農民層を使役して新田地方で一万五〇〇〇人役を越える廃田の復興に成功した。だが、その強引な手法が災いしたのか、寛政九年(一七九七)に百姓からの誹謗(ひぼう)を受け失脚、享和二年当時は蟄居(ちっきょ)の身であった。しかし、享和三年閏正月に田数三万三〇〇〇人役余、分米(ぶまい)一万一〇〇〇石余の収量の増加を目指す「新高開発場処廉功案内帳」を竹内甚左衛門を通じて提出、これが評価されて開発の指導的役割を果たすことになったという(『津軽興業誌』)。
平沢が藩主へ具申したといわれる「百姓が難儀の旨を訴えても、理解を見せて採り上げない」(同前)という文言は、開発のためには多少の百姓の反発も無視する、という開発担当者としての強権的な姿勢を示しており、同時期の八戸藩の野村軍記(のむらぐんき)(長苗代新田)、幕末の津軽弘前藩の山田登(やまだのぼる)(豊富(とよとみ)新田)、盛岡藩の新渡戸伝(にとべつとう)(三本木新田)など、新田開発を担った者に共通にみられる発想である。
一方、藩の上層部とは別に、現地で実際に開墾に携わった豪農層の存在を忘れるわけにはいかない。在宅制度による開発に挫折した藩士に代わって開発を行ったのは豪農層であった。たとえば、『津軽興業誌』によれば浅瀬石村の鳴海久兵衛は農業に精励し窮民を救った功で、享和二年(一八〇二)には開発方取締方に任命され、自費によって数千人の人夫を雇用して、猿賀溜池(さるかためいけ)と用水堰の普請を行ったという。一方、新田地方では、飯詰(いいづめ)村の新岡仁兵衛は文化元年(一八〇四)から四年までに合計で三三町歩の田地の開発に成功、さらに四〇町歩の開発を計画していた(『五所川原市史』通史編1)。藩はさらに各村の庄屋・代官所の手代クラスの有力農民を「開発方下取扱」に任命、周辺の開発に関する指導者役を担わせた。文政六年(一八二三)には、藩は開発に功のあった領内二〇名の豪農を、数十年来の功績を奇特として、永代諸郷役免除・帯刀御免などの褒賞を与えた。
一般の農民層による再開発も進んだ。現在の弘前市北部、岩木川左岸域の藤代組について、文化九年に藩主の視察に当たって作成された開発田方の反別帳が残っている(弘図郷、表55・表56)。小友(おとも)村(現弘前市)の例でいうと、同村は家数七一軒、田方面積八三町六反余、分米六一八石余の中規模の村である。この田方面積は「古田」であるが、このほかに一二町六反二畝一九歩の「開発田方」が挙げられている。開発は享和三年から断続的に着手されていて、最初の二年間で「村中」で一〇町近い面積の開発が行われた。その後も個々の百姓により、細かな開発がなされており、同年の段階でまだ免税地(鍬下年季(くわしたねんき))となっている面積も二町余ある。
藤代組で挙げられているのは、視察が行われたとみられる五ヵ村に過ぎないが、同時期に領内の各村で、それぞれ村人による地道な開発の努力が払われていたことを推測させる。なお同種の開発反別帳は高杉組や広田組にも残っている。