民兵の登場

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幕末、異国船が頻繁に日本沿岸に現れるようになると、各藩はこれまでの兵力や動員体制の改善を迫られた。津軽弘前藩が採用したのは百姓等を兵士として採用する民兵制度であった。
 当時、海岸線を領有していた藩の数は約一二〇藩あり、うち農兵を採用した藩は、判するだけで五四藩である。これら農兵の役割は、おおよそ海防における藩の軍事力の不足を補い、かつ、即応態勢を取るためのものであった(原剛『幕末海防史の研究』一九八八年 名著出版刊)。
 百姓の動員については、すでに文化五年(一八〇八)、対露緊張の中で領内沿岸を巡視した用人山鹿高美が必要性を主張していたが、それが具体化されたのは嘉永六年(一八五三)十一月のことである。藩では海岸を持つ油川両組(油川・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森蟹田・今別・十三・鰺ヶ沢深浦大間越)の各町奉行民兵の編成を通達し、翌年二月までに、海岸の村々で約一〇〇〇人、八浦で約二〇〇〇人が編成された。彼らの出自は村役人代官所下役人・百姓・漁師・猟師等さまざまであり、それぞれのものが普段から仕事の道具として用いている鉈(なた)・鎌・山・鳶口(とびぐち)・鉄砲などを武器とした。
 これら民兵の役割を地域ごとの計画でみてみよう。油川両組では二二〇人が二組に分けられる編成になっていた。浦町両組でも人数編成は同様だが、北浜(後潟組)に大人数が出向いた場合の人足としての動員も想定されていた。金木両組では一七八人が二手に分けられ、庄屋村役人が「伍長」として指揮をとることとされた。広須両組では二二二人が地域ごとに広須組の隊と木造新田組の隊に分けられていた。赤石組では一六二人の動員体制がとられた。

図200.海岸村々并八浦民兵一件
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 一方、八浦では、青森火消組を中心に八、九〇〇人余の動員を見込み、さらに老弱の町人奉行所周辺で後方支援に当たることとされた。野内では一〇〇人前後、蟹田では八〇人ぐらいずつ二手に分けて動員することが想定された。今別では松前稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派されることになった。日雇人夫が多かった十三でも、彼らが早春から晩秋まで松前稼ぎに出るために人数が確保できず、隣接する四ヵ組からの応援を得ることになった。鰺ヶ沢では三一七人が動員されるが、うち五七人が船手とされた。各町内ごとに二五人ずつ民兵が割り当てられた。また、これ以外にも十五歳から六十歳までの町内すべての男子が万一の際に動員され、仮屋形警衛に当たることとされた。深浦では一組二五人、一〇組編成とし、二五〇人余の動員が見込まれ、伏兵となって戦う計画を立案した。大間越では十五歳から六十歳までの男子を総動員しても七〇人余だったため、万一の場合、赤石組の民兵が派されることとなった(「海岸村々并八浦民兵一件」弘図古)。