礼服

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津軽弘前藩の正月行事、特に一日・四日・七日・十一日・十五日における登城(弘前城本丸へ)を許された藩士の服装について、「国日記」によって整理すると左のようになり、大体の傾向を知ることができる。なお、月日の下の( )に示した行事内容は『弘前市史』〈藩政編〉(一九六三年 弘前市刊)第二章第五節二の(1)年中行事の表によった(『弘藩明治一統誌珍事録・弘城年中行事記』)。
○正月一日(藩主、諸神仏拝礼。藩士登城年賀)
 元禄十年(一六九七)(藩主在国)――熨斗目長(のしめながばかま)(長柄(ながえ)奉行以上……長柄奉行とは長柄隊の頭で番方(ばんかた)の役職の一つ)、熨斗目半(寺社奉行馬廻番頭……馬廻番頭(うままわりばんがしら)は番方の役職の一つ)
 享保二年(一七一七)(藩主在府)――熨斗目半(御目見(おめみえ)以上)
 宝暦三年(一七五三)(藩主在府)――熨斗目半(御目見以上)
 文政十一年(一八二八)(藩主在国)――熨斗目長(長柄奉行以上)、
熨斗目麻(番頭(ばんがしら)以上……番頭とは番方の役職の一つ)、木綿服麻(右以下)

 右によれば、上級藩士に限られるが、元旦の年賀では熨斗目長~熨斗目半の着がみられ、藩主在国の年より不在(在府参勤交代江戸藩邸に居住)の年の方がいくぶん簡略であったことが知られる。
○正月四日(御始め、掃除始め)
 享保二年――熨斗目長(年男(としおとこ)・留守居組頭(るすいくみがしら)……留守居組頭とは番方の役職の一つ。藩主の留守中、城代(じょうだい)の命を受けて城中を守衛する)、常服半(御中小姓(おんちゅうこしょう)、御小姓組頭・御中小姓頭のうち一人……御中小姓頭と御中小姓は武官で、あとは奥向の役職、当番の御目付……大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻(掃除見分の用人(ようにん)・大目付(おおめつけ)……用人家老の補佐役。大目付は諸役・諸士の監察と法規・典礼を担当する)
 宝暦二年(一七五二)(藩主在府)――右とほとんど同じ。
 文政十一年(一八二八)――「国日記」に「四日御箒(ごほうき)初に付、罷出候御用人大目付常服麻上下」とあり、文政十一年は簡略な右の記載だけであるが、享保二年と同じであろうと思われる。

 正月四日の服装は、藩主在府・在国とも同じと推定される。
  ○正月七日(七草のお祝い)
 七草(ななくさ)とは、正月七日に七草などを入れた粥を食べる行事をいい、病疾を祓うに効ありとされるなど、除災儀礼の性格が強い。七草(種)については本節三(二)を参照。

享保二年(一七一七)――常服半(藩主の一族・家老用人大目付)、常服麻(城中の諸番人)
宝暦三年――右とほとんど同じ。
文政十一年――熨斗目麻(家老用人)常服麻(大目付)

 藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者の方が簡略な服装である。
  ○正月十一日(具足開き作事方手斧始め)
 具足(ぐそく)開きとは、年始めの具足祝をいい、武家の表道具である甲胄武器を飾り、祝儀後に供えつけの具足餅を欠き割って参列者に配布し、賞翫(しょうがん)する式典。作事方手斧始めは土木建築開始の儀式であろう。

元禄十年(一六九七)――熨斗目半(番頭(ばんがしら)以上)
享保二年――常服羽織(城中の諸番人)
文政十一年――熨斗目半(番頭以上)、常服麻(当番か事があって出仕する者)

 藩主在国の元禄十年、文政十一年は熨斗目半であり、在府の享保二年は日常着る簡略な羽織である。
  ○正月十五日(月次(つきなみ)の御礼日)
享保二年――小袖木綿・麻
宝暦三年――常服半(出仕の者)
文政十一年――木綿服麻(御目見以上)ただし、熨斗目麻(用人以上)、常服麻(大目付)

 右によれば、それぞれの年によって異なるが、藩主在府の享保二年と宝暦三年が簡略である。

 以上、正月の公式行事のために登城する際の藩士の服装は、慣例でほぼ定まっていたことはいうまでもないであろうが、藩主江戸在住で弘前城が留守に当たる年は、多少簡略であった。

図91.武士の礼服