信政の教養

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信政は寛文元年(一六六一)正月、十五歳の時に叔父であり後見人であった津軽信英(のぶふさ)の勧めによって、山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~一六八五)に入門した。信政は、素行が『聖教要録(せいきょうようろく)』を著して幕府の忌諱(きい)に触れ、赤穂(現兵庫県赤穂市)に配流されていた間の一〇ヵ年を除いて、貞享二年(一六八五)九月二十六日素行が病没するまで、終生篤く師事した。弟の政朝と二人の子信寿(五代藩主 一六六九~一七四六)・資徳も素行に入門させている。国日記江戸日記素行日記には両者の間の頻繁な往来が記録されている。素行の臨終に際しては枕頭にあって看護した。死去するや弔意を表して弘前での鳴り物三日の停止を命じている(「国日記」貞享二年十月十二日条)。

図159.山鹿素行画像

 信政は素行を招聘せんとの意向を持っていた。素行は考えるところあって結局それに応じることはなかったが、藩と素行との関係は密接になっていった。素行の長女亀の娘婿である岡八郎左衛門(素行の甥)は、延宝七年(一六七九)、津軽家家臣となり、天和元年(一六八一)、家老となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽侯に仕え、津軽山鹿家本家となった。さらに素行の二女鶴は、延宝六年(一六七八)、藩士北村源八(後に喜多村政広と改む)に嫁し、源八も天和元年に家老となり、その子政方も家老職を継いだ。加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に藩士にとりたてられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた。素行一門の人材登の背景には、素行の助言のもと、これまでの番方の支配体制に対して行政官僚を優先する支配機を確立せんとの信政の意図が働いていた。素行の学問・思想は儒学兵学とを併せ持つ面があった。儒学の側面は空理空論を廃して、日の実践を重視する学風で、宝暦改革の中心人物乳井貢の思想にもその影響が強くみられる。兵学の面は山鹿家喜多村家以外にも磯谷家・貴田家・牧野家・横島家に伝えられていった。当藩の学芸面での素行学の占める位置は極めて大きいものがあった。素行の著『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』『武教要録』『武教全書』は藩より出版されている。

図160.中朝事実

 また、信政は寛文十一年(一六七一)に幕府の神道吉川惟足(よしかわこれたり)(一六一六~一六九四)の門人となり、神道も究めた。惟足は吉川神道を唱道し、紀伊和歌藩主徳川頼宣(よりのぶ)、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)などからの信頼も厚く、天和二年(一六六七)には徳川綱吉から幕府神道方を命じられた。惟足の神道説は吉田神道を基礎としつつも、その仏教的色彩を除き、朱子学との習合を推し進め、理学神道をもって治国の道を説いたものであり、その主張は道徳的側面を強調し、社家中心の神道に対して批判的傾向にあった。信政は江戸参勤中は毎月二、三回惟足およびその子従長から講義を受け、子弟家臣にも聴講させた。信政は元禄六年(一六九三)十二月に「一事重位」、同八年に高照霊社の神号を受け、同十三年(一七〇〇)三月に「二事重位」、宝永元年(一七〇四)二月には「三事重位」の奥秘の相伝を受けた(「高照神君修学次第」)。同七年(一七一〇)病没の時は、遺命によって岩木山麓百沢に吉川神道の法式をもって葬られた。祭事は惟足の内弟子北川信次郎(正種)が取り仕切り、彼は正徳二年(一七一二)八月新知二〇〇石を賜り、五代藩主信寿の長子信興(のぶおき)(一六九五~一七三〇)の守役となった。