キリシタン改め

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江戸幕府は寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱を鎮圧すると、同十六年、諸大名にキリスト教厳禁を命じるとともに、ポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させた。このキリシタン禁制政策を全国規模で強行したことは、幕藩体制の維持・強化策の一環をなすものであり、承応三年(一六五四)にはキリシタン禁制の高札を立てさせ、庶民に至るまでその趣旨を徹底させた。
 津軽領では寛文元年(一六六一)、藩主自ら馬場において切支丹改衆在方へ繰り出す馬揃を高覧した。また、藩士が召し抱える又者(またもの)(陪臣(ばいしん))のキリシタン改めを命じている。同四年には切支丹改証文の案文が示され、領内全域でキリシタン改めを実施し、切支丹改帳を作成させた。改帳は国元にも置かれたが、一部は江戸藩邸から幕府寺社奉行へ提出した。同五年には幕府よりキリシタン改めの方法を示す布令が届いたが、長勝寺へは曹洞宗関東触頭からも布令があった(「国日記」寛文五年二月二十七日条)。曹洞宗からのものは、藩権力の及ばない朱印地内のキリシタン改めを念頭に置いたものとみられる。この年、野内・大間越碇ヶ関の三関所へもキリシタン改めを命じた。
 キリシタン改めの方法は、寺が檀家に寺の判を押した「寺請証文」を出し、これによって自分の寺の檀家に間違いなく、キリシタンではないことを証明した。在方では代官所に寺の判鑑(はんかん)を備えて置き、庄屋五人組が立ち会って寺請証文を寺の判鑑と照合し、一致すれば「切支丹改証文」を作成する。これを郡奉行を通して寺社奉行へ提出した。町方では町年寄に判鑑を置き、町名主・月行事・五人組が立ち会った。
 藩士の場合は、御目見以上は寺社奉行へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より寺社奉行へ提出した。延宝三年(一六七五)、新寺町西光寺は、在方に二〇〇軒の檀家があるが、降雪の際に寺請証文を受け取りに弘前まで行くのは難儀するので、榊村(現南津軽郡常盤村)を境として北は浪岡の西光寺で受け取れるように願い出て許可になった(同前延宝三年九月二十七日条)。元禄元年(一六八八)にはこれまで実施してこなかった「江戸者」「又者」にもキリシタン改めを行った。神職にもキリシタン改めと馬改めが実施されており、寺の檀家になる必要があった(資料近世2No.三八九)。同十四年の「生死并引越者の書上帳」「馬数改書上ケ帳」(同前No.三九一・三九二)をみると、キリシタン改めの際、宗門人別も同時に実施され、領民の把握が行われていた。寺請証文は旅をする時や仕事に就く時も必要であり、身元保証の役割も果たした。明治二年(一八六九)に仏教諸宗は明治政府へ耶蘇教(やそきょう)禁制を建白していて、領民は翌三年でも「寺請証文」を所持していた。しかし明治六年、太政官名で邪宗門禁制の高札が撤廃されて、キリシタン禁圧の政策は終わりを告げた。

図203.桜庭村の切支丹改証文