藤森市政の財政

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合併初年度となる昭和三十一年度に第二二代(~第二六代)弘前市長に就任した藤森睿(さとる)市長は、財政の健全性保持を基本方針とした。それはシャウプ税制改革の影響で、市財政は昭和二十五年度以降赤字となり、赤字団体として自治庁より全国最初の勧告を受けたが、赤字解消に努め、三十年度に再建を果たしたばかりだったためである。その後、五期にわたる藤森市政の財政は、津軽広域圏のインフラ整備と都市開発が重点施策となった。
   (一)津軽広域圏のインフラ整備
 津軽広域圏のインフラ整備事業は、岩木山ろく開発、弘西林道開削、岩木川平川水系の整備、津軽広域観光開発などが重点施策となった。
  ①岩木山ろく開発
 岩木山ろくの開発は、三十二年度に調査が開始され、三十七年度から本格着工された。三十八年度には国家予算に三億円か組み入れられた。この開発事業は農家所得を現在の三倍に引き上げる営農計画で、協業方式による開拓パイロット事業として注目された。三十九年度には大石(おおいし)農場が開設され、四十年度には市域のみで四〇キロメートルにおよぶ道路網が完成し、さらに一〇〇〇ヘクタール余りの農地が造成されることになった。四十三年度には一一〇〇ヘクタールの農地が造成され、二一億円の事業費と七年の歳月を費やして事業は完工した。
  ②弘西(こうせい)林道の開削
 津軽地方の内陸部と西海岸地域を結ぶ弘西林道の開削は、三十六年度に着工された。この道路は、西海岸の景勝地と、弘前の名所、十和田湖を結ぶ一連の観光圏形成のため、また、西海岸一帯との流通を促進する国土横断道路として、津軽広域経済圏確立に必要不可欠とされた。三十八年度には国家予算一億三六〇〇万円余りが計上され、四十二年度には開削計画のおよそ五〇%にあたる三〇キロメートルが整備された。その後も毎年一億円以上の予算が計上され、工事は白神山地の分水嶺をいくつも越える難工事となったが、開削工事着工から一〇年目にあたる四十六年度には全体の八五%、五三キロメートルが開削され、四十八年十月、とうとう「幻の林道」といわれた延長六〇キロメートル余りという全国有数の林道が貫通した。しかし、この林道は積雪期間は閉鎖され、路盤の改良も進まないことから交通に不便をきたし、期待されたほどの経済効果は上がらなかった。

図3 弘西林道路線

  ③岩木川改良工事
 津軽地域における農業の母体である岩木川は、三十三年、三十五年の二度にわたる大水害のあと、国家予算により灌漑(かんがい)・排水施設が建設されていくが、三十六、三十七年度と二ヵ年度にわたり、総工事費六億八〇〇〇万円余りで完工した。四十年度には大石川・大蜂(だいばち)川を含む岩木川中流左岸改良工事の端緒となる放水路の建設工事が着工され、岩木川は一級河川に指定された。
  ④津軽総合開発
 岩木川と同様、三十六年度に着工された平川水系の灌漑・排水施設も翌三十七年度に総工事費四億一〇〇〇万円余りで完工した。平川(ひらかわ)水系は約六〇〇〇ヘクタールにおよぶ穀倉地域でありながら、これまで灌漑用水不足のため整備できず、農業の振興が妨げられていた。だが、長年の国への働きかけにより、津軽総合開発が策定されることになった。三十五年度に農林省津軽総合開発調査事務所が設置され、四ヵ年の調査を経て開発計画は立案された。それは平川・大和沢(おおわさわ)川の治水・利水の近代化をめざす早瀬野(はやせの)ダムの建設を始め、津軽地域三万二〇〇〇ヘクタールにおよぶ水田などの土地改良事業であり、一〇年間、三〇〇億円の予算で計画されることになった。四十二年度には新規全体実施設計画地区に採択され、四十四年度には七〇〇〇万円の予算が計上され、事業が開始されることになった。四十六年度になると、国における総合農政の推進および新全国総合開発計画にもとづく高生産性農業地帯としての位置づけから二〇億円の予算が計上され、津軽平野の広域農業開発は本格的に進められていった。
  ⑤津軽国定公園の指定
 観光行政に関しては、三十五年度に十和田西線の開通に伴い、観光ルートの整備が図られ、十和田、岩木、西海岸を結ぶ津軽広域観光圏が構想される。三十六年度に津軽観光圏整備協議会が結成され、関係市町村と協力し、活動が開始された。四十年度、観光行政は市の重点施策となり、鷹揚園(ようようえん)(弘前公園)、大仏(だいぶつ)公園・座頭石(ざとういし)・久渡寺(くどじ)地域、巌鬼山(がんきさん)神社・赤倉・大石地域など市域内の観光地は、地域住民のレクリエーションの場として、津軽広域観光圏と有機的関連をもたせながら整備が図られた。四十三年度には市制施行八十周年の記念事業として久渡寺一帯に「子供の森」というレクリエーションの場が三ヵ年計画で建設されることになる。四十四年度には津軽国定公園指定に向けた調査や計画の策定が始まる。その後指定に向けた運動が展開され、五十年三月、総面積二万六〇〇〇ヘクタール余り、津軽半島北端部から日本海に臨む延長一八〇キロメートルにおよぶ海岸と十二湖・岩木山地区が津軽国定公園として指定された。
   (二)市政における重点施策
 藤森市政における重点施策は弘前市の都市開発にあった。それは公共物の建設、住宅・工業団地の造成、弘前駅舎の新築、交通対策交通安全対策などである。

写真153 議場での藤森市長

  ①公共物の建設
 昭和三十年三月、弘前市は中津軽郡一一ヵ村と合併すると、大弘前市の象徴として新庁舎建設を検討する。工事は三十三年に着工され、翌三十四年の市制施行七十周年に落成した。学都弘前の図書館として、市民から要望が出されていた図書館の新築は三十四年度に着工され、初年度は一〇〇〇万円、三十五年度には二〇〇〇万円が計上されて完成した(弘前公園内、旧市立弘前図書館)。図書館とともに要望が出されていた市民会館は、三十七年度から建設着工され、三十九年度に完成した。四十九年度には弘前相互銀行から創業五十周年記念として、弘前市に一億円が寄付され、弘前公園内に博物館が建設されることになった。
  ②住宅・工業団地の造成
 公営住宅の建設は、三十四年度に三ヵ年の特定建設計画が策定され、終戦後の応急住宅対策として、旧兵舎を転用した住宅が老朽化してきたため、それの建て替えに三一九二万円余りが計上される。三十六年以降は桔梗野団地緑ヶ丘団地と次々建設が進められるが、四十年度になると「一世帯一住宅」の国の施策に呼応し、勤労者への住宅供給のため一〇〇〇戸建設が目標となった。そのため四十一年度から城西団地の造成が、四十五年度からは小沢団地(現ヶ丘団地)の造成が、青森県住宅供給公社への委託で開始され、その結果、この年には完成または造成中の住宅が五三三〇戸となった。その後も公営住宅の建設と住宅団地の造成は市の重点施策として引き継がれていった。工業団地の造成は、農村地域工業導入促進法に基づく衛星工業団地として、北和徳工業団地が四十九年度に着工される。用地買取費に六億八〇〇〇万円余り、造成費に九億六〇〇〇万円余りを費やし、翌五十年度から分譲が開始された。

図4 城西団地完成イメージ図

  ③弘前駅舎の新築
弘前駅舎の新築は四十三年度から検討されるが、そのため商工団体および学識者を加えた促進協議会が結成され、民衆駅構想がなされていく。四十七年度には建設に向けた基本計画が完成したことで、国鉄(現JR)に建設認可を申請し、駅舎の新築は促進されるが、その実現は駅周辺開発とともに、福士市政に受け継がれることになった。
  ④交通対策交通安全対策
 高度経済成長にともなうモータリゼーション化の進展で、四十二年度から交通対策が重点施策となっていった。城下町から発展、拡大していった弘前市は市街地が入り組んでおり、市域の拡大とともにこの状況が郊外地域へ無秩序に進行しないためには、都市計画に基づく区画整理が必要であった。また、交通を円滑にするにはバイパスの建設も必要となった。そのため国道七号線バイパスや石渡バイパスの建設を国や県に働きかけることになった。四十五年度には国道七号線弘前バイパスは豊田地区の高田地内まで事業が内定し、四十六年度には前年度の二倍近い事業費が計上され、一方、この年までに市道改良率は二五・六%、舗装率は一二・八%になった。四十七年度には七号バイパス百田・撫牛子間が二車線供用となり、国道一〇二号線バイパス工事も着工した。四十九年度には石渡バイパス構想が大根子(おおねこ)・石渡線(現弘前環状線)として県道に認定され、岩木川への長大橋(現城北大橋)の架橋も含めて、建設へ向けて動き出すことになった。

写真154 県道大根子・石渡線城北大橋(左・石渡方面、右・撫牛子・大根子方面)

 モータリゼーション化の進展にともない、交通事故が年を追うごとに増加してきたため、四十二年度から交通安全推進体制の整備など交通安全対策が図られた。四十三年度には第一大成小学校の通学路に横断歩道橋和徳小学校の通学路の一部に歩道が設置された。四十五年度には和徳小学校横に歩道橋、茂森町・和徳町・東和徳町・中央通りに歩道が設置された。四十六年度には死者一五名、負傷者一二一一名という前年の交通事故の現状に対し、市民組織挙げての安全教育、安全運動が取り組まれ、また、歩道歩道橋の増設、通学路の整備、黄色照明灯の新設などが図られた。四十七年度には交通事故の増加にともない、県の「交通事故三割減少運動」に呼応して、交通安全施設の整備や交通安全運動に全力を挙げて取り組んでいった。
 交通対策交通安全対策は、拍車のかかる交通量の増加により、その後も弘前市が取り組む重点施策となっていくのである。