旧制度の改廃と開拓使の流通政策

663 ~ 667 / 1505ページ
 明治元年には、商法司のもとに箱館生産会所がおかれ、箱館奉行所の管轄下にあった箱館産物会所の機能を継承し、明治2年には箱館生産会所が改組され、新たに設立された通商司のもとに北海道産物改所が設けられた(明治3年5月より開拓使所属となり、北海道産物会所と変更)。また、明治2年には、場所請負制廃案の布達がだされたのをはじめ、箱館、寿都、手宮、幌泉の4か所への沖の口運上所の取建てと、沖の口役所の海官所への改称がなされるなど、近世的な生産、流通機構の改組に着手された。
 箱館生産会所は、用達仲間商人の特権を抑圧し、北海産物の流通機構を統一的に掌握することを意図したが、それを継承した北海道産物改所(会所)になると、上からの流通機構の整備といった側面がうすれ、流通課税の徴収面が強化された結果、物産を振興し、流通を促進するという会所本来の目的から逸脱したといわれる。そして、開拓使の10ヶ年計画が樹立され、その開拓事業を促進するために、明治4年12月に、明治5年から7年の3か年にわたり、外国貿易のほか海関移出入の免税が決められると、会所存続の意義を失い、明治5年廃止された(原田一典「明治初期の道産商品に対する流通機関」(1)『新しい道史』17)。東京、大阪、兵庫、横浜、長崎新潟、那珂湊、下関、撫養など全国の主要港湾に設けられ、全国的に北海産物の流通を掌握しようとしたわけであるが、具体的成果をみないうちに終わった。
 明治5年以降になると、同年1月に貸付会所が設置され、金融面から拓殖事業を支えることになった。その下には北海道産物商会、運漕社、保任社などが設けられ、北海産物の流通の促進をはかったが、貸付資金の焦付きなどにより、明治8年にあえなく瓦解した。明治13年には、開拓使管轄下の官営作業所、試験場を核に、道内の生産を管理指導し、道産品の市場開拓、販路拡張をはかるために、北海道物産取扱所が置かれたが、成果をみないうちに開拓使の廃止に遭遇している。いずれにしろ、これらの流通機構の函館の物資流通とのかかわりは、不明な点が多い。
 一方、場所請負制の廃止は、函館が東蝦夷地場所請負人の居住地であり、その出産荷物の積出港であったため、影響は大きい。
 明治2年9月に廃止は明示されたが、場所請負人が、漁業生産はもとより、場所内の諸権限を統一的に掌握する存在であったため、同年10月に、当分の間は、漁場持の名称で存続させることにし、明治9年9月になって移住や独立営業の障害になるということで廃止されるに至った。
 漁場持制が存続し続けたのは旧東蝦夷地や増毛以北の旧西蝦夷地など、定住漁業者や入漁者が少なく、かつ、地域の広大さに比較して、相対的に生産力の低い地域であったといわれる。しかも、漁場持は、場所請負人の収益の一つであった場所内の漁業者から二八役金を取得する権利はなく、かえって二八役を新たな税金として位置づけた現物の海産税を換金し、上納するという重い負担をしいられた。そのうえ、この時期にはアイヌの人々を犠牲にした過度の搾取もできなくなっていたし、漁場持の地位も、地域の生産力が発展すれば、罷免される可能性のある不安定なものであった。
 明治4年12月から5年2月にかけて、諸藩寺院などの北海道分領支配の廃止にともなう漁場持の再任がおこなわれた。石狩以南の鰊千石場所であった旧分領支配地諸郡には、漁場持の設定がなされず、函館と関係の深い旧東蝦夷地では、小林重吉が三石、杉浦嘉七が浦河、様似、幌泉、伊達藤五郎が虻田、藤野猪(伊)兵衛が標津、目梨国後、栖原半六と伊達林右衛門択捉、振別、紗那、蕊取の各郡に任命されている。その後も、杉浦が十勝全州と日高州沙流、小林が釧路州厚岸佐野孫右衛門が釧路と漁場持の任命が続いたが、経営の存続が困難であったらしく、税金の減額や漁場持辞退の嘆願が相ついでいる。
 明治9年9月に漁場持制を廃止した理由として、開拓使は、漁場持の排他的な漁場独占と、新たな漁場開拓に努力しなかったことを挙げているが、漁場持が、その管轄下に新たに自営漁民を招くことは、収税品の換金化の増大という自らの負担の強化につながった。こうした内在的矛盾のために、漁場持は自己経営の枠をでることができず、退嬰的経営に終始した(田端宏「明治初期の漁業制度について」『新しい道史』41号)。
 明治2年から9年にかけての場所請負、漁場持制の廃止の過程で、函館居住の場所請負人や、それにかかわる問屋などの特権商人の動揺を招き、その経済力を大幅に減退させたが、他方で、東蝦夷地の漁場開拓の促進、漁業生産の発展の可能性が増したのである。
 沖の口制、沖の口問屋制の改廃については、菅原繁昭「函館における問屋制の衰退過程について」(『松前藩と松前』14号)に詳しいので、それによってみてみよう。
 明治3年1月から「箱館、寿都、幌泉、手宮四港海官所規則」が施行されることになり、旧幕以来の沖の口制、すなわち福山、江差、箱館の三湊体制は廃されたものの海官所制として再生し、出入商品に対する徴税をおこなった。その際、箱館沖の口問屋も、そのまま存続し、問屋口銭も、商人と相対によって入1分、出1分5厘を限度として徴収することが許され、明治3年12月には、海官所規則を改定し、海関所と改め、税率の引き下げをおこなうとともに、問屋に手数料的な5厘の歩金の徴収を許している。
 この過程で、海官所諸税の納税期限が短縮され、漁場仕込や船手に対する貸付など問屋が自己の運転資金に流用することが制限された。また、函館の問屋は、明治3年11月の仲間規定(田中家文書「明治二年ヨリ諸用留」)で、その利潤収得の一つの柱であった断宿業務、すなわち場所請負人の保証人となり、場所産物の売買に介在する業務を惣仲間の取扱いとしており、場所請負制の廃止による断宿業務の動揺がうかがわれる。
 さきにみたように、明治5年から暫定的に海関移出入税を中止したのにともない、明治5年2月に海関所規則が改正され、海関税徴収という主要業務を失い、港役、常燈料、船税の徴収や船改業務を代行するにすぎなくなった。また、断宿業務とならんで、問屋経営の柱をなしていた船宿業務、すなわち、諸回船の宿となって、商品売買を仲介する業務にも、変化がみられるようになった。
 明治5年3月の函館問屋の仲間規則(前掲田中家文書)では、問屋小宿の株式所有者によって、会社様式の組織をつくって問屋業務をおこない、出入荷物の売買の者を仲買として20人を選定し、5厘の仲買口銭を認め、付船には鑑札を下付し、その支配下に置くことを議定している。仲買商人などが急激に成長し、問屋商人以外の取引が広がり、問屋自らが、それを容認しなければならなくなっていたのである。問屋の中でも、有力者である大津屋田中などは、この統合を一時的な利益をはかるにすぎず、船手や市中商人の取引を妨げ、混乱をもたらすものであると反対しているので、この議定が、そのまま実施されたとは考えられないが、新しい商取引の出現により、問屋自体が分解しつつあったことを示すものであった。
 明治6年になると、函館の問屋の不法な口銭の取得が露顕した。問屋側では、5厘の増徴は、売買取引の仲介にかかわる相対で取り決めた分で、海関所業務を代行することによる問屋口銭とは別であると弁明したが、発案した田中ら3名に罰金が申し渡されて決着をみている。こうしたことが問屋制を否定する引金となったらしく、明治7年には、船手、船頭の積荷売買の世話は誰でも自由におこない、口銭歩合も制限を決めず、相対によることが、開拓使内部で検討されるにいたった。一方、海関税免除の期限が切れるため、移出物品に対する課税を復活することにし、明治8年2月「北海道諸産物出港税則並船改所規則」が公布され、同年4月から施行された。船改所は、海関所の改名にすぎないが、海関税の納入や船舶出入届などは、すべて船手自らがおこなうこととされるにいたった。実際には、問屋が船手にかわって船改所に対する諸手続を代行していたが、同年8月の開拓使布達は、回船問屋小宿業務の廃止、すなわち船手の積荷に対して口銭を取得するを禁じた。ここに近世以来の沖の口制は、出港税の徴収に変質して一部存続したが、沖の口問屋制は、完全に廃止されることになったのであり、問屋を介在させない自由な取引が法的に保証されることになった。その背景に、問屋制自体が崩壊しつつあり、新興商人による新しい取引が広がりつつあったことはいうまでもない。