昭和42年1月 人文論究第27号
わが国の鉱業は、宝永年間(1704~11)以後幕府の奨励にも拘らず衰退の現象を示したが、宝暦年間(1751~64)以降はこうした鉱業の衰退に対して、技術の整備・改良を持って復興に当たろうとする動きが見えはじめた。徳川吉宗がこれまでの禁書の令を一部緩和して、西欧科学・技術移植の妨害を取り除き、広く実学尊重の気運を促進したことが、鉱業の分野にも好影響を与えた事はいうまでもない。当時すでにヨーロッパでは、近代の自然科学の基礎の上に立った技術の学問=工学が徐々に形成されつつあったのに比べると、甚だしい遅れを感ずるが、新しい科学技術のための思想的基盤を培い、幕末・明治期以降の西欧科学受容のため土壌を準備したと言えるのであろう(1)。
このような基盤の中で、わが国の産業技術を急速に発達せしめたものは、先進諸国の外圧に処する防備の必要と、開港である。従って西欧近代科学・近代技術の移植は、国防という軍事意識から、鋳砲や造船等の軍事技術によって始められた。即ち、当時幕府並びに各藩に成立したいわゆる藩営マニュファクチュアの多くが、この軍事技術、或いはこの洋式技術に付随して移植された諸産業によって展開されたものである。この軍事工業は日本産業における封建制から資本制への移行過程において、他の産業よりいち早く資本主義工業として成立し、経営面においてもまた技術面においても、常に近代産業としての先導的地位を占めてきたものであった(2)。
さて、一方蝦夷地に移植・展開された外国技術は如何だったろうか。安政2年(1855)2月幕府は、蝦夷地一円の上知を決し、箱館奉行をしてその経営に当たらしめた。奉行は蘭学者武田斐三郎に対し、箱館に入港する外国船の乗組員から、艦船の製造・砲台の築造・熔鉱炉の建造等々について尋ねさせ、外国技術の吸収に努めさせるとともに、安政3年(1856)諸術調所を設置して武田斐三郎を教授として、蘭学は勿論、諸金属の分析、器具の製造等を掌らせた。この諸術調所こそ、未開の蝦夷地に外国技術を移植する中心となったものである。
本稿は武田斐三郎が残した数々の業績の中で、古武井(現亀田郡尻岸内町)に建設された古武井熔鉱炉を通して、幕府の開拓政策と外国技術との関係を明らかにし、更に武田が用いた外国技術に対して、正しい評価を与えようとするものである。
古武井熔鉱炉については既に、阿部・白山両氏によって論じられている(3)が、両氏の視角及び方法が私のそれと異なり、基本的に再検討の余地もあるように思われるので、敢えて私なりの考察を加えてみた。諸先学のご批正を賜れば幸いである。
註
(1)日本科学史学会編「日本科学技術史体系」第20巻24頁
(2)小山弘建著「日本軍事工業発達史」5頁(日本産業機構研究所収)
(3)阿部たつを稿「武田斐三郎と熔鉱炉」(函館郷土手帳所収)
同「武田斐三郎は反射炉も作ったか」(道南郷土夜話所収)
同「尻岸内熔鉱炉について」(道南の歴史第24集)
同「古武井熔鉱炉について・同再論」(北海道地方史研究 59・60号)
白山友正著「松前地古武井熔鉱炉の研究並に考証年表」(北海道経済史研究20号)
同稿「尻岸内熔鉱炉研究余説」(道南の歴史第23集)
1 開拓政策の一環としての熔鉱炉の建設
道南地方は元来砂鉄が豊富で、古くから砂鉄の精錬が行われていた(1)。安政元年蝦夷地の調査に赴いた堀利煕・村垣範正等がこの豊富な砂鉄に着目し、これを蝦夷地の経営と開拓の用に資すべく、熔鉱炉・反射炉の建設を提唱していたことは、次の伺書によって知ることができる。
*箱館表台場其外見込之趣大意取調奉レ伺候書付(2)
……御筒之儀も是亦一時御鋳造相成兼可申候得共、蝦夷地海岸砂鉄多く候ニ付、地理相見立 松前伊豆守申談候上、熔鉱炉並反射炉相製し、鉄筒を鋳候ハバ、御経費少に出来可レ仕哉ニ奉レ存候(以下略)寅十二月
*箱館表御備船御新造之儀伺候書付
……「本文押送形御船之儀は、先般御船手ニ而出来候船形絵図面等御下被二成下一、箱館表ニおゐて製造仕候得ば、大材等伐出し、胴梁其外自然之曲木相用、反射炉御取建ニ相成候上は、鉄葉(ブリッキ)を製し船端を張候ハバ堅牢之御船御用途少ニ出来可レ仕哉ニ奉レ存候」(以下略) 寅十二月
また、安政2年2月27日、堀利煕より箱館在勤奉行竹内保徳に宛てた書翰に添付された『蝦夷地取扱見込大綱(4)』によれば、「……海岸広大之砂鉄ニ付、差向功者之差下し、鉱鉄ニ而大砲鋳造為致、台場等に相廻し候 様いたし度候 但南部地ニ而ツク鉄船積いたし、諸国江相廻し、多分利潤ニ相成候趣ニ付、 右等之振合篤と承り糺し墾開(ママ)其外之用途ニ致度候事」と、あるように、熔鉱炉・反射炉の建設によって「鉄筒を鋳」たり、「鉄葉(ブリッキ)を製し船端を張」ったり、場合によっては「開墾其外之用途」にいたすつもりであった。
もともと箱館奉行の設置と、蝦夷地の上知は箱館は箱館港の開港と、蝦夷地の防備の上から止むを得ず取られた措置であるから、開拓政策のすべてが直接、間接に北辺の防備に連なるものであったのは当然の事である。安政3年(1856)竹内・堀の2奉行が蝦夷地開拓の経費について上申し、経常費は32,110両余り、臨時費は、年限不定で194,869両と予定した。この臨時費の中に1万両の開鉱費が計上され、金・銀・銅・鉄山を開発し、また、反射炉等も建設する予定であった(5)。
このように幕府の蝦夷地開拓政策の中には、当初から熔鉱炉・反射炉建設の計画が織り込まれていたことが知られる。この計画は、蝦夷地の防衛上最も必要とする大砲の供給を容易にするばかりでなく、艦船の製造・農機具の生産供給が可能となり、蝦夷地の経営開拓に大きく貢献する事業でもある。殊に海を隔てた蝦夷地という地理的悪条件と、当時、各藩競って鋳砲を試みた為に生じた江戸・大阪の銅鉄等、鋳砲材料の高騰を考えると、現地で自給の道を考えるのは当然のことであろうが、わが国で一度も試みられたことのなかった熔鉱炉(高炉)による近代的鉄精錬に着目した奉行の見識は特筆されるべきであろう。たまたま「功者之者」として、蘭学者武田斐三郎が選ばれたが、これは決して偶然のことではなく、彼の経歴がこの間の事情を物語っている。
嘉永7年(1854)露西亜船が長崎に入港した際、応接掛りとして長崎に赴いた箕作阮甫に随行した武田を、箕作はその著「西征紀行(6)」の中で次のように記している。
「一酌の後、武田生鋳鉄熕法(おおづつ)反射炉の事を細講す」「斐三郎慷慨独得洋熕の説を講、皆余所不知なれハ、談論して枕に就く」と。更に長崎からの帰途、佐賀に立ち寄り反射炉を見学した時、「武田斐三郎は川路君の命に、鋳場の反射炉、諸機盤等を細かに寸尺まで書き記すへきよしにて、四、五留まりぬ」と記されている。旅の途中において反射炉や西洋砲術のことを論じた武田にとって、佐賀の反射炉見学とその調査は非常に興味深かったものと思われる。長崎での務めを終えた武田は、江戸に戻って間もなく安政元年3月、堀利煕・村垣範正等と同行して蝦夷地並びに樺太の調査に赴き、箱館帰着後はそのまま箱館詰となって、設置されたばかりの箱館奉行の許に残ることとなった。この調査行で武田の蘭学の知識が堀・村垣に与えた影響は、その後の蝦夷地開拓政策に大きく反映し、「諸術調所」の設置とともに未開の蝦夷地に最新の外国技術を導入する一端緒ともなった。
村垣淡路守公務日記に(以下公務日記と称する)
五月十八日(安政3年)
一、箱館奉行申上候、同所ニ而出来候反射炉雛形に書面相添伊勢守殿を以御下ケ、同所ニ而ハ弐百両ニ而出来之由
五月廿一日
一、箱館奉行差上候反射炉、川口鋳物師ともへ下ケ遣わし候旨申上、海防掛り廻し
六月十七日
一、箱館奉行差上候反射炉雛形、先達而御下ケ、右返上ニ不及候哉、弥十郎承合候処、下野守へ問合、御下ケ切ニ而宜旨申聞候間、鋳立場に御預り之積り、平作に談し置
六月廿三日
一、竹内下野守より差出候回焔炉略説(8)并雛形之儀ニ付申上候書付
鋳立掛三名
書類は返上、雛形は鋳立場に差置候様可仕申上
と、安政3年5月(1856)より6月にかけて、箱館奉行から提出された反射炉の雛形と書付けについて詳細は知り得ないが、これは最初の計画が具体化して、模型を添えて提出された反射炉の上申書と推定される。箱館奉行では熔鉱炉の建設に先立ち、反射炉の建設を計画し、安政3年春からこれにとり掛かった(資料5)。これは当時既に各地に反射炉の建設がなされ、鋳砲のためには反射炉の建設が急務であったことと、建設技術担当の武田斐三郎が以前からこの研究をしていたこと、及び佐賀藩の反射炉についても詳細に調査見学をしていることから、わが国では一度も試みられたことのない熔鉱炉の建設を考えるよりは、反射炉の建設がより安全性・確実性に富んでいたことの為であろう。
しかし7月にはこの計画が変更され、奉行から「蘭名ホーゲオーヘン(9)取建候義申上候書付(10)」なる上申書が老中に差し出された。
この上申書によると、反射炉建設のための耐火煉瓦も追々出来上がるが、従来使用されていた銅製の大砲では耐久力も少ないので、高炉(熔鉱炉)で精錬された鉄製のでなくては大砲地からも堪え難いということで、愈々(いよいよ)鉄精練のための熔鉱炉の建設に踏み切ることとした。箱館奉行は予てから蘭学者の武田斐三郎にその研究を命じ、英国人、仏蘭西人等にも尋ねさせて調べた結果、仕様雛型も出来、砂鉄の精錬方法についても詳細が分かったので漸くこの上申となったわけである。この建設費用については、蝦夷地入用金の中から一時立て替え、完成後精錬した銑鉄の払下げ代金を持って之に充てる計画であった。この上申書は間もなく聞き入れられ、愈々(いよいよ)熔鉱炉の建設にとりかかることとなった。
註
(1)「新選北海道史」第2巻130頁・休明光記附録・巻6・7・10
(2)蝦夷地御開拓御書付諸伺書類の内(前掲書第5巻1500頁)
(3)同書類の内(同書1509頁)
(4)大日本古文書、幕末外国関係文書之9323頁
(5)前掲書類の内蝦夷地御開拓其外御入用之儀申上候書付(前掲書類第5巻1526頁)K中に「是は金銀銅鉄山御益必定と見居候上は取開、諸小屋々々或いは反射炉等取立候積」とある。
(6)前掲幕末外国関係文書附録之1418・419・488頁
(7)同附録之4145・148・169・122頁
(8)同回焔炉略説は武田斐三郎の訳又は著書と推定されるが詳細は不明。回焔炉は反射炉のこと
(9)Hoogeoven(蘭)高炉の意
(10)前掲幕末外国関係文書之10 4488頁
2 古武井熔鉱炉の建設
(1)立地
1つの産業が興るためには、資源と技術(人)と資金と、そして社会的な要求がなければ成り立たない。前章において、技術は武田斐三郎が資金は国策事業として幕府が蝦夷地経営費の中からだし、北辺の警備と蝦夷地の開拓という社会的要求から熔鉱炉の建設にふみ切ったことを述べた。以下においては、資源的条件と立地について考察してみよう。
武田斐三郎の設計・仕様により着手することになった熔鉱炉は、その用地を箱館近郊の古武井村(現亀田郡尻岸内町)に求め、いよいよ工事に取りかかることになった。
当時、熔鉱炉建設のための立地条件として考慮しなければならない点は、
①原料資源である鉄鉱石又は砂鉄が豊富に、且つ容易に入手できること。
②精錬に要する木炭を大量に入手することが容易であること。
③高炉への送風に水車を用いるので、動力源及び砂鉄選鉱のための水流が近くにあること。
④鉄精錬に必要な熔剤としての石灰石の入手が容易であること。
⑤炉材としての耐火煉瓦の製造に必要な良質粘土が近くに産出すること。
⑥比較的交通に便なること。
等であるが、蝦夷地南部の砂鉄に付いては、古くから「ハコダテ近郷トイ辺竝蝦夷地ユウフツ等砂鉄御座候場所(1)」として知られていたから、熔鉱炉の建設地を決める際にも当然両者が考えられたに違いない。併し、①~③の条件で両者に差がないとしても、④~⑥までの条件に付いては「トイ辺」が絶対優れており、その付近の地形の中でも最も有利な地点として、古武井が選ばれたものと思う。
以上の立地条件に照らして古武井を考えてみると、
①付近の海岸一帯が厚い砂鉄の層で覆われていて、原料資源の入手に事欠かない地点である。
②背後に豊富な森林をひかえているので、燃料としての木炭の供給が容易である。
③建設地点は武者(むさ)川に近く、起風水車の動力源として、また、砂鉄選鉱のための水力の利用が可能である。
④近くに石灰石を産出するので、鉄精錬に必要な熔材を遠隔地から輸送する必要がない。
⑤炉材としての耐火煉瓦に必要な良質粘土が付近に得られた。
⑥更に有利な条件として、奉行の所在地である箱館に近く、器材の運搬・工事の監督、奉行との連絡等に便利であったことである。
以上の理由から、古武井は立地条件上充分満足し得る立地条件であったことが知れる。
(2)熔鉱炉の着工とその後の経過
安政3年7月、熔鉱炉取建についての上申書が提出され、同年(安政3年)8月27日に許可になったので、箱館奉行は直ちに場所を古武井武者台に定め、建設工事に取りかかった。このことは、大島高任が釜石大橋に建設した第1高炉の着工、安政4年3月(2)であったのに比べ、7か月も早く、すなわち、武田斐三郎こそ洋式熔鉱炉技術をわが国に導入した人であることを物語るものである。
以下記録類に基づいて建設の経過を辿って見よう。
安政4年3月21日、武者台の熔鉱炉建設場所では、小屋を建て、5間四方を整地して地杭を打ったままになっており、冬期間工事を中止していたが、最近再び取り掛かった様子で、土台石も約250余石も準備されてあった。また、近くのムサ川からの水で水車を回す為に、長さ10町程(資料4)の400間(資料5)掘割を造るべく、地杭が打たれたままになっており、工事にはまだかかっていない状態であった。この水車や諸道具は既に出来上がっていたが、小屋の中に積み入れたままになっていた。この地点から4,5町離れたサツカイ川沿いの山の手に幕府が造った洋式(資料4)の煉瓦製造所が取り立てられ、4つの竈をもって(資料6)熔鉱炉に使用する煉瓦が造られていた。この煉瓦は「其製堅緻」なものであって(資料4)この原料である粘土はここから15,6町山に入った冷水川から採ったもので、土質も大変良いように見受けられた。
この冷水川沿いに20町程山に入ったところにコウキヤウヘン(3)(鎔鉱略形・或いは仮リノホウギヨヘン(資料5))という仮の熔鉱炉があり、箱館弁天町(4)(大町)の松右衛門が経営するもので、2間四方高さ2丈程の大きさの炉で「火勢の模様強烈盛ニ相見、実ニ破裂等之儀も有之間敷とも難申」と見受けられた。(以上資料2)
この仮の熔鉱炉は、玉蟲の記す如く(資料5)「仮リノホウギヨヘン是又斐三郎取リ立テト見ヘタリ」とあるように松右衛門が経営する炉ではあるが、武田の設計する洋式のもので、恐らく古武井熔鉱炉に先立ち、試験的目的を兼ねて松右衛門に営ませたのであろう。それ故当時奉行の厚い保護下にあったもののように思われる。
この仮熔鉱炉は、安政3年2月の「蝦夷地銭通用并銑鉄於箱館地鋳立方之義奉伺候書付(6)」に「当節銑鉄砂等願人等有之候へ共いまだ吹試中に御座候」とあり、又「公務日記(7)」の安政4年3月21日の条に「松右衛門代徳兵衛小屋ニ居冷水沢という、昨年竈出来」とあるように、安政3年既に洋式による熔鉱炉が出来上がっていたことがわかる。しかも、先に引用したように、現に操業中の模様を表現した記録もあり、更に同じ公務日記(8)」の安政4年12月14日の条2は「大町松右衛門吹銕買上且三百両合并米百表前借願出ス、御買上は承置相借之儀ハ不相成旨評議済」という記載もあり、鉄の買上げを願い出ていることは、この仮熔鉱炉による砂鉄の精錬がなされたと見て間違いなく、事実この炉跡から採集した鉱滓の分析値は、粗悪ながら鉄精錬がなされたことを証明しており(表2仮熔鉱炉跡鉄滓分析値)仮熔鉱炉は一応成功を収めたものと解される。このことから推して、最初に計画した反射炉の建設を、途中から熔鉱炉に切り替えたことも、この当時既にこの仮熔鉱炉に成功の目途が立った上でのことではなかったろうか。又奉行に対し、金子300両并に米100表の借入を願い出ていることは、普通の事業経営では考えられることではなく、当然箱館奉行の肝入りによる試験操業と言う事が考えられ、この事業が奉行の保護下に置かれていたことを物語るのものであろう。
その後半年を経過した10月には、高さ5尺、5間四方の土台石垣が出来上がり、石垣の上には枠を取り立て、煉瓦を積み立てる段階まで工事が進み、水路も堀割してあったが、水車等の道具付属品はまだ小屋の中に積み入れられていた。又煉瓦製造所では、4つの煉瓦竈で煉瓦を製造しており、熔鉱炉に必要な煉瓦1万5千枚の中、1万1千枚余りが出来上がり、その仕上がりも非常に手極よく出来ていたようである。(資料6)
しかし、この月の12日には冬分に入るので、今年の工事を打ち切ることになり(9)、春まで休業の状態となった。そして翌5年(1858)3月には再び工事が再開された(10)が、そのご完成までの間、これを物語る記録は残されていない。田だ、目賀田守蔭が安政5年1月(11)に描いたと思われる「延舒歴検真図」によると(延舒歴検真図参照)熔鉱炉建設地点の地形が鳥瞰出来るばかりでなく、熔鉱炉の外形、堀割、水車等の模様なども知ることができる。
武田斐三郎の年譜を見ると、安政5年12月21日「熔鉱炉御普請御用ノ儀ハ初メテ之事、諸事見合モ無之処格別骨折ニ付金七百匹被下(12)」、安政6年12月21日「熔鉱炉御普請御用相勤候ニ付為御手当銀七枚(13)」と2度の賜賞がある。恐らくこの間に熔鉱炉が完成したと思われる。その後、高さ30フィートほどに築き上げられた熔鉱炉による砂鉄精錬ははかばかしくなく、いろいろと研究に苦心が重ねられたことは想像に難くない。当時にあっては、熔鉱炉によって砂鉄を精錬することは、技術的に非常に困難なことであり、まして初めての事業であれば当然のことであろう。古武井熔鉱炉と略時を同じくして釜石の大橋では、大島高任の築いた熔鉱炉により、安政4年12月1日最初の出銑に成功し、ついで10日には本格的企業としての出銑に成功している(14)。大島にとっても初めて手がけた事業であったが、大島は先に水戸反射炉の建設に成功を収めた経験者でもあり、且つ、原料として鉄鉱石を用いたことは、砂鉄を用いた古武井に比べ、結果に大きな差を生ずることになったが、資源に恵まれた地の利に大きな原因が在ったからであろう。
箱館奉行は古武井熔鉱炉の結果が余り思わしくなかったことから、萬延元年(1860)2月、南部藩の箱館留守居役に嘱して、偶々箱館丸に乗って宮古に停泊中の武田斐三郎外1名に、釜石の熔鉱炉の精錬作業を一覧させ、職人10名程をその場で雇い入れることを本藩に申し送らせたが、南部藩では職人不足の理由で之を謝絶した。(資料7)その後武田斐三郎は熔鉱炉を成功させるべく、再々にわたり手を加え、萬延元年(1860)10月には水車場の樋(15)を、翌文久元年(1861)1月には、長屋・板倉・水車場等の見積(16)もりをさせ、手直しを加えたものと思われる(17)。しかし、この手直しもあまり効を奏することなく、程なく熔鉱炉の事業を一時断念したもののようで、文久2年(1862)5月10日には、2、300(封度?)の熔銑の後失敗という一応の結論を出している。(資料8)その後、熔鉱炉は文久3年(1863)6月14日の暴風雨のため「尽ク大破及水車并居小屋其外等モ一時ニ圧崩サレ」たため、新たに建設するにも莫大な費用を要するばかりでなく、且つ十分成功の見込みもないと判断したため、この画期的大事業も終焉を告げることとなった。(資料9)
(3)熔鉱炉事業の失敗
前節に述べた如く、武田斐三郎によって建設された古武井熔鉱炉は、並々ならぬ苦心、研究にも拘らず、惜しくも失敗に終わってしまったが、ここにその原因を探ってみよう。
武田や大島によって洋式熔鉱炉による鉄精錬が試みられるまで、わが国は古来から砂鉄を原料としたタタラ吹という原始的な生産方法によって鉄精錬を行って来た。武田はこの砂鉄を近代的洋式熔鉱炉によって製銑しようとした最初の日本人であるが、もともと砂鉄をそのまま熔鉱炉に使用した際には、必ず次ぎのような障害が起きるものである(18)。
①瓦斯の通路を塞ぎ、通風が充分出来なくなる。
②熔鉱炉に用いる熔剤及び還元剤の配合を、普通鉄鉱石を精錬する場合と同様砂鉄精錬に応用するならば、必ず熔融困難な凝固物を生じ、遠からず操業不能になるのが普通である。これは砂鉄の中に含まれているチタニウムが炉内で化学変化を起こし、熔融困難な化合物を生ずるからである。
武田がただ1冊の蘭書をもとに建設した熔鉱炉に、砂鉄を使用したことは不運であったといわねばならない。この失敗の原因について、R・パンペリーは「得られたブラスト(衡風)は必要としたところのほんの一部に過ぎず、更に、建設に使用された煉瓦は十分な耐火性がなかった」(資料7)とし、又彼と一緒に来日したW・P・ブレークは「欧法ヲ以テ爰ニ火炉ヲ設立セリ、然レトモ其ノ火炉ハ斯ル細沙ヨリハ粗粒ノ鉱ヲ鎔解スルニ用ユルニ一層ヨク適当シタルモノナリ(19)」として、両人とも極めて適切な判断を下している。
ここで冷水川沿いに造られた、仮熔鉱炉についての「火勢の模様強烈盛ニ相見、実ニ破烈等之義も有之間敷とも難申見請候」(資料2)という記録を想起したい。同じ砂鉄を使用しながらも、ここでは粗悪ながら精錬がなされ、しかも風力の不足など全く感じられないほどの火勢であったのは古武井熔鉱炉より小規模の、恐らく縮尺による設計だったため、風力に不足を生じなかったのであろう。しかし、これとて砂鉄精錬の決定的欠陥であるチタン化合物の鉱滓によって、遠からず作業不能におちいったことは容易に想像できるであろう。
資料1 蘭名ホーゲオーヘン取建候儀申上候書付
[(朱書)辰七月廿二日小印済]
辰八月十一日伊勢守殿江原弥十郎を以上ル、同月廿七日御同人立田録助を以御下致承付、同日御同人同人を以返上蘭名ホーゲオーヘン取建候儀申上候書付
書面申上候趣御聞置被成候旨被仰渡奉承知候 竹内下野守
堀 織部正
村垣与三郎
先般反射炉取建候趣申上置、追追焼石等出来仕、近々落成可仕、然ル処鉱石鉄砂共、西洋ニて相用候高竈ニ而吹立候煉鉄ニ無之候而は砲力も難堪よしニ有之候間、最前伺済之通、右竈取建不申候而は、大砲は勿論諸機製造不便利ニ候間、兼而蘭学者武田斐三郎に申付、暎仏人にも鞠聞為致取調候処、蘭名ホーゲオーヘン熔鉱炉と訳し、仕様雛形差出、砂鉄吹方等迄巨細相分候間、早々取建候様、支配向懸り申渡、出役為致候、右御入用は、蝦夷地御入用金より繰替置、追而取上候銑鉄御払代を以仕払候様可仕、尤職人御入用積り方不案内之上、殊ニ是迄見聞も不仕品之儀、何分凡積も出来兼、強而申談得は、不案内之所より却而多分之金高ニも罷成候間、差向支配向并斐三郎等に篤と申付、口々廉分為取調、追々見通相立、職人共呑込候上ニ而、惣躰積り方為致候様可仕奉存候、右之趣立合候う勘定方にも申談候処、存寄無之旨申聞候、依之此段申上置候 以上
辰七月
覚
書面申立之趣承置候事
資料2 箱館領六ケ場所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見聞罷越候趣 申上候書付(20)
[安政四年三月][前略]廿一日根田内出立仕凡弐拾町計ニして原野ニ出、此辺ムサノ台と唱、ムサ川を渡、此川添弐三町を進ミ鎔鉱炉取立場所有之、小屋取建五間四方に根切いたし、地形中地坑打掛候侭ニ而寒気の中手引罷在候由猶批程より取掛候趣、地形石も凡弐百五十余石寄有之、右ムサ川を堀割水車を以堰上ケ鉄砂製煉之見込之由、堀割場所之儀は地坑打立有之候得共、いまた取掛り不申、水車等附属之品々も出来取解小屋内に積入有之候爰より四五町隔サツカイ川ニ添山手之方入、練化学釜建有之、則煉化石を製瓦焼釜之由、薪少々入火勢尖管弁利之器ニ相見へ申候、この海岸を弐拾町余之間鉄砂夥敷、又煉瓦石を相製之赤土ハ此場所より拾五六丁山入、ヒヤミツ川と申所より運候由、土性よろしく相見へ申候、右ヒヤミツ川添ニ弐拾町程山入ニ、コウキヤウヘント号、則鎔鉱略形ニ有之、箱館弁天町松右衛門と申者願請、自分入用を以取建、右而鉄砂製法仕候由右場所見分仕候処、弐間四方、高弐丈余程ニ築立、火勢の模様強烈盛ニ相見、実に破裂等之義も有之間敷とも難申請候[以下略]
資料3 手島季隆著 「探箱録(21)」
[安政四年四月]十九日 曖日逮、起訪武田斐三郎[中略]斐曰、蝦夷地為幕邑、新政治策、不遑枚挙、先謂其大者、曰墾田、曰種稼、曰築砲埠、曰営砦於亀田、曰製軍艦、曰鋳箱館通宝、曰穿金銀坑、曰造鎔鉄于鉄砂浜三里浜至、尋将製返(ママ)射竈 [以下略]
[同年五月]五日、端午、寒如冬、襲衣而囲炉、玉蟲報牘、今日四鼓堀使君為面唔、乃謁使君、々々曰、聞二士前日赴前蝦、吾亦巡前蝦、登江散(恵山)見硫煙、検金銀坑、切未半也、鉄沙浜溶砿炉己成別造反射竈、以熟鉄製器械 [以下略]
資料4 菅野 潔 「北遊乗(22)」
[安政四年四月廿七日]
冷水沢(ヒヤミズノサワ)
距尻岸内半里余、山巒如襟、愈入愈搾、其襟口稍豁処、置窰場、官司督之、窰瓦、即煉瓦石、可以為鉱炉材、倣洋製也、其製堅緻、能耐烈焔、置鎔鉱一炉、自尻岸内至根田内、二里有奇、海崖出銕沙、品最良、収採得便、此地所以置炉也
武者台(ムシャノダイ)
距古武井半里、有一湍、曰倒川(サカサカワ)、此水蛇行、至古武井入海、湍左右皆豁、山勢箕鋸状、曰武沢、其最坦曠如箕舌処、即武者台、鎮官鎔鉱炉、方築未成、引湍水十町許可施水飜車、以鼓扇炉火
資料5 玉蟲 義著 「入北記(23)」
[安政四年四月廿七日]
[前略]同村[尻岸内村]冷水沢武田斐三郎(西洋家ナリ)取リ立テノ瓦焼場アリ、是ハ
「ホウギヨヘン」「ハンシヤロ」等ヘ用ユル由、瓦工数十人其職ニ付キ居ル、始メ是ヲ見テ大ニ驚キ、カカル働キニテ暫時ノ間ニ成功アラント思イヒニ、去年ヨリ取リ始メ只今迄何ユヘ遅滞ナルヤ、然ラバ今日鎮台見分ケニヨリテ斐三郎取繕ヒカク働カセタルナラン、姦吏ノ所為都テ如此(24)、歎息ノ至リナリ、夫ヨリ十丁斗行キテ仮ノホウギヨヘンアリ、是斐三郎取立テト見ヘタリ、御旗元在住高橋三平御次男靭負ト申サル方其傍ニ一小芦ヲ構ヘ世話致サレケル、御用人ハ銅鉄吹方ヲ心得ラレタル由、故ニ此命ヲ蒙ラレタル事ト見ヘタリ、[中略]夫ヨリ一里余ニシテムサハト言ウ所ニ至ル、此所斐三郎取リ立テノホウギヨヘン本場所ナリ、未ダ半分モ出来ズシテ漸ク材ヲ打チ込ミ居ル、今日鎮台御見分ユヘカ材ヲ打チ込ム声四方ニ達シナニカ大普請ヲイタスヨウ見ヘタリ、平日ハ定メテカクアルマジト思ヒタリ、其外水道掘割リ等遂一ニ見ルニ四百間ノ長サ中々容易ノ事ニハアルマジ、斐三郎梯三郎鎮台ニ対シ申上ルニハ当秋マデニハキット成就イタスヘシト、是又覚束ナキコトナリ、去年春ヨリハンシャロヘ取リカカリ、半バニシテホウキヨヘンヘ移ルトモ少シハ成功アル筈ナルニ、只今頃漸ク材ヲ打込ミ居ル次第、上ヲ欺ク所為実ニ悪ムベシ、此処モ広キ原ニテ開墾ナルベキ場所ナリ、僕是ニ於イテ非分ノ考ヲナスニ、カカル無用ノ責ヲカクルヨリ内地ヨリ百姓ヲ招ギ夫ニ手当テ等ヲ遣ワシ其地ヲ開墾セバ自然人口モ多クナルベシ、然ル後カカルワザニカカリナバ定メテ易カルベキニ(25)、初メヨリ利分ノミニ拘リナバ蝦夷地ノ開クコトニハナルマジ、人ノ見ル所如何ハ知ラネドモ僕ノ見ル所断然如此ナリ、夫ヨリ半里斗ニテ村アリ古武井ト云ウ。[中略]海岸一面ノ鉄沙幾年用ユルトモ容易ニ尽マシ、[中略]如此キ天府ノ地何ユ空シク捨置キシヤ、実ニ惜ムベシ、近歳廟堂ニテ色々御世話ホウギヨヘン等ヲ作リ早速御吹方ニナル由、幸イト云ウベシ、併シ前文ニ述ブル通リ姦吏ノ所為却テ費ノミカカルベシ慨嘆ノ至リナリ。[下略]
資料6 箱館領六ケ場所之内金銀山其外産物出場所見分仕候趣申上候書付(26)
[安政四年十月][前略]根田内と申処に着小休、同所出立、古武井領之内武者台と唱候平地之場所に、去辰八月中より御取掛相成候熔鉱炉、右懸り同心壱人詰合居、夫々案内に而見分仕候処先頃仕様評議之通り、高五尺五間四方ニ土台石垣、此程迄ニ皆出来相成、右石垣上に枠取建、練化石をも追々組方仕候手続ニ而、且水路等も堀割候趣、水車等道具附属之品、小屋内ニ取解、積入有之、同所より壱里程隔尻岸内之内、サツカイ川之上山手ニ入右練化石製造(ママ)小屋有之、職人とも多人数練化石相製、右焼立候釜四ケ所取建有之、数壱万五千枚之内此程迄ニ出来之員壱万千枚余ニ相成候趣、土性も宜相見へ、至極手極ニ出来仕候義ニ御座候、[以下略]
資料7 覚(安間純之進より南部藩箱館留守居へ(27))
御領内に近年熔鉱炉(西洋法高炉蘭名ホーゲオーヘン)出来、砂鉄、岩鉄等、専御立に相成候趣相聞候。当地近在にも右炉御取る建相な候処、職人共払底之土地ニ付、御領分より十人程も雇入度、竝吹立之様子をも為二心得一一覧為レ致度間、諸術調所教授武田斐三郎竝御雇山崎雄造指遣、職人共其場に於て、其筋之ものへ懸合の上、為二雇入一候様いたし度候。指支之筋も無之候はば、斐三郎は当節箱館丸御船に乗組、宮古浜に碇泊いたし居候間、同所より為二相廻一候積、雄造は早々当地より可二指遣一間、其筋に申通じ被置候いたし度事
申二月七日[萬年元年(一八六〇)]
御 回 答
領内に近年熔鉱炉出来相成候趣、被レ成二御承知一、御当地近在にも右炉御取建相成候処、職人共払底之土地ニ付、領分より拾人程も被レ成二御雇入一度、其向役々可レ被二指遣一段、先般御達ニ付、早速国許に申遣置候。然処右炉一件、両三年巳来之取建故、其所之百姓共為二相働二、別段職人と申候ても無レ之、甚払底に御座候得ば、御雇之儀、迚も届兼可申旨、其筋之者申出に付、右之趣申上候様、国許より此度申越候。此段申上候、以 上。
閏三月三日
南部美濃守 内 福岡三治
資料8 パンペリー著 「支那・蒙古・日本に於ける地質調査(28)」
[文久二年五月十日] 古武井では外国型の熔鉱炉で海岸から採集した磁砂鉄を熔解する試みがなされていたのだった。我ら一行の一員である日本士官武田氏は彼の国に於いて軍事工学及び航海術の知識を増進させるのに大いに貢献した人であるが、彼は帝国政府から外国方式によって鉄鉱を熔解するための大熔鉱炉を建設すべく命を受けていた。そのようなものを日本人は一度も見たことがなかったが、彼の化学に関する和蘭人の著作で見つけた設計図と設計明細書だけで、武田氏は立派な水車で動かされるシリンダーブラスト(円筒衝風器)のある約30尺(フィート)の高さの熔鉱炉を精巧な模型に従って建設した。不幸にも彼の持っていた唯1冊の書持には、その問題についての全ゆる細部が欠けていたため得られた衝風(ブラスト)は必要としたところのほんの一部に過ぎず、更に建設に使用された煉瓦は充分な耐火性がなかった。かくてその仕事は2,300〔封度?〕の重さの鉄熔解した後に失敗に帰した。この事件は、しかしながら、日本の企業の一つの例証である。(筆者試訳)
資料9 元治二丑年(一八六四) 箱館御用留(29)
[前略] 箱館近在六ケ場所古武井熔鉱炉之儀ハ、安政三辰年先役共より申上、蝦夷地全州鉱石銕砂共多分有之、弁天岬御台場ヲ始諸台場、亀田五稜郭へ据付候大砲於当地鋳造仕度候処、西洋ニテ相用候高竈ニテ吹立(ママ)候錬々ニ無之候テハ、大砲ハ勿論諸器械製造等モ十分不相届候ニ付、諸術調所教授武田斐三郎へ申付、暎仏人等ヘモ質問為取調、築立方取掛、右御入用ハ蝦夷地御入金ノ内ヨリ繰替置、追而吹立候銃(銑?)御払代ヲ以仕埋戻シ入候様申上、追々出来寄、安政六未年出来栄之儀申上、凡御入用積モ申上置候節、尚又右御普請外周囲石垣ニ可仕候処、辺涯ニテ石工等も無之、当分吹立差支モ無之候間、先仮ニ木材ニテ仕立候得共、年月相立候ニ随ヒ朽腐破損等モ仕候儀ニテ、永久保方難相成候ニ付、其頃弁天岬御台場、亀田御役所、五稜郭其外御普請御用ニ付、小普請方請負人中川伝蔵代伊兵衛、備前石工喜三郎等功者ノ職分モ追々相越ニ付、追テ右御用済候ハ、周囲石垣築立方為致可申哉之旨申上候処、御覚書ヲ以追テ朽腐致候ハ、其節伺上取計候様相心得、此節石垣築立方之儀ハ、見合候様可致旨被仰渡候儀之処、右築立最初ヨリ西洋原書上ニ依リ、外国人ヘモ質問仕候迄ノ儀ニテ、職分ノモノ素ヨリ未聞不見之仕業ニテ、何分微細之取調ハ不相届候故歟、鎔体方十分に難届、度々手直シイタシ歳月ヲ追テ経験仕非(ママ)トモ御用立候様、種々骨折再々手入モ致居候、得共難御用立当惑罷在候処、去ル亥六月十四日暴風雨ノ節、尽ク大破及水車并居小屋其外等モ一時ニ圧崩サレ候ニ付、早速見分ノモノ差遣候処、格外ノ大破相成、此上新規御築相成候トモ莫太ノ御入用相減候ノミナラス、其上十分御成功之見据モ無之、既ニ箱館近在赤川村ヘ去戌年中商人共自分入用ヲ以築立候熔炉モ出来居候ヘトモ、是又同様十分吹立方行届不申程の儀ニテ、追テ研究モ行届、御有余金モ出来候上ハ格別、当節の処ニテハ相癈シ候外致方無之候ニ付、木材其外御仏相成候丈ケハ御払取計繰替金之内へ戻し入、其余ハ仕上勘定ノ上是亦蝦夷地御入金之内ヘ組込仕払申上候様可仕候右ハ立会御勘定方ヘモ申談候処、無余儀次第ニテ聊存寄無之旨申聞候間、此段申上候、 以上
丑三月 小出大和守
註
(1)休明光記録附録巻6(前掲書第5巻778頁)
(2)森・板橋著「近代鉄産業の成立」年表
(3)語義は不明であるが、玉蟲が記しているようにホーゲオーヘンがなまって伝えられたのではなかろうか。HoogbovenのHとKを間違えるとコウキャウヘンに通じる。
・ホーゲオーヘン=ホウギョヘン=コウキャウヘン
(4)弁天町と大町と二様に使用されているが、大町が正しいと思われる。
(阿部『尻岸内熔鉱炉について』)
(5)資料2に見られるように、この記録は安政4年3月21日のものであり、村垣公務日記の同日の条に「松右衛門引請之鉄砂吹立所仮之容広(ママ)炉一見当時休居」とあって相矛盾する記録である。この日付の点に着いては解しかねるが、引用した記録は非常に具体的な表現であり、偽りとも思われない。日付の点をのぞいてこの記録は信頼できると思われる。
(6)蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類の内(新選北海道史第5巻1519頁)
(7・8・9)前掲幕末外国関係文書附録之4419・897・818頁)
(10)前掲附録之5138頁
(11)目賀田が古武井に立ち寄ったのは1月であるが、工事の進捗状況と比較して図の出来が進み過ぎている。これは1月の写生をもとに、奉行若しくは武田の元にあったと思われる完成予定図等によって加筆したのではなかろうか。
(12・13)北海道庁蔵「武田氏蔵書」所収履歴書
(14)森・板橋前掲書 79頁
(15・16)市立函館図書館蔵「魯西亜土石役営方並熔鉱炉土木役営方其他御入用御仕様書控」(長坂文書之内)
(17)この手直しは武田が釜石熔鉱炉を見学してきて後の事であり、恐らく釜石に用いた上掛け水車を古武井に用いて風力を増そうとしたか、又は水車に新しい工夫を加えて風力を増そうとしての手直しではなかろうか。
(18)福田連稿「含チタン可熔性鉱滓の研究特に灰長石透輝石硝?石三成分系について」346~7頁(岩石鉱物鉱床学第3巻6号、第4巻1・2号所収入)
(19)開拓使顧問ホラシケプロン報文の内、博士「ウイリアム・ピ・ブレーキ」報文摘要
(20・26)市立函館図書館蔵「箱館領六ケ場所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見分罷越候申上候書付」所収。この書は勘定方斎藤六蔵がかいたものである。(阿部『尻岸内熔鉱炉について』)
(21)市立函館図書館蔵「溶砿炉巳成別造反射炉」とあるのは白山氏のいわれるように政治的意味を含んだ表現で、事実に相違している。
(22)市立函館図書館蔵
(23)北海道郷土資料研究会刊「北海道郷土資料研究第13」237~238頁
(24)熔鉱炉の工事が遅延した事で、武田がこのように評される事は酷だと思われる。武田は熔鉱炉ばかりでなく、弁天台場、五稜郭等の建設も命じられており、しかも古武井では冬期間は工事も中止しなければならない状況であり、且つ、作業に当たる労務者の不足も遅延の原因となったのでなかろうか。
(25)玉蟲がこのようなことを言うのは蝦夷地を巡廻し、又現地を見て労働者の不足と言うよりむしろ絶対的人口の不足を痛感したからであろう。
(27)新選北海道史第2巻780~781頁
(28)市立函館図書館蔵 Pumpelly, Raphael : - Geologicalresearches in CHINA Mongolia and Japan,during the years 1862.to 1865.p.86. 引用に当たっては他の記録との関係を考え太陰暦に換算した。
(29)内閣文庫蔵、外務省記25坤所収
3 熔鉱炉の建設と技術
前章にも述べたように、わが国では未だ一度も見たことのない熔鉱炉の知識を、武田は一体何によって得たのであろう。武田の著書として記されている。「鉄炉略説(1)」を見ることの出来ない現在では、それが何であったのかを決定付けることは困難である。併し推量が許されるならば、それは、ユ・ヒューゲニン著「リュージェ国立鋳砲所における鋳造法」(U.Huguenin:-Het Gietwezen in s' Rijks Ijzer-GESCHUTGIETERIJ, te luik.1826)であろう。その推察の根拠は次の諸点からである。
①佐賀や水戸その他における反射炉の築造には、本書がテキストとして使用された(2)。
②反射炉、熔鉱炉の築造は、元来鉄製の大砲の鋳造を主目的としたから、反射炉、熔鉱炉に関する専門書の輸入はなく、大砲の鋳造を目的としたこの書物が、当時の蘭学者の間で流行的存在であった。本書の序文によれば、和蘭における近代的製鉄技術を、詳述した最初の著述である。
③そのため本書の飜訳が、嘉永年間から安政年間にかけて、数種の飜訳が各地で行われた(3)。
④伊東玄朴の象仙門人録(4)に、本書の訳者である後藤又次郎、池田多仲、杉谷雍助、大島惣左衛門(高任(たかとう))と並んで武田斐三郎の名があるところから、武田は本書の存在を早くから知っていたと解される。
⑤武田が佐賀藩の反射炉を調査・見学した際に、そのテキストを確認していると思われる。
⑥大島の築造した釜石の熔鉱炉と、古武井のそれとは形状が類似している。(文末写真・図参照)
今この書物の飜訳(5)から本書の構成を見ると、全386頁の中、僅かに次の諸章が熔鉱炉に関係する部分である。
誘導編(鉄熕の沿革並びに昔人鉄製可納砲持久の力徳に明ならざる原由)21頁
・鉄鉱を録す 15頁
*鉱鉄を精製する竈を録す 5頁
*高竈を録す 3頁
*鉱鉄鎔解の事件を録す 7頁
・火力に耐ゆるべき石の性を録す 7頁
・石炭の性を録す 4頁
・反射竈にて鉄を溶解する事件を録す 9頁
*鎔鉱炉 図1解説 5頁
・鎔金炉2個合併 図1解説 3頁
計 図2枚 79頁
(*は直接鎔鉱炉に関係ある部分)
この中直接鎔鉱炉に関した部分は図1枚と20頁の記事である。耐火煉瓦の記載は7頁である。勿論、英・仏人にも質問したり、又大島が参考にした「イヘイ」や(6)「コンストウオール(7)」も参考にしたであろう。それにしても僅かこれだけの記事から得た知識をもとに、多額の費用を要する熔鉱炉の建設に取り掛かった大島・武田の意欲と研究心に対しては、大胆と評すれば評されようが、深く敬意を表したい。
次に筆者が昭和33年(1958)、現地より採集した煉瓦並びに鉱滓を中心に、その技術について考察を加えてみよう(8)。
(1)耐火煉瓦
古武井熔鉱炉跡、煉瓦製造所跡及び仮熔鉱炉跡の3地点より、各10数個採集した煉瓦の中から、外面観察で質的に異なると思われるもの、熔鉱炉跡から3片(内1片は地表採集によるもので風化したもの)、煉瓦製造所跡から2片(内1片は比較的軽く、粗雑な感じのもの)、仮熔鉱炉跡から1片の計6片について、分析下結果は別表(1)の通りである。
尚、試験煉瓦の数が少ないので、この数値を持って全体を推し量る事は危険ではあるが、おおよその見当はつけられると思う。又比較の便を考え、当時の各地に造られた反射炉、及び釜石大橋の熔鉱炉煉瓦の分析値をも併記した。試験煉瓦の中、Bは表面採集の煉瓦に付した記号である。
外面観察では、B系列の2片を除いては、非常に緻密である。試験煉瓦を考察するための基準を嘉永3年(1850)~安政5年(1858)の反射炉の煉瓦(無水硅酸SiO268~75%、アルミナAl20319~27%、気孔率30~45%、耐火度SK26~281580~1610℃)において考察すると(9)、
①試験結果の通り小差は認められるが、根本的に品質の差異は認められない。又破面観察から、A系列の煉瓦に大差はないが、煉瓦製造所跡のA煉瓦(以下煉A等の記号を用いる)は、他のA系列の2者より微粉多く、粒度が異なる。
総合して、熔Aと煉Aとは同種で、煉Aの方が使用度高く、変色したものである。富士鉄室蘭研究所では比較的新しい(明治19年(1886)岡山地区で工場制手工業的に生産された耐火煉瓦より古いものではない)ものと推定している。
②JIS規格R2304(1955)粘土質耐火煉瓦3種では、耐火度31以上、気孔率26以下、嵩比重1.90ed以上となっており、之に比べると試験煉瓦は現在品としては普通以下だが、特に悪くなく、熔A・煉Aは現在市販品の2級品に、耐火度を除いて近い。
③熔Bは品質悪く、粒度混煉等についても技術的に幼稚で、佐賀藩のものよりやや劣り、相当古い物と推定される。仮Bは使用による焼け締まりがあるが、古い物と思われる。併し熔Bより技術的に進んでおり、鉄分の関係でやや赤みを帯びている。
④原料については無水硅酸(SiO2)の量から推して、蝋石を使用したのではなかろうか、熔Bは蝋石の代わりに砂を混ぜたものではないかと思われる。
以上は富士鉄室蘭研究所の分析並びに観察結果であるが、試験煉瓦の採集地点では、他の産業のために煉瓦が使用された史実がないところから、この煉瓦は、耐火性を除いて非常にすぐれた煉瓦であったと推察される。又A系列のものが大体同種であることから、煉瓦製造所で造られた煉瓦が、仮熔鉱炉・熔鉱炉の炉材として供給されたことが明らかである。仮熔鉱炉の煉瓦が熔鉱炉のそれよりやや劣るのは、古武井熔鉱炉に着手する以前に、試験的に仮熔鉱炉に使用し、その結果幾分改良して古武井熔鉱炉に使用したのではなかろうか。
この耐火煉瓦の製法についても、又、ヒュゲーニンの著に拠ったと思われる。「火力に耐ゆべき石の性を録す(10)」には耐火煉瓦の製法について詳細に解かれており、「その記述すると頃は殆ど現在でも適用し得るし、又、現今の方法と根本に於いては大差がなく、今日のシャモット煉瓦の製造と何ら異なるところがない(11)」ものであったことから、前記のような観察結果が出たのであろう。
何れにしろ、消耗率は大きいが、気孔率からみて、耐火度が低い為に之が失敗の原因とは考えられない。
(2)鉱滓
次に仮熔鉱炉跡より採集した鉱滓3片、及び古武井熔鉱炉跡より採集した鉱滓状のもの(鉱滓は発見出来なかった)1片の分析値を見れば、別表(2・3)の通りである。
仮熔鉱炉跡よりの鉱滓分析の結果、無水硅酸(SiO2)と生石灰(CaO)とは、スラッグとしては考えられない比率である。酸性操業でも、高炉ならば塩基度0.6が大体最低線で、無水硅酸(SiO2)30%なら生石灰(CaO)18%あるべき筈である。又、鉄(Fe)も多過ぎるので、鉄損が非常に大きい。しかし、歩留まりが悪く余り良質でないが立派に熔銑が出たと考えられる。熔鉱炉跡からの鉱滓状物質の分析値から推して無水硅酸(SiO2)及びアルミナ(Al2O3)が多く、バナジウム(V)も殆どないので、勿論砂鉄銑ではなく、又、そのスラッグでもないようである。スラッグならばバナジウム(V)やチタン(Ti)が入っていていい筈である。あるいは砂の熔けたものかも知れない。(以上富士鉄室蘭研究所所見)
この観察結果から、仮熔鉱炉では熔銑されたことが分かる。この事実、仮熔鉱炉の熔銑小祖、わが国における最初の洋式高炉技術による熔銑であり、且つ又洋式高炉による砂鉄精錬の嚆矢ということが出来る。
註
(1)北海道庁蔵「武田氏蔵書」所収の蒲生重章の武田成章君伝に斐三郎の著書として記されている。恐らく熔鉱炉に関するものと思われる。
(2)三枝博音稿「西洋鉄熕鋳造編解説」(日本科学古典全集第9巻301頁所収)
(3)手塚謙蔵訳「鉄熕鋳造編」「同図編」「同図解編」伊東玄朴・後藤又次郎・池田才八杉谷雍助訳「鉄熕全書」「同図」「同図解」金森錦謙訳「鉄熕鋳鑑」「同図」「同図解編」の3種類の飜訳がなされている。(三枝稿前掲302~303頁)
(4)日本科学史学会編「日本科学技術史体系」第1巻、84頁
(5)日本科学古典全書第9巻、293~693頁所収の「西洋鉄熕鋳造編」外の飜訳を用いた。
(6)Ypey, Adoplhus : -Bladwijzer der voornaamste zaken:het systematisch
handboek der beschouwende en wekaadige scheikunde 1812.(イペイ著実 用選鉱学ハンドブック)かと思われる。
玉蟲義著「入北記」8の巻末に「アルコールヘルニス法」として「予之ヲ、イハイ(人名)分析暑中に得たり。故に訳して茲に附す。[中略安政三辰年三月廿二日於尻岸内武田斐識]とあり、熔鉱炉の建設にも之を利用したのではなかろうか。白山友正稿「尻岸内熔鉱炉余説」参照(道南の歴史23号所収)
(7)Weiland,P;-Kunstwoordenboek.1846.(ウェイランド著技術辞書)ではなかろうか。三枝・飯田著「日本近代製鉄技術発達史」20頁
(8)試験煉瓦及び鉄滓の分析並びに観察結果については富士鉄室蘭研究所北川研究員の所見に従った点が多い。
(9)耐火物工業第8集 1951
(10)ヒューゲニン著手塚謙蔵訳「西洋鉄熕鋳造編」巻7(日本科学古典全書第9巻、163頁)
(11)高良義郎「幕末諸藩に於て建設せる反射炉の炉材に就て」(日本耐火物協会編「耐火物年鑑」第4巻155頁)
むすび
以上古武井熔鉱炉について、建設の事情経過並びにその技術について述べたが、要約すると
1、古武井熔鉱炉の建設は、北辺の防備を目的としたため、最初から蝦夷地開拓政策の中に織り込まれていたもので、他の西欧近代技術の移植と同様、軍事技術として移植されたものであった。
2、この熔鉱炉は箱館奉行諸術調所教授武田斐三郎の設計、建設になるもので、附近の海岸に産する砂鉄を精錬するために設けられ、高さ役30尺、水車による送風装置を有するもので、安政3年8月着工、同5年乃至6年に完成したと推定される。併し砂鉄を熔鉱炉で精錬する事は当時の技術では困難な事であり、結局失敗に終わってしまった。
3、この建設のために用いられたテキストは蘭書でヒュゲーニン著「リェージュ国立鋳砲所における鋳造法」と推定される。武田は熔鉱炉のみならず、耐火煉瓦の製法についても本書に拠ったものと思われる。
4、煉瓦の試験結果から、煉瓦製造所で造られた耐火煉瓦は、仮熔鉱炉及び古武井熔鉱炉の炉材として供給され、しかも古武井熔鉱炉の煉瓦は仮熔鉱炉のそれにさらに研究工夫が加えられたと考えられる。
5、鉱滓の分析結果から、仮熔鉱炉では砂鉄からの熔銑がなされたと判断される。このことは我が国における、洋式熔鉱炉技術移植の最初であり、且つ洋式熔鉱炉による砂鉄精錬の嚆矢でもあった。
6、耐火煉瓦の技術については、耐火度を除き相当高度の技術を示しているが、当時造られた鹿児島、佐賀、韮山、水戸のに比較し技術的に劣っている。
古武井熔鉱炉は武田斐三郎の並々ならぬ努力にも拘らず失敗に終わった為、蝦夷地に芽生えた近代産業の萠芽も結局は、育たないまま了ってしまったことは誠に残念なことである。しかしながら武田斐三郎のこの事業及び諸術調所を中心とした数々の業績は、遅れた蝦夷地に外国技術という新風を送り込み、その後の北海道開拓に外国技術を導入する端緒を開いたといい得るであろう(1)。
(昭和34年6月初稿 昭和41年12月補訂)
註
(1)拙稿「北海道開拓と外国技術」41頁(北海道科学研究費自由課題による研究報告書第8集所収)
この研究の一部は昭和33年度北海道科学研究費によるものである。また、本論文の作成に当たっては金属材料研究所の渡辺亮治氏並びに富士鉄室蘭の北川研究員のご協力と高倉新一郎・阿部たつを・白山友正諸氏のご教示、及び資料については市立函館図書館田畑幸三郎・岡田弘子両氏並びに柳沢善吉氏にお世話になったことに対し深く感謝する次第である。
[図]
表1 幕末耐火煉瓦品質一覧表
表2 仮熔鉱炉跡 鉱滓分析値
表3 古武井熔鉱炉跡採集 鉱滓状物質の分析値
人文論究 第27号
目賀田守蔭著「延舒歴検真図」(市立函館博物館)
釜石鉄山大橋高炉の見取図
右上が安政4年(1857)、左下(2基)が万延2年(1861)作業開始(日本科学史学会編日本科学史大系第20巻24頁より転載)