大網の発達は、本州方面では鰤網が早くに改良されていたが、鮪網は荒海の大魚ということからか発達がおそかった。
天保一〇年(一八三九)、尾札部の頭取飯田屋三代目与五左衛門と、臼尻の小川屋幸吉が相謀って南部の人田鎖丹蔵を呼び招き、当時、陸中で成功した田代網という鮪の大網を丹蔵の指図でつくり、与五左衛門は黒鷲岬より沖出一七〇間(三〇九メートル)に設け、幸吉は弁天島より沖出一五〇間(二七二・七メートル)に設けたのを北海道建網大謀網の始めとされている。
この功績が認められて、明治一六年、東京上野で開催された第一回水産博覧会において、北海道漁業功労者として栖原小右衛門、山田文右衛門、高田屋嘉兵衛、村山伝兵衛らとともに、一二名の中に選ばれて追賞を授与された。
このときの開拓使へ上申した功績の内容をまとめた北海道漁業功労者事蹟が、市立函館図書館に所蔵されている。ほかに、ほとんど同一の内容とする水産功労人名事蹟があるが、人名事蹟は功労者事蹟の草稿となったものらしく、語句の語尾や接続詞らのちがいがあるだけで、内容は全く同一のものである。つぎにこのときの初代・三代・六代の飯田与五左衛門と小川幸吉の事蹟の全文を掲げる。
(1)飯田与五左衛門
明治一六年 北海道漁業功労者事蹟
故 飯田與五左衛門事蹟
函館縣渡島國茅部郡尾札部村平民
褒状 初代 故飯田與五左衛門
追賞金十圓 三代 故飯田與五左衛門
與五左衛門飯田屋ト称ス能登國珠洲郡某村ノ産ニシテ世々漁業ヲ以テ生計ヲ立ツ其後陸奥國津軽郡蟹田村ヘ移住 年代不詳 漁業ニ従事ス明暦元年 距今ニ百二十九年前 今ノ茅部郡砂原村ニ移住シ夥多ノ資金ヲ抛チ漁業ヲナス與五左衛門一日海岸ヲ経歴シ土人ノ漁事ヲ視ルニ尾札部近海ヤキノ澗ト唱ラル漁場アリ鰮魚群集蝦夷人競テ之ヲ漁ス恰モ児戯ノ如シ於是以為リ海産ノ冨饒斯ノ如シ他日ノ洪益期スヘキナリト遂ニ意ヲ決シ居ヲ尾札部ニ移シ現住蝦夷ヲ撫育シ直ニ會所ヲ設ク當此地ハ蝦夷人凡二百五六十人居住セシノミ内地ヨリ移ルモノ與五左衛門ヲ始メトス乃チ鰯引網ヲ下ス或ハ鱈ヲ釣リ昆布ヲ採取スル等土人ヲ使役シ海産ノ増殖ヲ圖ル然モ漁具疎悪加之土人漁事ニ拙ニシテ産出ノ増加ヲ見ル頗ル難シトス與五左衛門之ヲ憂へ享保十二年ニ及テ自ラ内地ニ航シ南部津軽地方ヨリ漁事ニ長スルモノ七八戸ヲ招キ移住セシム乃チ之ヲ各地ニ配置シ土人ヲ統率使役セシメ爾来稍々漁業ノ便ヲ得タリト云フ其後子孫相襲キ三代與五左衛門ニ至リ祖父ノ遺業ヲ拡張シ文化七年尾札部村支郷トゞホッケ(今ノ椴法華村)字アイドマリ海岸ヲ相シ漁場ヲ開鑿ス鰤曳網ヲ下ス文政二年東蝦夷地樽前及長万部等ノ各地ニ漁場ヲ新開シ鰯引網ヲ設ク同五年又落部ノモノタイ森ノ新川ヲ新鑿シテ漁場トナスモノタイノ地ハ北海ノ□ニ面シ小巒其後ヲ擁シ岩石碁布漁舟ヲ出スニ便ナラス山ヲ崩シ岩石ヲ除キ多額ノ金ヲ費シ漸ク漁場ト為スヲ得タリト云フ是ヨリ鰊引網ヲ設ケ新開漁場五ヶ所ニ就テ大ニ漁場ヲ拡張セリ與五左衛門人トナリ温厚慈愛貧困ヲ救濟シ能ク土人ヲ撫育セルヲ以テ松前藩主屢々物品ヲ與へ其功ヲ賞セリト後奉ラレテ里正トナル當代與五左衛門亦祖先ノ業ヲ継キ明治九年中尾札部村ヘ鰊建網ヲ設ク當村建網アル之ヲ始トナス然モ其功績今日ニ至ル迄テ之ヲ称スルハ初代及三代與五左衛門ニ在リ漁業ノ景況ハ舊記ナク之ヲ詳ニスルヲ得サルハ甚タ遺憾トスル所ナリ其概略ヲ挙クレハ別表ノ如シ
[概略表]
(2)小川幸吉
故 小川幸吉事蹟
函館縣渡嶋國茅部郡臼尻村平民
追賞金十圓 故 小川幸吉
幸吉ハ青森縣陸奥國下北郡佐井村幸右衛門ノ長子家貧シ常ニ居ヲ北海道ニ移シ独立漁業ヲ興サン事ヲ希圖ス寛政十三年庚申三月遂ニ家ニ辞シ単身北海ニ渡リ暫ク臼尻村東出多五右衛門ニ雇役セラレ意ヲ漁事ニ注ク事二年後終ニ同村ニ小家ヲ結ヒ専ラ昆布採取及鱈鮃釣ニ従事ス是幸吉独立営業ノ始トス當時適臼尻湾内ニ鰮魚ノ麕集スルヲ見文化三年始テ鰯網ヲ製シ同村字臼尻ニ鰯漁場ヲ開鑿シ更ニ漁夫ヲ傭ヒ拮据該業ニ従事スル玆ニ年アリ然モ尚未タ足レリトセス益漁事ヲ盛大セン事ヲ圖ル遂ニ諸方ヲ巡廻シ文化十癸酉年茅部郡尾白内村ニ鯡差網ヲ設ケ一ノ漁場ヲ開鑿シ漁舎倉庫ヲ建テ鰊引網ヲ営ミ連歳ノ豊漁ヲ得又文化三年中胆振國有珠郡虻田字ベンベ濱中及山越郡山越内字山崎ノ二所ニ鯡鰊鰯漁場ヲ開ク而シテ虻田ノ鯡漁終ルヲ須テ夏期山崎ニ於テ鰯漁ス同年中又亀田郡銭亀澤ニ鰯漁場ヲ設ケ山越内ノ鰮漁ヲ終リ秋季銭亀澤ニ至テ漁スル等季ヲ追ヒ候ヲ謀リ該業ニ鞅掌ス天保初年本村村吏松山斧右衛門ナル者同村ニ鮭建網ノ設ナキヲ憂ヒ自ラ持場ヲ巡視スル毎ニ建網ヲ創始セン事ヲ企望スル処シ然トモ當時該網ノ鮭漁ニ利アルヲ識ル者ナク荏苒年ヲ度ル幸吉更ニ斧右衛門ノ傅習ヲ得奮テ臼尻村字辨天嶋ニ漁場ヲ開キ天保十三年初テ辨天沖合ニ建網ヲ試ムト雖モ連歳ノ薄漁得喪相償ハス巨多ノ損失ヲ生シ志ヲ達スル能ハス然モ素志ヲ屈セス文政年中再ヒ之ヲ試ミントシ曽テ松山氏ノ南部地方ヨリ雇入レシ田鎖丹蔵ト共ニ該網漁業ノ方法ヲ盡シ弘化元辰年初テ之ヲ試ミ實功ヲ奏スルヲ得又臼尻湾中鮪魚ノ群集スルヲ視猶建網用法ヲ丹蔵ト議スル事二年弘化三年中復ヒ同村辨天島沖合ニ於テ至レリ(漁場ハ辨天島ノ鮭場及字臼尻ノ鰮漁場ヲ以テ兼用ス)先是幸吉鮭鮪ノ建網皆麻絲ヲ用ヒ費用巨額ヲ要シ其益少ナキヲ察シ之カ改良ヲ圖ラン事ヲ欲シ日夜心ヲ労シ歳月ヲ積ミ遂ニ全網藁繩及實子繩ヲ以テ製造スル事ヲ發明シ嘉永二年初テ之ヲ試用スルニ費用大ニ減シ漁獲却テ糸網ニ倍スルノ収獲アルニ至ル幸吉前後漁業ニ従事スル五十餘年一日ノ如シ玆ニ至テ一家独立基業全ク成ル其後虻田銭亀澤ノ鯡鰮漁収益ナキヲ察シ之ヲ廃シ更ニ尾白内村字中ノ川石倉村字本内ニ漁場ヲ開キ安政二卯年両所ニ鯡建網ヲ設ク年餘安政五年中熊泊村字黒羽尻へ鮪漁場ヲ設ケ山越内村字山崎ノ鰮漁及居邸前ニ於テ鮭鮪鰮ノ三業ヲ営ムト雖モ幸吉年巳ニ老ヒ就業ヲ為ス能ハス明治十二年家ヲ長男幸松ニ譲リ退隠ス明治十四年九月廿三日病没ス享年九十有六幸松父ノ業ヲ享ケ益々漁業ヲ盛大ニシ山越内村ノ鰯漁ヲ廃シ更ニ明治十二年臼尻村字二艘澗ニ鮪漁場ヲ設ケ鮪網二統鮭網一統鮪建網二統鯡建網三統鰯引網三統ヲ建テ愈々漁業ヲ拡張ス然レトモ全ク祖先小川幸吉ノ起原遺業ニ原由ス其地形及新開漁場費用収獲等ハ左ノ如シ
[表]
右に掲げた事蹟のほか、与五左衛門と幸吉については、青江秀「北海道巡回紀行」(明治一九年)にあり、ひとり与五左衛門としている椴法華村郷土誌(大正六年)付録資料に記されるものもある。文の記述からみて、これは明治一六年尾札部村戸長役場、または飯田家から差し出した草稿の写しのようである。
(3)飯田・小川建網等漁場開発の沿革
これから与五左衛門と幸吉の建網と引網の漁業開発のあゆみを明治初期、地元の戸長役場でまとめた資料と思われる①北海道漁業功労者事蹟 ②水産物功労人名事蹟調 ③亀田郡椴法華村郷土誌 ④青江秀「北海道巡回紀行」と⑤昭和四二年の小林「南茅部町史年表」の五件から漁場開発年表(別表)に抜粋してみた。
与五左衛門については六代にわたる漁場の開発であり、二百年に及ぶ事蹟の中には多少不明瞭なものもあるが、代々の事蹟としては得難い資料である。
また、幸吉の事蹟は、幸吉と幸松の二代となっている。
与五左衛門と幸吉の建網・引網漁場開発
[飯田与五左衛門・小川幸吉関連年表]
①北海道漁業功労者事蹟 ②水産物功労人名事蹟調 ③亀田郡椴法華村郷土誌
④青江秀「北海道巡回紀行」 ⑤小林露竹「南茅部町史年表」
④青江秀「北海道巡回紀行」 ⑤小林露竹「南茅部町史年表」
年 | 人物 | 漁場 | 網の種類 | 出典 |
明暦~延宝五年 | 初代 与五左衛門 | 尾札部村八木浜 | 鰯引網 一ヶ統 | ①②③ |
(一六五五(~一六七七) | ||||
寛文二年(一六六二) | 初代 与五左衛門 | 不詳 | 鮭建網 一ヶ統 | ①②③ |
享保一二年(一七二七) | 初代 与五左衛門 | 不詳 | 鮭建網 | ①②④ |
文化三年(一八〇六) | 幸吉 | 臼尻村 | 鰯引網 一ヶ統 | ①② |
〃 | 幸吉 | 山越内村 | 鰯引網 | ④ |
〃 | 幸吉 | 虻田村 | 鯡漁業 | ④ |
〃 | 幸吉 | 尾白内村 | 鯡漁業 | ④ |
文化七年(一八一〇) | 三代 与五左衛門 | 椴法華村アイトマリ | 鰤引網 一ヶ統 | ①②④ |
〃 | 三代 与五左衛門 | 椴法華村アイトマリ | 鰯引網 | ③ |
文化一〇年(一八一三) | 幸吉 | 尾白内村 | 鯡引網 一ヶ統 | ①② |
文政二年(一八一九) | 三代 与五左衛門 | 長万部ポロナイ | 鰯引網 一ヶ統 | ①②③④ |
〃 | 三代 与五左衛門 | 胆振樽前 | 鰯引網 一ヶ統 | ①②③④ |
文政三年(一八二〇) | 幸吉 | 虻田ベンベ浜中 | 鯡建網 一ヶ統 | ①② |
〃 | 幸吉 | 山越内村山崎 | 鰯引網 一ヶ統 | ①② |
〃 | 幸吉 | 銭亀沢 | 鰯引網 一ケ統 | ①② |
文政五年(一八二二) | 三代 与五左衛門 | 森新川 | 鯡引網 | ②③ |
〃 | 三代 与五左衛門 | 落部モノタイ | 鯡引網 | ②③ |
〃 | 三代 与五左衛門 | 落部モノタイ | 鰯引網 | ④ |
天保三年(一八三二) | 四代 与五左衛門弟 | 島歌 | 鮪建網 一ケ統 | ③ |
堺長次郎 | ||||
天保一〇年(一八三九) | 三代 与五左衛門 | 黒鷲岬 | 鮪建網 一ケ統 | ⑤ |
幸吉 | 弁天島沖 | 鮪建網 一ケ統 | ⑤ | |
天保一三年(一八四二) | 幸吉 | 弁天島 | 鮭建網 一ケ統 | ①②④ |
弘化元年(一八四四) | 幸吉 | 南部田鎖丹蔵を雇い鮭建網 | ④ | |
(実子繩) | ||||
弘化三年(一八四六) | 幸吉 | 弁天島 | 鮪建網 一ヶ統 | ①②④ |
安政二年(一八五五) | 幸吉 | 尾白内中ノ川 | 鯡建網 一ヶ統 | ①②④ |
〃 | 幸吉 | 石倉村本内 | 鯡建網 一ヶ統 | ①②④ |
安政五年(一八五八) | 幸吉 | 熊泊村黒羽尻 | 鮪建網 一ケ統 | ①②④ |
〃 | 幸吉 | 臼尻村長磯 | 鮪建網 一ケ統 | ④ |
〃 | 幸吉 | 尻岸内村古川尻 | 鰯(引)網 | ④ |
明治六年(一八七三) | 幸吉 | 臼尻村垣ノ島 | 鮪建網 一ヶ統 | ② |
明治九年(一八七六) | 六代 与五左衛門 | 尾札部村八木の澗 | 鯡建網 二ヶ統 | ①②③④ |
明治一二年(一八七九) | 幸松 | 臼尻村二艘澗 | 鮪建網 一ヶ統 | ①②④ |
〃 | 幸松 | 尾白内村 | 鯡建網 一ヶ統 | ④ |
〃 | 幸松 | 石倉村 | 鯡建網 一ヶ統 | ④ |
(4)大謀網創始諸説
与五左衛門と幸吉により、天保一〇年、鮪建網が北海道で創始したというのは定説化している。しかし、なお天保年間、または天保中とするものが多い。その創始の年代が確たる証拠がないからである。
多くの文献資料をもとに、創始の諸説を発表の年代順に特定の項目、内容の表記を抜粋して次ぎに掲げる。
大謀網創始諸説
刊行年 | 書名 | 創始年 | 網 | ||||
1 | 弘化二年 | (一八四五) | 蝦夷日誌 | 天保中 | 松山斧右衛門 | 能登の人 | 鰤建網 |
鰤網師 | |||||||
2 | 万延二年 | (一八六一) | 幸吉 願上状 | 天保一三年 | 松山斧右衛門 | 鮭建網秋 | |
(一八四二) | 臼尻 幸吉 | ||||||
3 | 明治一六年 | 椴法華村郷土誌 | 天保三年 | 四代與五左衛門弟 | 田鎖 | 鮪建網 | |
北海道漁業功労者事蹟 | 堺長次郎 | ||||||
4 | 明治一九年 | 青江秀 | 天保一三年 | 小川幸吉 | 田鎖 | 〃 | |
北海道巡回紀行 | 弘化三年 | ||||||
(一八四六) | |||||||
5 | 〃 | 〃 | 嘉永二年 | 川汲 小板久兵衛 | 田代寛左衛門 | 〃 | |
田鎖 | |||||||
6 | 明治二五年 | 北海道水産予察調査報告 | 嘉永年間 | 日浦 | 田鎖 | 〃 | |
尾札部 | |||||||
7 | 明治三九年 | 尾札部村第二部落記録 | 嘉永四年 | 掛澗村松山方 | 田鎖 | 〃 | |
8 | 明治四〇年頃 | 茅部郡 | 田鎖 | 〃 | |||
〃 | 嘉七大房 | 〃 | |||||
〃 | 安政四年 | 清水角之助 | 〃 | ||||
(一八五七) | |||||||
9 | 明治四四年 | 函館区史 | 天保一〇年 | 幸吉・与五左衛門 | 田代寛左衛門 | 〃 | |
(一八三九) | 田鎖 | ||||||
10 | 大正 七年 | 北海道史 | 天保中 | 幸吉・与五左衛門 | 田鎖 | 〃 | |
11 | 昭和一○年 | 函館市誌 | 天保 | 幸吉・与五左衛門 | 田代寛左衛門 | 〃 | |
田鎖 | |||||||
12 | 昭和一二年 | 新撰北海道史 | 天保中 | 幸吉・与五左衛門 | 田鎖 | 〃 | |
13 | 昭和 年 | 山口和雄 | 天保中 | 幸吉・与五左衛門 | 田鎖 | 〃 | |
日本漁業史 | |||||||
14 | 昭和三二年 | 北海道漁業史 | 嘉永の頃 | 田鎖 | 〃 | ||
15 | 昭和四五年 | 新北海道史 | 天保年間 | 幸吉・与五左衛門 | 田鎖 | 〃 |
考 察
(1)鰤網師を招く
「蝦夷日誌 巻五」(松浦武四郎)臼尻村の項に、
「十年前より、此辺に鰤魚多くよせ來るよし也。然し此辺は、近年迄は鰤を捕る仕懸をしらず、其儘打捨置候由、残念と云も余有事也。
然るに近年箱館役人松山斧右衛門と申者、能登の国へ右鰤網を巧者にいたし候者を頼に遣し、始る其年に松山氏死去いたし、其鰤網師も当地に來り其儘にいまだ手を空しくして居りしが、去る申年(天保七丙申年)に八月中旬両三度此澗に魚多く寄せ來り、如何にも其仕懸はなし、鱒網を入て凡四千本も取しよしなれども、かかる大魚に鱒網を入し故に、右臼尻より尾札部迄の鱒網一条として損せざるはなし。皆すん/゛\に破裂たり。
今此処にて金引苧二十五両分斗、糧米五十俵、人足日雇賃十七、八両代、元手を仕込候人有之候はヾ、若干の利を得べきに、兎角此地は疑深き土地風故に誰も其を仕込候ものなしと語りき。扨其翌年よりは金引苧纔五両づつさへたし行ばよろしきよしを聞待りけるまま、しるし置ものなり。」
と記している。
小川幸吉の文書に、幸吉が万延二年(一八六一)二月、奉行所へ差し出した願上の控え書がある。(共同網・境界争に詳述)
乍恐以書附奉願上候
私網取建之義ハ、天保十三寅年、私領御掛役松山斧右衛門様ゟ被仰付、其砌者茅部村ゟ椴法花村ニテ廣場ノ處於今秋味場一ヶ所モ無之ニ付、取開被仰付御開成ノ御趣意且後年之利益等迄厚ク御諭ニ預候得共、素ヨリ不案内之者共ニ御座候得者御開候モノモ無御座候。内尚種々御利解ニテ私ニ試ミノ為メ取開可致旨被仰付候ニ付、當網場弁天嶋沖之島東岸へ取開漁業仕候處、諸事不案内之事故思敷漁事モ無之、諸入費不少年々莫大之損金ニ相成候得者、引續方難斗當惑仕候。乍併格別之御趣意ニ御座候間相續ク迄ト心得膽精励シ漁業仕候處、年増網立方場所柄モ段々心得、少ハ漁事ニモ相成、此分ニテハ引續テ可相成被存候間精々骨折罷在候。其後久右衛門頭取勤中ニ至リ漸々網場取開之事トモ有之候ニ付場所割渡ニ相成、其節初テ村網場撰、字シロイハト申所相定メ、私方ヘハ是迄之場所御渡ニ相成其外夫々御引渡ニ相成候間一同難有漁業仕在候(以下略)
(2)嘉永七年「書上」
南茅部町史にとって大謀網発祥の史実は、大きな意味をもっている。この史的根拠を明確にすることは町史の大事な課題である。
町史の調査の中で、大謀網創始の天保一〇年という年代を証明することができるかということにもなる。
松浦武四郎は弘化二年(一八四五)、臼尻に巡回のとき「まだ鰤網の仕懸がなかった」と、土地のものからの聞き書きを記している。
天保一〇年(一八三九)鮪建網発祥と、弘化二年(一八四五)の鰤網とは実際異質のものであり、創始の頃の鮪網は網目も大きく、鮭(秋味)網とは大きな違いがあった。
大正中期まで尺目の大網を用いた鮪網は、ただ大鮪専用の漁網であった。
地元の郷土誌を孫びきしている北海道史・漁業史関係の史書をもって引用するだけでは論証されない。地元小川家の文書に天保年間創業の記録がある。
嘉永七年箱館在六箇場所の書上(市立函館図書館蔵)には、鮪の魚獲高を次のように記している。
木 直 三七石 一、五〇〇貫
尾札部 三七五石 一五、〇〇〇貫
臼 尻 三五石 一、四〇〇貫
熊 泊 一三五石 五、四〇〇貫
計 五四八石 二三、三〇〇貫
しかし、網有高の項に鮪網の記録はない。
漁網 嘉永七年六箇場所書上
鰯引網 鯡差網 鰤差網 鱈釣這繩 鰤引網
小安村 大小 二 六五 一六
釜 石 一 二〇 六
汐 首 二 三四
瀬田来 一 九五 六二
戸 井 二 五一 二一
鎌 歌 二 二五 六
日 浦
尻岸内 大小 三 五〇
古武井 一 二〇 六〇
根田内 二 二〇〇 一五〇
椴法花 一 八〇 二
木 直 大小 二 二三〇 二三〇
尾札部 大小 三 一五〇 二〇〇 一
川 汲 一 一七〇 三〇〇
板 木 一七〇 三〇〇
臼 尻 二 三〇〇 三〇〇
熊 泊 五〇 二四〇
鹿 部 二 一〇〇 一六五
砂 原 三 一、九六〇 三五〇
掛り澗 大小 二 七三〇
尾白内 大小 二 八五〇
森 二 九五〇
鷲ノ木 三 九二〇 二〇〇
棒 美 一 二〇〇 五〇
蛯谷古丹 二〇〇 四〇
本茅部 二 二五〇 七〇
石 倉 九五 五〇
茂無部 一 二五〇 四五
落 部 大小 二 四〇〇 九五
野田追 小網 二 三五〇 五六