浅利頼平の怪死

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浅利頼平は一度下された裁定に不満を持ち、さらに有利な裁定を勝ち取ろうと企てていた。頼平は、慶長二年、上洛命令によりへ向かい、九月三日に「御検地之年秋田方へ仕軍役物成上申候覚」と「比内千町と申習候村数之覚」の二通を作成し、奉行長束正家に提出している。この二通の覚書は、浅利氏秋田氏へ納めた軍役物成太閤蔵入地からの年貢米伏見作事板の運上の決算報告書であるが、浅利氏はこの覚書で、年貢徴収ができないのは秋田方よりの放火・「なてきり」が理由であると弁している。この浅利氏の行動を秋田氏は、前田利家の調停を無視した不届きの行為であり、さらに自分に対して虚言を仕掛け重々不届きであるため成敗しようとしていたと述べている。
 ところが浅利頼平は、翌慶長三年正月八日、突然怪死する。『浅利軍記』では、浅利・秋田両氏が大坂に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時、実季が陰謀をもって浅利氏供奉(ぐぶ)してきた家臣佐藤大学(さとうだいがく)らによって毒殺させたという。また、『源姓浅利氏由緒書』では、秀吉の裁定により浅利氏が勝利を得たとき、浅利氏が召し連れていた一門の浅利牛蘭(ぎゅうらん)、家臣杉沢喜助片山駿河佐藤大学らが裏切り、毒殺したとされている。
 いずれにしても奇怪な頼平の死であり、実季は頼平の怪死に伴って、自己の身に降りかかる危機を回避するため、阿部伊予守を介して徳川家康に慶長四年閏三月二十七日の申状(秋田家文書)で、浅利騒動における浅利方の不正と自己に非がないこと、何事も上意に背かない旨を弁している。前年の慶長三年八月十八日に秀吉が死去し、秀吉政権が急速に弱体化しつつあるなかで、豊臣政権の政庁である伏見城において家康は国政を執っていた。実季は従来から佐々正孝長束正家ら集権派の奉行と深く結合していたが、秀吉死後、伏見城に移り「天下様」と評判され勢力を拡大していた家康に対して、是が非でも保身を図るために弁する必要があった。
 一方、津軽為信の子信建(のぶたけ)は、浅利氏支援についての実季からの詰問に答えるため慶長三年八月二十六日の書状で、浅利氏秋田氏家臣であることに相違なく、いかように処理してもかまわないこと、また比内地方への塩売却については塩商売は比内に限らずどこへでも売却しており、別段浅利氏を支援したわけではないと弁している。津軽氏も、浅利方に加担したことによってもたらされる危機を必死になって回避しようとしていたのである。

図37.浅利氏支援に関する実季の詰問に答えた信建の書状写

 頼平死後、伏見にいた浅利妻子はなお秀吉側近の内儀(ないぎ)衆の一人である「おちやあ」に頼り、頼平の跡目のことを依頼していた。また、比内では頼平の弟頼広(よりひろ)らが留守を預かり、武力でもって秋田方の比内領有を阻んでいた。しかし、結局は笹館城での頼広の討死と子の頼治(よりはる)の没落という結果となった。その後、比内は実季の弟であり南部信直の娘婿である秋田英季がその支配に当たることになった。