西廻海運が実現すると、上方廻米に利用される廻船の多くが大坂での雇船となった。しかも、積米の不足を訴えるほど潤沢な雇船が存在し、不足分を材木で補うこともあった(「国日記」元禄二年四月二十九日条)。そして、さきにもみたように、これらの雇船は、西廻海運の成立によって拡大された、大坂市場と結ぶ瀬戸内海沿岸の海漕業者の進出によるものであり、中心は塩飽諸島・備前・摂津などの地域であった。これらは、河村瑞賢(かわむらずいけん)が、幕府城米廻漕の官船に採用した地域の船と一致しており、その規模は、元禄十四年(一七〇一)の例では、五〇〇石から八〇〇石積の船が多い。船の規模は、藩によって一定の制限を加えることで、海難による損害を軽減しようとしていたとも受け取れる(印牧前掲論文)。
これら雇船は、藩の町人蔵元によって派遣されたものであった。すなわち、大坂廻着の雇船は、多くが蔵元によって雇われ、廻米の販売が行われたのであった。国元と大坂間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた敦賀廻着の段階と異なり、隔地間の価格差による利ざやを得ることが可能となるシステムが確立した。
また上方廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と金融とを結びつけることとなった。たとえば、京都の井川善五郎は、大坂廻米が行われる寛文十二年(一六七二)以前から弘前藩とのつきあいがあり(印牧前掲論文)、延宝七年(一六七九)には、大坂廻米全量に当たる二万七〇〇〇石を井川への借銀返済に充てている。さらに、このとき、蔵米販売は、米とその代銀の脇払いを禁止して行われており、敦賀廻着のときにみられた、藩の手による蔵米販売は不可能となってきているのである。さきにみた、貞享四年(一六八七)に上方廻米量が五万石に設定されることになった背景は、藩財政が自立性を失い、上方商人への金融面への依存度が強まったことによる。
金主の数も年を追うごとに増加する傾向にあり、元禄中・後期には数十人に及び、その大部分を京都町人が占めていた。そして、これら金主の中には、蔵元や掛屋に任用され藩財政にかかわる者も現れた。一方、藩では金主の衰退をみるとその関係を変更した。金主の衰退の原因は、借金(銀)返済の遅滞と、彼ら自身が複数の藩と金融関係を結んでいたことにあった。上方で金主と借金(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。しかし、国元が凶作などでの理由で廻米の中止や不足が生じると、これら交渉担当者は、苦しい立場に置かれた。金主たちは、国元不作の情報を手にすることもあり、新たな借金(銀)になかなか応じず、その返済を求めた。また、上方での交渉が思うように進展しない場合、金主や手代が江戸や国元へ出向き、直接交渉に及ぶこともあり、藩は返済方法や利率の変更に追い込まれることもあった(印牧前掲論文)。
西廻海運による上方廻米は、全国市場として成長しつつあった大坂市場へ包摂(ほうせつ)されるものであった。弘前藩は、藩財政を支えるためには、北国諸藩のなかでも加賀藩に次ぎ秋田藩と並ぶほど、より多くの蔵米を大坂廻米に振り分けざるをえなかったのである。