地方知行制の復活と借知制の実施

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正徳二年八月二十六日、地方(じかた)知行制の復活と、さらに六ツ物成給付が達せられた(『記類』上)。貞享期以来続いてきた蔵米制の廃止が決定され、地方知行制が復活したのである。蔵米制知行宛行状では藩士に宛行(あてが)われる知行高のみの記載となっているが、これが地方知行制になると、目録(知行帳)が別に付され、それに地方知行の内容(知行所・知行高など)が記載されるのである(資料近世1No.八一五)。
 この知行制度の変更は、背景に家臣団の困窮という問題が存在していた。同年九月十五日、家中への達書にそれがよく示されている。そこには、家中が困窮したために地方知行に変更したことが述べられるとともに、家中の負担を軽くするための対策が併せてとられているのである(「国日記」正徳二年九月十五日条)。さらに、宝永期にまった譜代層を中心とする家臣団の不満への妥協ということもいえるであろう(浪川健治「宝永期藩政の位置づけについて」『弘前大学国史研究』八八)。
 地方知行制の復活に伴って、同年九月から各給人(一般に地方知行を宛行われている家臣は、「給人」ないし「地頭」と呼ばれる)に対して、知行村と農民を割り付けた知行帳が渡された。彼らの知行所は領内各所に分散している。まとまって一村に知行地を持っているのは下級給人に限定され、そうした場合でも一村内で相給(あいきゅう)(一村を複数の領主が分割して知行すること)が原則とされ、一人の給人が独占的に一村支配ができないような形になっていた。
 本来、地方知行制は、家臣は主君から宛行われ安堵された知行所を自己の裁量で支配・経営し、これを給養地として、自己の責任で軍事力(武器・馬・兵糧・従者)を調えて主君に奉公するというものである。その点、所領の細分化という事態、および年貢率が藩によって定められている状況は、本来的な地方知行制とは異なる。すなわち、地方知行制がこのころにはまったく名目的なもので知行所からの一定量の年貢家臣に保証しているに過ぎないのである(笠谷和比古『主君「押込」の造―近世大名家臣団―』一九八八年 平凡社刊)。
 給人は、自らの知行地からあがる年貢米を売却することで財政を維持したが、この年貢米の売却に際しても藩が規制を加えていた。たとえば、米の陸送が藩の津留(つどめ)にあって止められたりする(「国日記」正徳四年三月二十五日条)ことなどからもそれがうかがえる。
 知行地をめぐっては、その荒廃などを理由として給人から知行地の差し替え要求が頻繁に行われたが、給人の意図どおりになることはそう多くなかった(同前正徳四年三月二十八日条)。一方で、名目と化していた地方知行制の実効的支配を狙う給人も存在した。たとえば、知行所の百姓の一人が屋敷地が田畑より遠く難儀していることを理由に、百姓に耕作させる土地を得るという名目で繰り替えを願い、少しでも有利な条件の知行所を得ようとした藩士間宮蔵人の事例が代表的なものである(同前享保元年八月十二日条)。