十八世紀半ば以降は、上層農民・在方商人が発展した時期であった。
飯詰村(いいづめむら)(現五所川原市飯詰)の飯塚家(いいづかけ)は、北屋の屋号を持つ在郷の商人である。飯詰村は下の切(しものきり)地方(梵珠山地の西麓の地域)の開発の中心であり、藩の代官所(下の切遣、ついで飯詰組)が置かれ、さらに寛文三年(一六六三)には、藩から黒石・板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳町)・浅虫(あさむし)(現青森市浅虫)とともに大場(町)に指定されている。さらに、宿場でもあり、これらの要素があいまって、在町として発展していった。元禄七年(一六九四)の段階で酒屋が四軒、質屋が二軒あったという(『みちのく双書 二二 平山日記』一九六七年 青森県文化財保護協会刊)。これは、町場としての発達を背景に、商品経済が地域社会に浸透していったことにより、上層農民や在郷商人らが営業に着手したものと考えられている(『五所川原市史』史料編2上巻)。
元禄の大飢饉の際、酒屋は酒造りを禁じられ、大きな打撃を受けた(「国日記」元禄十年十一月十一日条)。このような酒屋から株を買い取り、酒屋の経営を開始したものが存在した。宝永二年(一七〇五)の北屋の例は、それである。さらに享保四年(一七一九)には質屋業に進出し、同十八年(一七三三)年段階では、木綿・細物など、衣類・反物などを扱う商売にも手を伸ばしていた(同前)。
さらに延享期に入ると、北屋は上方の商人との取引を積極的に行い、木綿や砂糖などを仕入れている(同前)。さらに、北屋と提携した上方商人長浜屋源左衛門は、弘前藩の蔵米の売却にもかかわっていた(『五所川原市史』通史編1)。
このように発展していった在郷の商人や、質地を集積した村役人などの上層農民に、財政難に陥っていた藩が着目した。その一つの典型が藩から賦課された御用金(ごようきん)である。御用金とは、藩が財政の不足を補うために、富裕な町人・農民から強制的に借用したものである。享保十三年(一七二八)、飯詰村の三右衛門は、自らに課せられた御用金五〇両のうち、三〇両は藩への返済金を充て、残り二〇両分は所持の米二五〇俵を青森で売却し、その利益を上納することを願い出て許されている(「国日記」享保十三年四月二十二日条)。返済分を上納金に充てるということは、この御用金が実質的に在郷の有力な人々から藩が召し上げるという側面を持っていたことにもなる(『五所川原市史』通史編1)。延享元年(一七四四)七月、藩では、干ばつによる被害と、藩主信著の死去(五月二十五日)とそれに伴う代替りのため、御用金を課した。これは弘前・青森・鰺ヶ沢などの町人のほか、在郷の人々にも賦課された(「国日記」延享元年七月五日条)。
また、寛延三年(一七五〇)四月には、近年の凶作に加え、前年の不作によって御蔵納米が大いに不足し、皆無作の村々への種籾や御救米の支給で財政面で困難をきたしたとして、城下町人ばかりではなく、在方を含む領内の富裕層に対して御用金を賦課した。その総額は八三二〇両、米三〇〇〇俵にも及ぶものであった(同前寛延三年四月五日条)。逆の見方をすれば、藩がこれだけ領内の富裕層に御用金を賦課するのは、彼らがそれに対応できる財力と資産を有していたからである。