他の産品で比較的、政策的な流れがわかるのが養蚕で、その経緯も漆と共通するものがある。養蚕は元禄期に京都の野本道玄を招いて本格的に導入された産業である。養蚕の中心地である北関東・南東北に比べれば低調で十八世紀には衰微したが、十九世紀に入り再び奨励策が出された。養蚕取扱方になったのは御用商人武田甚左衛門(後の金木屋)で、彼は文政六年(一八二三)から養蚕の盛んな秋田領や伊達領梁川(やながわ)に赴いて教師を招き、さらに領内各地を回って指導に努めたので、文政十二年には養蚕が秋田並みに盛んになったとして藩主から報奨を受けている(「国日記」文政十二年十二月二十一日条)。甚左衛門はさらに機織座(はたおりざ)を弘前城下に経営、糸取りの女二〇〇人を雇い、領内では初めての龍紋縮緬も生産されるようになったという。しかし、この養蚕も天保の飢饉で廃絶した。再び復活するのは開港によって輸出品としての生糸の需要が増えた幕末期で、文久元年(一八六一)に藩は改めて養蚕奨励の触書を出し、養蚕・桑の仕立ての希望者を募り、桑の木の保護を行っている(国日記)。この際甚左衛門の二代後になる熊七が養蚕方御用達に再び任じられている。
図171.武田甚左衛門に関する国日記記事
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ほかの産業で十九世紀に盛んになったのは製陶で、伊万里焼の技術を学んだ大沢焼、藩主津軽寧親の命で文化七年(一八一〇)から始まった下川原(したかわら)焼、肥前から陶工を招いた悪戸(あくど)焼など九州の技術を導入した製陶が行われるようになる。悪戸焼は松前、秋田方面にも移出され、藩は嘉永三年(一八五〇)に至り、他領からの陶器の移入を禁止している。逆にこの時期、馬産のごとく天保十年(一八三九)に経費節減のため藩営牧場五ヵ所が廃止になるという例もあった。南部領では馬は重要な国産品であったが、津軽領では産業としての馬産はふるわなかった。
津軽領の国産品奨励策は以上のように漆を除くと個別的・単発的なものが多く、藩政改革期においても年貢収入を補い、直接財政再建に寄与したという傾向はうかがえない。