当藩でも歴代藩主が能を催している。二代藩主津軽信枚は、寛永七年(一六〇三)四月に弘前城能舞台での能を命じているが、具体的な内容についてはわからない(「秘苑」)。
四代藩主信政は、延宝二年(一六七四)八月二十一日に弘前城本丸書院前の白砂に能舞台を作らせた(「国日記」)。
この新造なった能舞台で、延宝二年十一月二日・三日・十二日と三日間にわたって能が演じられた(同前)。二日には城内各所に徒目付・足軽目付・足軽を配置し、足軽の中から特に火消番を命じて警備に当たらせた。書院菊之間の床飾りには法印筆の朝・昼・暮の三幅対を掛け、床の中央と違棚の押板に梨地蒔絵の刀掛を置いた。菊之間に藩主信政、黒石津軽家二代信敏、流罪で預人となっていた対馬藩元家老柳川調興(しげおき)、藩主の弟信章(のぶあき)が入り、東側に小屏風を立て藩主家の人々が座った。竹之間には台子を飾り、物頭から医者までが座った。溜之間には手廻両組が入り、詰座敷二之間の長炉には釜を据えて茶を出した。衣服は、一門と老中は熨斗目(のしめ)・麻上下(あさかみしも)、物(者)頭で熨斗目所持の者は熨斗目、手廻よりは染小袖・麻上下を着用させた。書院前の白砂には町人を入れて見物を許した。ただし、年齢が十五歳に満たない者・病人・女出家・山伏・白衣を着る者・脇差を帯びる者・変わった衣類を着る者・老衰で歩行不自由な人は認めなかった。
能は、翁・高砂・頼政・妥女・紅葉狩・桜川・善知鳥・金札、狂言は、末ひろがり・ぬけがら・いくゐ・ものまね・しびりで、卯の中刻(午前六時ころ)から申の終刻(午後五時ころ)まで演じられた。紅葉狩の後に中入りとなり、菊之間では塗の膳で料理三汁九菜・酒三献・吸物・肴一種・菓子・濃茶が出された。見物の藩士へも身分に応じて料理が出された。町人には藩主が出入りの時は手をつくこと、見物中はみだりに立ったり騒いだりしないこと、菓子を与える時は競り合いをしないことの注意があり、中入りで見物人を入れ替えた。
図32.弘前城本丸御殿絵図の能舞台
翌三日には、信政の生母久祥院と三代藩主信義の側室長泉院・全久院、藩士堀伝左衛門の母と妻等の女中、目見えが済んだ藩士の嫡男に見物させた。この日も藩主が出座し、津軽信敏・柳川調興・津軽信章が同席した。
三日目の十二日には、信政が出座し藩士から町人までの見物を許した。
この三回行われた能はいずれも「翁」から始まっている。これは信政の好みによるものらしく、太鼓打ち奥田庄左衛門に対し、能を催す時は必ず翁を演目に加えること、翁の面は朝日の出る時刻に渡すと話したという。
このように、信政は新装なった能舞台の披露に、柳川調興を含め、藩主家の人々から町人までの見物を許した。能を見物させ料理・菓子を与えることは、藩主の仁政の一つであり、同時に権勢を示す絶好の機会でもあった。
信政は、そのほかにも延宝五年(一六七七)から謡初(うたいぞめ)を正月三日に行うことを決め(「秘苑」)、貞享元年(一六八四)十二月には朱印改めにより、将軍から下付された朱印状頂戴に対して、祝儀のための能を催し(『御用格』寛政本)、元禄十四年(一七〇一)五月六日には、百沢寺(ひゃくたくじ)などとともに弘前近辺の諸寺を招いて能を見物させた。
また、江戸藩邸においても、信政は何度か能を催している。延宝三年四月三日に参勤によって江戸藩邸へ入った信政は、四月八日には能を催し、この時三代藩主信義の正室桂林院は、御簾内で見物した(「江戸日記」)。閏四月二十二日には毘沙門堂門主公海(こうかい)を招いて能を催した(同前)。公海は天海の弟子で、京都の毘沙門堂を復興し、家光の命で天海の跡の寛永寺を継いだ人物である。この日は信政が自ら八ツ前(午後一時ころ)に公海を玄関に出迎え、料理は二汁七菜で、吸物の後、喜多七太夫が小謡を謡い、料理後に能が始まり、五ツ過(午後九時ころ)に終わった。十二月十一日には柳原中屋敷で、三代藩主信義の正室桂林院、土井利房へ嫁した姉万とその息女、黒石津軽家信敏の正室、信政の側室らとともに能を見物し、同二十一日には客の七沢雲晴・平野丹波とともに年忘れの能を催した。翌四年二月十一日には、義兄土井利房を招き、料理のあと能があり、その後小座敷へ移り、蒸菓子・蕨餅が出され、信政自ら薄茶をたてて接待した。
五代藩主信寿は、享保七年(一七二二)十一月、城内浪之間で、自ら慰みの能三番を命じている(「国日記」)。
七代藩主信寧は、年賀、参勤の発駕、入部の際の祝儀に能を催し、役者・囃方の稽古をみ、自ら慰みの能を舞った(『御用格』)。